月は満ちる
状況は緊迫していた。湿っぽく、暗い地下は小さな灯りに照らされて物々しい影を写していた。空っぽのコンテナを前に、敦は途方に暮れそうになる心に喝を入れ国木田と繋がる通信へ事の有様を伝える。
敦は芥川と共に鼠の潜窟へと潜入し、ウイルスの異能者、そしてフョードルを捕らえようとしていた。
ウイルスの異能者、プシュキンは地上へ逃がしたものの、待機していた探偵社とマフィアによって捕らえられウイルスは解除された。そしてフョードルの所在を知る筈のゴンチャロフを捕らえた。然しその潜窟に、フョードルは居なかったどころか、初めから一度も姿を現していないという事実が判明したのだ。
椿は、白い部屋から一転、とあるカフェテラスにて、飴色の紅茶に映る空を眺めていた。
紅茶と共に運ばれた3種の匙に乗っているのは、ジャムや蜂蜜。探偵社とマフィアが潜窟攻略で必死になっている間、呑気にもフョードルと椿はロシア式の茶会を開いていた。
談笑はない、静かな茶会だった。椿の紅茶は冷めていた。フョードルの茶器は既に空っぽだった。
「潮時ですね」
ピクリと茶器に添えられた手がその声に反応する。椿が顔を上げると、フョードルは席を立ち、手を差し伸べた。
「…まだ残っているわ」
「本国に帰ったら、いくらでも淹れて差し上げますよ」
さぁ、と引かれた手のままに立ち上がろうとすれば、未だ残っている薬が頭を揺らした。椅子へ逆戻りする体に「おや」とフョードルが身を寄せる。
椿の手を掴む、フョードルのそれとは別に、此方へ近寄る影が視界の端に見えた。
「やぁ、お嬢さん。手を貸そうか?」
差し出された手には、包帯が巻かれていた。驚嘆。
まさしくその言葉が似合いの表情だっただろう。
椿の見開いた瞳を見て、零れ落ちてしまわないかと太宰は碌でもないことを考えた。そこからの太宰の行動は早かった。いつまでもフョードルと繋がれた彼女の手を掠め取り、体を支えて立たせる。ふらつく足元、先程の様子を見て、何かを盛られたのだということは明白だった。ぎゅ、と肩を引き寄せれば戸惑いながら体を預ける椿に、自分が居る状況が飲み込めていないのだと察する。まぁ、最後に彼女に見せたのは路地裏で撃たれて血だらけの私だ。無理もないかと独り言ちる。
椿を調度挟む形で、太宰とフョードルは向かい合った。
「善い喫茶処だね」
流石に驚いた顔だ、と笑うも、その言葉に反応は返ってこない。
「『何故此処が判ったのか』そう訊きたいのだろう?」
フョードルが問うよりも先に太宰が口を開く。フョードルは静かにその言葉に耳を傾ける。太宰は自身の腕に久方ぶりに収める椿を存分に感じながら、髪をくるくると指先に絡めながら続けた。
「実際……極限下の一手だったよ。だが、かの『魔人』を欺くには並の手では足りないと判っていた____これが……私の一手だ」
太宰が指し示したのは、太宰の座していたテーブルの対面。パラ、と新聞の紙面の先から現れたのは、組合の長、フィッツジェラルドだった。生きていたのか、と椿は目を見開く。相変わらず高飛車な背広を着こなしていた。
その姿は想定外だったと、フョードルは感嘆の声を洩らす。
「……ああ、素晴らしい。『神の目』ですね……?」
「そうだ。街中の監視映像を統合する無謬の眼。その力で此処を見つけ出した。…君が潜窟に気を取られている隙にね」
成金背広のあのフィッツジェラルドの力を借りる条件は、鼠が掠め取った組合の隠し資産を取り戻す事であったらしい。『神の目』はさる警備会社の管轄だった筈だが…自分が地下に潜っている間、地上は色々とあったらしい。
何だ、これなら私が動かなくとも事は片付いていただろう。無駄に気張ったな、と途端に気を抜いた椿はいよいよ眠気に身を任せようとする。
そのタイミングを知ってか知らずか、トンという軽い衝撃が背中を叩く。おかげで意識が睡魔の波に攫われることはなかった。
「そしてもう一つ。君は見落としていたのさ。他でもなく、彼女の事をね」
にまりとした顔を崩さずに太宰は目だけを動かして此方を見た。嗚呼、あの路地から何もかもこの男には見透かされていたか。何となく悔しくて太宰から目を逸らす。向いた先で、ぱちりとフョードルと目が合った。
「………………嗚呼、そういうことでしたか。チョーカーは囮。彼女自体が、発信機だったのですね?」
合点がいったと息を吐き出す。フョードルが太宰を見れば、笑みを深くした口角。その通りだ、と云うことだろう。
「マフィアは彼女の体を宝石で飾り付けるばかりでなく、その体にも発信機を埋め込んでいたのさ。つまりは二重ロックのようなものだね。彼女が地上に出た時、中也の指示で彼女の発信機の緊急プログラムは既に作動していた。マフィアの管轄下の監視カメラが発信を感知・範囲を絞り込み、そして『神の目』によって君達を特定出来たというわけだ。勿論、君達が潜窟とは別に潜っていた地下基地も、中也の部下が制圧済みだよ」
