後日談 宵に立つ


「如何してあの男を殺さなかった?」


椿が目覚めたのは、マフィアの最新医療器具の並ぶ医務室ではなく、温かみのある、庶民的な医務室のベッドの上だった。体の怠さは抜けきっていて、薬が効きやすければ抜けるのも早いのだな、と椿は自分の体に感心する。
最初に目にしたのは黒の蓬髪。それ以外、この部屋の中に人の気配はしなかった。
開口一番にする質問がそれかと思いながらも、椿の口はすんなりと開いた。

「……さぁ? 絆されたのかも」

その答えに、ふぅんと相槌を打つ太宰の目は、その先の言葉を待つように椿へと向けられている。

「…フョードルは、……フョードルの愛は苛烈だったけど、今迄で一番わかりやすい愛のかたちを教えてくれた」

『彼女は原始的な愛では納得できない。故に、貴女を慰めるには物質的で質量を伴う愛が必要なのです』

時に触れ合いは言葉よりも強くそれの存在を意識させる。向けられた感情に、人間は少なからず呼応するものだ。それを知っていて、フョードルは心を砕いて注いだのだろう。全く企みの通りだった。最後にあの男へ贈った口付けが椿の答えだった。

聞いたのは太宰な癖に、当の男は終始詰まらなさそうに口をへの字に曲げて、椿の包帯が巻かれた手を握ったり指の先でなぞったりと遊んでいた。

「…私にも、応えてくれて良いのだよ?」
「真逆。私が求めていた太宰は残念ながら今の貴方じゃないの」

わかっていた。離れた月日の間で太宰は変わってしまった。否、椿自身も、変えられてしまった。

「初めからやり直してくれる?」
「手厳しいな」

「でも、君が望むならそうしよう。他でもない君の頼みだ」そう云った、太宰の眉目が寄せられる。二人の呼吸は案外直ぐ近くにあった。
見詰める瞳の中に椿は、懐かしい嘗ての男を見た。



「椿さん!!!…太宰さん?!」



敦が血相を変えて飛び込んだ医務室には、椿にプロレス技を決められた太宰が居た。「待って待って私一応怪我人なのだけれど!?未だ傷が塞がりきっていないのだけどなぁ!?」と喚く。なら初めから仕掛けてくるな莫迦、と云う椿はギリギリギリと今も尚太宰を締めていた。たっぷり眠ったので椿の体は元気一杯であった。

呆気にとられていた敦だったが、直ぐにハッと気を持ち直し椿を太宰から引き剥がした。

「何、敦。待って、そこの無為徒食包帯外に投げるから」
「待ってください椿さん!?落ち着きましょう、今はそれどころじゃないんです!」
「落ち着くのは君の方だよ」

言葉外に軽んじられた?と太宰は思ったが、それについて進言する流れは何処を探しても見当たらなかった。味方が居ないって寂しい。
聞けば何やら敦は必死に椿に隠れてくださいと説得している。何から隠れろと云うのだ、と椿が首を傾げた矢先、探偵社医務室の薄い扉が木っ端微塵に切り裂かれた。

あっと声を上げたのは誰だったろうか。落ちた破片の先の廊下からは黒獣の唸り声が聞こえた。
何だ龍之介じゃないか、と椿が思ったが敦は「来るな芥川!!!」と必死である。何なんだ、と敦の背からそろりと芥川を見た椿は、その姿を見て理解した。
怒っている。何か知らんがめちゃくちゃに怒り心頭である。申し訳ないが全く身に覚えしかない。幾つも心当たりがある所為で一体どれに怒っているのかわからなかった。
椿があれこれ記憶を掘り返している最中、敦は芥川と椿の間に入り、文字通り体を張っていた。

「退け、人虎」
「退かない! お前に椿さんは斬らせない!!」
「話のわからぬ奴め。ならば貴様ごと喰らうぞ」
「お前ッ! 約束したてで破ろうとするな!!」
「ふん。完全に殺さなければ良いという話だ。半殺しも九分殺しも変わらん」
「九分殺しはアウトだろ!! 植物状態も無しだ!!!」

仲が良いな。若い二人の勢いに置いていかれている椿と太宰は最早割って入る気もない。太宰が妙なステルスを発動しているため芥川が太宰の存在に気付いていないのも、事を悪化させている気がする。その念も込めてじっと太宰を見れば、やれやれと太宰は肩を竦めた。

「はぁい、そこまで。芥川君、粉々にした扉の請求書はキチンと持って帰ってね。敦君は取り敢えず椿から離れようか」
「! 太宰さん、」
「芥川君?」
「、はい」

鶴の一声である。落ち着いて芥川の話を聞けば、「人虎が勝手に騒ぎ出した。僕は首領の命令に従いそこの女を回収しに来ただけだ」と云う。次に敦だが、話を聞こうとする前に芥川に噛み付いた。

「なっお前、椿さんを殺そうとしてただろ!太宰さんの前だからって嘘吐くなよッ!」
「黙れ人虎!今ここで一月後の決着をつけるかッ!」

また取っ組み合いが始まる。椿はぼんやりと、野良猫の縄張り争いのようだと思った。

同じ場所に居れば直ぐにまた激しいじゃれ合いが始まるので、一旦敦と芥川は別室へ移された。これでは本当に仲の悪い猫への対処である。椿は取り敢えず芥川と太宰を別室に押し込んだ。芥川には太宰を与えておけばくたくたに大人しくなる。
そして消去法的に敦は椿が担当になった。さてゆっくりと話を聞くかと、思ったのだが。

