はじめの一歩は手を繋いで
目が覚めた。
時計も外の光も無い椿の部屋は、四六時中薄ぼんやりと間接照明が部屋を照らしている。
昼か夜かもわからない中、椿は音を立てないようにゆっくりと上半身を起こした。
視線の先には部屋の扉が有る。
(…気配がする)
何者かがこの部屋に向かっている。
其れを感じ取った椿はベッドに本を積み、丁度人くらいの大きさにするとその上に布団を被せた。そして自分はベッドの下に潜る。
鴎外の足音とも違う、黒服の足音とも違う。何処か軽やかにさえ感じる足音は、矢張り椿の部屋の前で止まった。
そして、何の障壁も無く扉が開かれる。
コツ、コツ、コツ
ベッドに近づく足音。椿はベッドの下に潜る時に持った分厚い本を静かに握った。刃物は無いが鈍器はある。弾丸1発くらいは受け止められる厚さだろう。
ベッドの下から見える脚は黒服よりも細かった。
「……」
脚の持ち主はカチャリと銃の安全装置を解除する。誰に云われたか、独断か。椿を始末する為に其の人物は来たらしい。
油断している今のうちだ、と椿は素早く体をベッドから滑り出した。そして本を鈍器に相手の顎を
「うふふ、危ないなぁ」
本は空を切った。振り上げた反動で体を捻り追撃しようとして、止めた。
脚の持ち主は太宰だった。椿がベッドの下から出た時点で1歩後に下がり、その顎が砕かれることは無かったらしい。銃は握っていなかった。
「…紛らわしい」
「えー」
えーではない。椿は敵だと思って攻撃したのだ。そもそも部屋に入った時点で太宰は殺気を放っていた。今はケロリとしているが…あのまま眠っていたら撃たれていただろう。何故こんなことを。
「君、1年も敵どころか虫も居ない温室で過ごしていたんだろう?鈍っていないかの確認を、ね」
「…」
敵とまではいかないが天敵はいた、と椿はフリフリパニエを掲げる鴎外を想像した。然し太宰の云ったことは間違いではないので振り上げた本をベッドに降ろす。
「真逆、其れだけのために来た訳では無いでしょ?」
「勿論」
「じゃ、行こうか」と云って、太宰はくるりと踵を返した。
「は?」
「うん?」
行かないの?とでも云うように扉に手をかけて椿の方を見る太宰。扉の先は部屋の外だ。椿は信じられない、というように顔を青くさせる。太宰はその顔を見て首を傾げるが、その後「嗚呼」と納得したような声を出した。
「そう云えば、君の引きこもり精神は折り紙つきだったね」
ぐうの音も出ない。
先日の悪夢の事もあってか、椿はすっかり尻込みしてしまっていた。外に出る度に異能を使ってしまっている気がするのは気の所為ではない。また使ってしまうのではないかという不安が付き纏った。
そんな椿の目前に、包帯だらけの手が差し出される。
「私の手に触れていれば、大丈夫だよ。現に君の異能を私は2度止めているだろう?」
「…」
暫く黙った後、決心したように椿はその手を取った。
▽
「酷い、騙された、裏切り者、嫌い……」
「最後のはちょっと傷ついた」
「嫌い」
「態とだね?仕方ないじゃない。私は君の教育を任されたのだから、君が異能を制御出来るようにならなければ私の面子に関わる」
「……異能を殺してくれるって」
「嗚呼、君はそう云ったね。然し私が云ったのは“恐怖を殺してあげる”だ。それに、君の異能を使わないとは、私も首領も、一言も云ってないよ」
「………」
にっこり。いっそ清々するほどの笑みを浮かべている太宰と背中に吹雪を背負っている椿。2人の雰囲気は見るからに対照的だった。太宰は何処か面白がっている節さえ有る。
2人が居るのはポートマフィアアジトから離れた地上。抗争真っ只中の銃声響く倒壊した廃ビルの中である。
椿は部屋から出るのも渋ったが、太宰がアジトの正面玄関に向かっている事に気付くとすぐさまその手を振りほどこうとした。太宰の悪意の篭った腕力がそれを許さなかった為に抵抗は失敗に終わった。其れからズルズルと引き摺られつつ弾丸を避け路地を抜い歩き着いたのが、この廃ビルだった。
そして椿がこうなった原因である一言を太宰は言い放った。
「さぁ、異能を使ってみ給え!」
「君は異能を制御出来ない事に恐怖を抱いている。私がいれば君の異能を強制的に解除することも可能だが、それでは根本的な解決にはならない。矢張り自分で制御出来るようにならなければ、君の根底に巣食っている恐怖は何時迄も払拭されないよ」
「…でも、如何すれば」
「まぁ物は試しだ。怖くなったら私に触れれば良い」
「……」
「………何時迄も触れていては異能が発動しないよ?」
「無理」
「はぁい触るの止め。いいから、使いなよ。私がいる限り大丈夫だから…信じて?」
順に指を開けられ太宰の手がすり抜けた。未だ不安は拭えない。然し太宰の云う事は一理あるどころか百理ある。太宰に触れていれば異能は使えない。然し四六時中触れているわけにも行かないのが現実であり、その間椿はずっと異能に恐怖する事になる。非効率で合理性を欠いているのだ。