「成程。念には念を、というとこですね。然し…ぼくが今この時、彼女を傍に置く可能性は低かった筈ですが?」
フョードルの言葉に太宰はふむ、と態とらしく顎に手を添えて、考える素振りをした。
確かに椿に関しては、大一番の賭けではあった。フョードルが彼女を傍に置くことは。彼の云う通り、宝に執着するあまりみすみすミイラ取りがミイラになるようなヘマをこの男がする訳が無い。普通ならフョードルと椿は別々に行動していると思い込み、2人が同じ場所に固まっている可能性を先ず初めに消去していただろう。
然し今回に限っては、寧ろそちらが正解となる。
何故なら相手は互いに似たもの同士のフョードルと太宰なのだから。2人が考える低い可能性は、裏を返せば最も相手に悟られ難い方法であるために、逆転して高い可能性になり得る。あとは2人の心理戦だ。裏をかくか、裏の裏をかくか。
然し椿は違った。中也のチョーカーを囮にして、本懐の、彼女の内部に埋め込まれた発信機の存在を隠し通し、この局面まで辿り着いた。自分自身が目印となるように画策していたのだ。そしてそれを悟らせないように白痴を演じ、男の手のひらで踊った。
何か根拠があったのか、はたまた奇跡か、太宰やフョードルと同じくこの結末を確信していたような彼女の動きに、驚かなかったと云えば嘘になる。この喫茶処にマフィアから繋がれた通信から椿の反応があると聞いた時は一杯食わしたな、と感心したものだ。彼女は盤上から外されていた筈の自身を、自分の周りを盤上に変えることによってクイーンへと返り咲いたのだ。
ふ、と太宰は不敵に笑い、こう答えた。
「いいや。傍に置くさ。私が育てた女だよ?」
「……ふふふ」
太宰の答えに、フョードルも笑った。
「成程、完敗です。ぼくは貴方達2人に負かされたということですね」
ちらりと、紫が此方を見る。否、男の視線は椿へと向けられていた。
「楽しいゲームでした、椿。残念ですが、暫くはお預けですね」
「…」
椿は太宰の腕からするりと抜け出した。その手を太宰が取る前に、彼女の手がフョードルに届く。椿はぐいと男の襟元を掴み引き寄せた。
何か恨み言を云うつもりなのか、とフョードルは沈黙のまま椿の言葉を待った。
然し椿が贈ったのは恨み言でも罵詈雑言の類でもなく、口付けだった。
背後で太宰の素っ頓狂な声が聞こえる。椿は短い接吻を終えた後、フョードルを真っ直ぐと見て云った。
「…これは礼よ。貴方のお陰で、全てが取り返しのつかないことになる前に気付けた」
フョードルがぱちりと瞬いた視界の中で捉えたのは、彼女の貌だった。目を見開いたフョードルに、椿はふんと満足そうに鼻を鳴らして、掴んでいた襟から手を離す。
太宰は終始面白くなさそうな視線を此方に寄越していた。
「…全て、ですか……残念です。ぼくは只、貴女の力になりたいだけだった。貴女も絶対的な、裏切りのない完全な存在を望んでいた ……それでも手放す意味が、貴女にあったというのでしょうか?」
フョードルの言葉に椿は一瞬口を噤んだ。太宰は何も云わず、聞き耳を立てるかのように黙っていた。三者の中で妙な緊張が走る。
一度は、絶対なんて存在しないと悲観に昏れたこともあった。
然しその中でも、フョードルは私の絶対になり得た。それ程までに完全で、完璧な、運命だった。例えそれがこの男の計画の通りに塗り固められラッピングされた、仮初だったとしても。
でも、だからこそ、この手に得ない意味がある。
それに固執することの危険を私はもう知っている。失いたくない、大切なものを作ると人間は弱くなる。失いたくなければないほど、それを失った時の感情は人を壊す。
なら、初めから、この手に何も得なければ良いのだ。
「…気付いただけよ。貴方さえ居なければ、私は本当に自由になれる」
「……成程。それが貴女の選んだ場所ですか」
フョードルの声は、静かに、静かに落とされた。
裏切られたというのに、フョードルの目に映る椿は尚うつくしいままだった。否、憎らしいと思っていないと云えば嘘になる。然し思えば思うほど、彼女の貌はギラギラと輝いて、そこに月の光に透けるような儚さは最早微塵もなかった。焼き付けられるような怒りとも悲しみとも異なる、ただ目の前のものに圧倒されるような、深く恐ろしげな感情がフョードルの胸に湧き上がる。
唐突に男は理解した。この感情の名を。
ゾクリと悪寒のような気配が背中を駆けた。
フョードルの顔には不気味な程に吊り上がった口が浮かんでいた。
「嗚呼、矢張り素晴らしい」と歓喜に震えた音が吐き出される。
