糸は切れた
私が蹲っている間に、あの魔物は去った。月はいつの間にか低く、じき朝日が昇る。私はフラフラと覚束無い足取りで、人のいないマフィアのアジトから地下牢へと帰った。
「やっと帰ったか。今回も全員殺しただろうな」
ガタと座敷牢に誰かの手が掛かる。その声には嫌という程聞き覚えがあった。父親だ。“標的のマフィアの者は”全員殺した為こくりと頷く。すると父親は、口を歪めて「そうか」と一つ返事をした。
「お前の働きを彼奴も喜んでいた。帰った事を知らせたら大袈裟に安心していたぞ」
「では何故、会いに来てくれないの」
「彼奴は今病に侵されている。お前に伝染らないように会わないようにしているんだ」
「死んだから、じゃなくて?」
「……何処で聞いた?又得意の盗み聞きか。溝鼠は本当に何処にでも沸いてくる様だな…嗚呼、彼奴は死んだ。精神病に侵されて呆気なく。本当に使えない、荷物ばかりになる女だった。お前を生んだこと以外はてんで役に立たなかった」
バサリ。資料の束が投げ込まれる。次の標的が書いてあるだろう事は容易にわかった。然し其れを見る必要は無い、私が標的にすべきは、始末すべきは。
ここなのだから。
「お、おい…何をやっているんだ?止めろ、よせ。銃を降ろせ、降ろせェ!!!」
発砲音。人が崩れる音。其れはマフィアが崩壊する音。何故気付かなかったのだろう。早くこうして母と逃げれば良かったのだ。この地獄から、母を連れ出せば良かったのだ。
私は此処を、此処の誰よりも知っていた。言わば此処は私の庭だった。通常の通り道も非常の抜け穴も、部屋の配置も其の時間其処に誰がいるのかも、文字の羅列として覚えていた。然し、今日は何かが違った。手に取るように判るのだ。今どこで誰が何をしているのか、まるで私の掌の中に此処が収まっていて、何処からでも私は此処を見渡せるような。私が居るのは地下の奥にある座敷牢。然し脳は此のマフィア全域を見渡しているような感覚。そしてそこにいる人間すべてを、まるで人形遊びでもしているかのように自在に操れた。嗚呼、一人。また一人と消えていく。己の手で己の口へと銃を運び嗚咽混じりに泣いて引き金を引く姿は、実に清々しかった。然しそれと共に、何故今頃になって異能が応えたのかと途方に暮れていた。もっと、少しでも早く。これが私に応えていれば、母は死なずに済んだかもしれないのに。如何して、今。
母は、一人で苦しんでいた。私と会っていた時も、正妻の存在に怯えて、助けてくれない父親に失望して、此処での居場所が無に等しい自分に絶望して。私という存在が、父に必要とされる存在が、唯一母の拠り所に成っていたのだ。然し、異能を望まれていた私は異能を使えなかった。父親は其れにイラつきを隠しもせず、正妻は母を更に責め立て、陰湿な嫌がらせを続けた。私は会う度窶れていく母に、薄々気づいていた。濁った目をしていた。暗く、黒い。此の世を何も映していないかのような其の目に気づきつつも、母の確かな胸の温かさに縋り付いて、この世に留めるようにきつくきつく腕を回していた。そんな私に、母は弱い力で応えた。まだ大丈夫だとその度に、根拠もなく安心していたのだ。そう、根拠も無く。私が莫迦だったと気づいたのは、母と会えなくなってからだった。
一晩にして、父親もそのマフィアの構成員も凡て残らず命を落とした。私は異能を使った。それ故か、茹だるような体の怠惰感に、一人座敷牢で糸の切れた操り人形のように倒れ込み気を失った。
それがそのマフィアで過ごした、最後の日となった。