「狡いです。椿さんは。僕が貴女を見捨てられないことなんて分かりきっていたはずなのに、態とあんな言葉を選びましたね?」

雲行きが怪しい。ごろごろと転がった話題の先は先日のフョードルとの一件。それも椿が敦に遭遇したあの路地裏での話になった。龍之介、否、今は太宰でもいい。帰ってきてくれ、と椿は扉の方へと助けを求め視線を送るがドアノブが動く気配も扉がみじん切りにされる気配もない。
しかし出会った頃から椿に誠実な態度を辞めない敦に、言葉を返さないのも失礼か、と椿は諦めて敦の方へ向き直した。

「そうすれば、君は必死にあの男を追いかけてくれる。フョードルが撒いた餌に全力で食いついていた方がカモフラージュになってやりやすかった」
「それでも、如何して1人で行っちゃうんですか! あの男の危険性を、椿さんは知っていた筈でしょう!?」
「…確かに奴は危険だったけど、あの男が私を殺さない確信があった。あの男に限って、寧ろ私の周りに君たちが居られる方が迷惑だったし。あれが一番合理的」
「合理的で片付けないでください! いくら確信があっても、…死ななかったとしても、傷付けられることはありましたよね?」
「…」
「あの路地でも怪我をしたと云ってましたよね? その包帯、まだ巻いているということは傷は良くなっていないんですよね??」
「…」
「椿さん、僕云いましたよね。頼ってくださいって。…あの時、助けてって、云ってくれれば僕は」
「強制じゃない」
「椿さん」
「…………」

話を聞こうと二人きりになったら逆にお説教を受けることになっていた。一応私の方が歳上だったような気がするのだが? 然し敦の善性を利用したということには変わりないので、椿の中の良心が今は大人しく聞いておけと云う。

「…彼処で突き放しても、君は追いかけて来てくれるって、信じてたから」

駄目だった?と云うように見詰める椿に敦はぐぅと唸る。

「っはぁ……! 本当に、心臓が止まるかと思ったんですよ。それに芥川の奴、物騒な事するわ云うわで、もう…」

その先に言葉は続かなかったが、相当精神的疲労が溜まったのだろう。先程の小競り合いを見ても2人が合わないことは直ぐにわかる。異能は太宰が組ませるくらいなのだから、相性ピッタリなのだろうが。何だか中也と太宰を見ているようで可笑しかった。こそりと笑うも耳ざとい敦は気付いたようで、咎めるように名前を呼ばれる。
椿は誤魔化すようにコホンと咳払いをした。

「龍之介が物騒なのはいつもの事だけど」

そう云うと、敦が尻込みする。「……否、その」と、たじろぎつつ話す敦から聞いたのは、潜窟に潜った際にこぼした、芥川の言葉だ。

『追い詰めた地下鼠共も、僕を置いていったあの女も…八つ裂きに』
『何故だ、何故だ何故何故!!! 貴様も僕を置いて行くのかッ…!』
『矢張りあの時、殺しておけば…!!!』

「……それは予想してなかったな」

莫迦め。私がお前を置いていくことはない。私の為の道ずれの同胞を、一人にする筈ないのに。
椿は急に芥川が可愛く思えてきた。殺されるのは御免だが、今日は一緒に寝てやろうかなと考える。彼は妹と同居中だ。久々に銀にも会いたい。
黒獣によって叩き出される未来は見えているが、長く不在だった姉弟子と一晩くらい過ごしてくれても良いだろう。女は根気である。

フョードルが捕まった後、恐らく芥川には私が裏切った訳ではないことが伝達されている。つまり今は、その誤解も解けている筈である。敦の心配には及ばない。
まあ然し良い事を聞いた。これで私が握る龍之介の弱みが増える、と椿は敦に礼を云った。
当然敦には微妙な顔をされた。









「おかえり。椿ちゃん」

「……ただいま、森さん」


ふふふ、と手を組んで笑う鴎外は、先の病で少々窶れたような気がした。

「良い目をしているね。何を見てきたのだい?」
「外を見てきたわ」
「…そうか。それで、如何だったかね?」

外を見て尚、帰って来た椿を鴎外は不思議に思っていた。椿は今回の件で、積み重ねてきた様々な事柄の末に、マフィアを去るだろうと考えていたからだ。寂しさはあるものの、そう思って疑わなかった。
然し彼女は他の任務帰りと同じように、戦争終結後マフィアの首領執務室に帰るとつらつらと報告を述べたのだ。

「森さん」

椿が首領ではなく森と呼ぶのは、彼女がマフィアの首領としてでなく、鴎外と話したいからだ。鴎外はわかっていた。彼女なりの甘え方だ。

「私は、後悔したくなかった。マフィアにはまだ残してきたものが沢山ある」
「…うん」
「それに私は、“ポートマフィアの月の女”だから」

「夜に月がないと、寂しいでしょ?」

その答えに、鴎外は益々笑みを深く刻む。
今夜もこのヨコハマの夜に輝くだろう、月を想いながら。