恍惚という言葉が似合いの表情に、椿は体の芯に迫る何かの存在を感じ取って背筋を震わせた。所謂裏切りという行為をされたというのに、何故変わらず笑っていられるのか。矢張り理解できない、と拭えない男と自分との異を体感する。
椿は思い出す。この男は、そういえば私によって自身の何らかの変化に気付くと笑っていた。歓喜、怒り、嫉妬、次は一体、何に気付いたのだろう。
じっと見詰める椿を見詰め返すフョードルの紫水晶が揺れる。その目が、すぅと細められた。
「ぼくは知らぬ間に、貴女に嘘を吐いていたようです」
言葉ではどんなに理解していても、焼き付けられるような“本物”にはかなわない。たった今理解した。
昂る感情を、目を伏せて一度鎮める。
そして男は、呪いをかけるように云った。
「____矢張り、貴女がぼくの運命の人なのですね」
フョードルの手が迫る。寒気が最高潮に達する。
太宰は咄嗟に異能無効化の為に手を伸ばした。然しその前に、突如フョードルは操られたようにぐるんっと両の手を自身の頭の後ろへ回し、膝を落とした。丁度、捕縛を受けるのと同じように。
太宰は伸ばした手を引っ込めた。椿の異能が目覚めたのだ。
タイミング良く、畳み掛けるように現れた特殊部隊が隊列を組み、機関銃を一斉にフョードルへと向けた。コツ、とその場に新たな踵の音が響く。
「…後は我々が引き受けましょう、太宰君」
髪を撫でつけた真面目そうな男が、武装した者たちの脇からするりと姿を現した。
…太宰が部隊の到着に驚いていないということは、予め通報していたのだろう。
太宰は「安吾」と云って、椿の腕を引き、その身をフョードルから遠ざけた。引き寄せられ確りと支えられた体に、安吾と呼ばれた男はその特徴的な丸眼鏡をくいと上げ、嫋やかな目元を僅かに険しくする。
「其方の方は、お仲間ですか?」
「彼女は探偵社だよ安吾」
「え」
「ね?」
「あ」
じっと観察される視線に椿は暫し沈黙した。辛々出たのは、「…………探偵社事務員の田中花子デス」という全く苦しい嘘である。隣の太宰もそれはどうなんだ、と云うような視線を椿に寄越した。主演女優賞ものの白痴の演技は如何した。道端の大根にも劣るぞ、と。わかってるわそんなこと、と椿も負けじと太宰を睨む。
そんな二人の様子にゴホン、と安吾は咳払いをした。しょうがないなと言葉外に云うような顔は、どうやら騙されてくれるらしい。
「…………………………………………成程。今回の作戦、ご協力ありがとうございました。貴女の勇気ある行動に敬意を。後日探偵社へ御礼に向かいます、“田中さん”」
「え。イヤ、大したことはしてない。イリマセン」
本来居ない探偵社に御礼に来られても困る。というか太宰が勝手に吐いた嘘で何で私がこんなに身を削らなければならない。咄嗟に乗った私も共犯か。
「彼女もそう云うのだから、善いだろう? 安吾。…ドストエフスキーのことは宜しく頼むよ」
「ええ。勿論です」
安吾の視線が逸れたことによって張り詰めていた体の力が抜けていく。ほっと胸を撫で下ろす椿の手に、太宰はするりと手を絡めた。遠ざかっていく部隊の背を見ながら、椿はこそりと口を開く。
「…どういうつもりか知らないけど。矢っ張り余計なことばかりするのね、太宰」
「おや、私が『神の目』に辿り着き此処を見つけなければ、今頃君はあの男と逃避行を繰り広げるところだったのに?」
「…」
然しあの目は参ったねえ、と太宰が云う。なんの事かと見上げれば、「ドストエフスキーだよ。君、厄介なのに気に入られてしまって」と呆れの溜息が降ってくる。
フョードルの視線は部隊に連れられ此方に背を向けるまで、じっと椿へ注がれていた。
椿が理解できなかったあの男の笑みを、太宰は理解していた。あれは嘗ての自分と同じく気付いたのだ。悟性ではどうにもならない心という存在に。
丁度、太宰を通して椿が見上げた先の空には、真昼だというのに月が見えた。夜は輝くのに、昼のそれは何処か弱い。ちぎれた白桜の花弁のようなそれが、月の本来の姿だ。
人知れず椿は笑う。
月に日の下は似合わないということだ。若しも夜から出れば、自分もあの惑い月のようになるだろう。その姿を好き好む者が居たとしても、月には月の輝ける場所が初めからある。
私はそれを選んだだけ。
そもそも、閉じこもるのも閉じ込められるのも性に合わないし、着せられた服はしっくり来ないのだ。
「フョードルは捕らえたけど、他は? 森さんはどうなったの」
「勿論無事だよ。君が杞憂に思うことは何一つない」
私たちの勝ちだ。太宰が笑う。
嗚呼、今度こそ失わずに済んだのだ。あの男から奪われずに、悪夢を払った。
私が月夜を恐れることは、もう二度とないだろう。