ゆりかご
「ハァ、ハァ……ッ」
椿は走っていた。
闇の中を、草木を掻き分けて只ひたすらに。何かから逃げるように。否、何かを追いかけているのか。其れすらもわからない。
何故か脚がいつもの様に上手く回らず前に進めない。突き動かされるように前へ前へ、脚が地を蹴る。然しそこは水面のように蹴った感覚が無い。
「ッあ」
もたついた脚がとうとう絡まり椿は土の地面になだれ込んだ。然し次に土だと思ったそこは人工的な硬い床に変わっていた。
ハッと息を呑む。視界の中に短剣が見えた。これは、まさか、そんな。
「嫌、」
見たくない。
今頭を上げればきっと、あの光景が広がっているだろう。そのまま椿は下を見続ける。すると床についた指先まで血の池が迫ってきた。池に波紋を広げて誰かが近付いてくる。
ピチャリ、ピチャリ
「───けて、」
助けて。声に出してもそこに助けは現れない。
見えないはずの月が青く輝いている気がした。頭上であの魔物が笑っている。私の体は動かない。動けない。
「助けて、太宰」
初めて夢で人の名を口にした。勿論そこに太宰は居ない、わかっていた。
然し死体のように冷たくなっていた体、それも背中に、じんわりと熱が広がっていく。ゆっくりと、撫でられている…?
悪夢が遠くなる。月が消える。凡てが闇に塗り潰された。
▽
「…ん、」
自分のものではない温かさに、椿の意識は半覚醒した。
目を瞑ったまま温かいそれをぺたぺたと探る。かたい。然し部分的に柔らかい。今度はにおいを嗅いでみる。…嗅いだことがあるような、ないような。
面倒くさくなった椿は探るのをやめ、二度寝を決め込むためにその温かい湯たんぽ(?)に近付き、すりすりと摺り寄った。本能的に良い場所を探し体をそこに落ち着けると、満足そうな息を吐く。
いよいよ椿が意識を体の奥に沈めようとした時、不意に圧迫感を感じた。
逃れようとしても寝返りもうてない。次いで更なる重量がかかる。椿は眉間にしわを寄せ、重い瞼を開けた。
「すー」
「…………………」
椿は目を半目にした。
安らかな寝息をたてているのは太宰。そして温かさの正体も太宰だった。あの後、きちんと部屋に運んでくれたらしい。
然し椿の米神には青筋が浮かんだ。太宰が抱き枕にしているのも、下敷きにして押し潰しているのも椿だったのだ。
目が据わった椿は押し潰された体の間から手を出し、ぐーぱーと眠っていた神経を目覚めさせる。そして小さな手を握り、拳を作った。
(…よし)
「せいっ」
ドスッ
「ふっぐぅ…?!」
綺麗に鳩尾へ叩き込まれたらしい。潰れた蛙のような声をあげた太宰の拘束が緩んだ腕から滑り出る。ピクリとも動かない太宰に呆れながら声を投げかけた。
「起きてたでしょ」
「……バレてたか」
やれやれと体を起こした太宰に椿は冷ややかな視線を送った。
「真逆殴られるとは思っていなかった。熱烈な挨拶だね」
「…も一発いっとく?」
「うふふ、御免被りたいね」
所で何故太宰が此処で寝ているのだ。そう聞くと太宰はニヤァと嫌な笑みを浮かべて椿を見た。
「おや、離して呉れなかったのは君の方だよ?覚えていないのかい」
「……」
覚えていないも何も、椿の記憶は先日太宰に連れられて廃ビルで異能を使い、制御が出来ずに眠るように気を失った所で終わっていた。気を失う前にも何かを云っていたような気もするが、内容は覚えていない。
「少女といえど、女性から誘われてしまっては断るなんて無碍な事は出来ないよ」
「誘ってない」
筈だ。そもそも記憶が無いので何も云う事が出来ない。誘った?真逆。否、然し、もしかして。
「…………殺して身の潔白を証明するしかない」
「寧ろ怪しまれる方法だね?…まぁ勿論冗談だよ。昨晩は何も無かったさ。…君が離して呉れなかったのは本当だけれどね」
「?」
「本当に意識が無かったのかい?私の服を、それはもうしっかり掴んでいたよ」
覚えていなかった。
然し其れなら殴ったのは申し訳なかったな、と椿は丁度先程殴った太宰の鳩尾あたりを擦った。
「……君、織田作と同じ部類の人間か」
「おださく…?わからないけど、太宰がここに居たのは私が悪かったって事はわかった。殴ったの、ごめん」
「其れはまぁ、別にいいけど…」
はぁと太宰はため息を吐いた。
昨晩、椿の手を離そうと思えば離せた。然し其れをしなかったのは、赤子のように丸まった彼女の姿と、気絶する前に見せた縋るような目に、放って置けないと何故だか思ったからだった。
太宰は16歳にして色事には覚えがあった。今迄、太宰の後ろ髪を引こうと同じように縋る女達を無情に置き去りにしてきた。そもそも其のような欲を目に携えた女は後々面倒くさくなる事が多く、積極的に煙に巻いていた。
然し椿の其れは、女達の色欲ではなく、只純粋に子どもが助けを求める其れだったのだ。だから共に眠ってやってもいいと思った。気付けば布団に沈み込み、時折震える椿の背中をぽんぽんと擦り、苦しげな表情から穏やかになる顔を確認して、いつの間にか自分も微睡み眠っていた。
まるで乳母のようだな、と思い出しても笑えてくる。それ以上に、太宰治が女と同じ布団に入り朝まで手を出さなかったという事実が1番笑えた。
「……今日も、するの?」
「…嗚呼。出来る限りはやく異能を制御出来るようにはなって欲しいけれど、生憎先約があってね。まぁそれも、ほっぽり出してしまいたいのだけれど」
どうやら組織が徐に新たな組織を編んだという報告があった。其れも異能を持つ能力者を集めた奴らだ。一介の構成員では歯が立たない。今日は太宰と相棒である中也が、其の組織の下見に行く手筈だった。
「きっと直ぐに終わるだろうから、帰ったら君の異能を見てあげる。大人しくしていなよ」
「………わかった」
「いい子だ」
そうして太宰は椿の部屋を後にした。後ろ手に扉を閉めると其のドアノブを見る。
そこには電子キーも、鍵穴さえ無かった。
エレベーターに乗り込み地上へ出る。既に相棒はそこに居た。相変わらず真面目なのかそうでないのかわからない男だ。
「……やぁっと来たか手前」
「はぁい中也。相変わらず小さいね」
「あ゛ぁッ?!…チッ、今は手前に一々反応してやる時間も惜しい。奴らどんどん周りの敵組織を潰していってやがる」
「はぁ〜、その儘うち以外凡て潰して、最後に私たちがそいつ等を潰して終わればいいのにねぇ」
「…異能特務課が、ある能力者を放ったらしい」
「……へぇ?それで政府の命令に従わず好き勝手やっているのか。大したものだね」
「…行くぞ」
そしてこの抗争は、後に龍頭抗争と呼ばれる、史上で最も死体が生産された88日間となる。