椿はつい先日の感覚を呼び起こした。自分の足元から範囲を広げていく箱庭と、その中の人間達を。
「“箱庭”」
椿の脳へ濁流のような情報が流れ込む。心臓の鼓動が早いのは、恐怖以外の何物でもない。然し情報は途切れることなく、徐々にホログラムを構築し、椿の脳へと映し出した。範囲はどんどん広がっていく。頭の奥がズキ、と痛み始めた。然し我慢出来ない程じゃない、と椿はホログラムに目を向け始めた。
ホログラムは抗争で荒れた地上を映し出していた。
抗争は悲惨の一言だった。抗争の銃撃の跡が残るこの廃ビルでも状況は理解出来たが、それ以上に人が山のように死んでいた。ホログラム化した地上の何処を見渡しても死体、死体、死体。アジトでよく見かける黒服を身にまとった人間の死体も沢山あった。体に幾つもの穴を開けている。それだけでは無かった。一般人も抗争に巻き込まれていた。逃げる途中で殺されたり、意味もわからず家で過ごしていた所を殺されたり、偶々倒壊した建物の下敷きになって潰されていたり。
点々とした場所で今も銃撃戦は行われていた。箱庭を使わずとも人が死んでいく。1つの銃撃戦が終結した。また新たに銃撃戦が始まる。
(……地獄だ)
血に塗れた人々をホログラム上から見下ろした。道路も赤く染められたそこは血の池のようだ。道路の真ん中で積み重なる死体。せめて端に寄せようと、椿は死体を動かそうとした。死体はピクリとも動かない。
(…あれ)
以前は動かせたのに。そう思ったが、椿の箱庭はいくら人形遊びのように人間の体を操れても、死体を動かすことはできなかった。
ズキン
脳がすり潰されるような痛みを訴えた。
「ッあ゛ぃ、た…」
「!」
太宰は素早く椿に触れる。
顔色一つ変えずにいた椿が突如その顔を歪めて声を絞り出した。それ迄痛みがなかったかといえば否である。
椿が街の様子に夢中になっている間にも、箱庭はその範囲を驚異的な速さで広げていた。其れは椿を中心に半径約1kmの所で脳の許容限界値に到達し、有り得ない痛みを椿の脳にぶち当て、異能を解除することを命令した。
解除と同時に崩れ落ちる椿の体を太宰が支える。椿は頭を抑え、内側から来る痛みに目をぎゅっと瞑り耐えていた。その背に手を添えてゆっくりと太宰が撫でる。気休め程度だが、温もりはじんわりと痛みを和らげた。
「何処まで見えた?」
「…?わかんな、」
「思い出すんだ。でなければ意味が無い」
「……………わ、たしが見えたのは」
山のような死体だ。そして箱庭の範囲は恐らくここを中心に1km程度。死体は動かせなかった。
(ポートマフィアアジトを地下含め、ビル凡てを呑み込んでも余りある範囲だ。……まぁ上々かな)
「ん?死体を動かそうとしたのかい?」
「……道の真ん中に、あったから」
「……変なところを気にするんだねぇ」
「………死体になっても、また轢かれるのは」
「可哀想?へぇ…」
「其れに、」
「?」
「土に、還してあげたかった」
「…」
「死んだら、敵も、味方も、関係無い。死んだら、全部同じ。植物が枯れてその葉が土に還る、動物が死んでその骨が土に還る。個人を形成するものは消えて、凡て死という1つになる。そしたら、やっと」
「…やっと?」
「………何でもない」
死体の中には、一人きりで死んでいる子どもも居た。抗争中に親とはぐれたのだろう、血と涙を流すその子を椿は気の毒に思った。同情した。きっとこの地上の何処かに子どもの両親の死体も転がっているだろう。せめて死体を埋めて土の中ででも家族と会うことが出来ればと思った。出来なかったが。
「…君は本当に、不思議な事を云うね」
無性に母に会いたくなった。もうこの世には居ない母に。土に埋まれば母とひとつになり、会えるだろうか。温もりを感じられるだろうか?
…その答えは臆病な私には知り得ない。私は自殺が出来るほど強くは無い。
背中にあった温もりはいつの間にか体を包み込んでいた。太宰が膝裏に腕を回し椿の体を持ち上げる。
太宰の目と合う。暗く、黒い目。母と同じ、其れはこの世を諦めた瞳。期待は無く、有るのはただ水のように流れる時間。胸に降り積もる何か。
私の守りたかった母。もう居ない。温かい土の下で眠っている。
じゃあ、彼は?
「……よくやった、とは云えないね。制御には程遠い。けれど、異能を少しでも知ることが出来たのは前進だ」
「…」
「ふふ、疲れたかい?いいよ、眠り給え。男だったら置いていったが、君は幸運なことに女の子だ。きちんと部屋まで送り届けるよ」
コクリ。椿が力なく首を縦に振ったのを見ると、太宰は廃ビルを後にした。
(私は見つけた。母の目をしたこの人を。この人は私に手を差し伸べた、糸を与えた。今度は離しはしない。断ち切らせるものか。この糸は、私のものだ)