空白を埋める


「何故椿にあの任務を?」
「……おや、何か問題があったかい?」

太宰は鴎外の元に訪れていた。鴎外はヨコハマの夜景を見下ろす全面窓の前に誂えた椅子に座っている。傍らにはワイングラスが置かれ、アルコールと微かな果実の香りを漂わせていた。

「使えるものは凡て使う。其れが私たちの、やり方だろう?らしくないねぇ太宰君」
「……」
「其れに今回の任務は、椿ちゃんでなければならなかったのだよ」
「…と云うと?」
「うん、今回の任務の男は少々特殊な性癖持ちらしくてね?なんでも、背伸びする少女の姿に興奮を覚えるらしい」

ピシリ。太宰の表情が固まる。「は?」とたっぷりの威圧が篭った声が出そうになったのをぐっと飲み込み、鴎外の興味深い話に耳を傾けた。
背伸びする少女の姿に興奮?とんだ変態だ。確かに椿は16歳、あのパーティー会場には似つかわしくない年頃だ。然し着飾った姿は何処の女にも負けないそれだった。あの時の椿は少女では無く完全に女だった。…それが鴎外の云う背伸びする少女像であるとすれば。
サッと太宰の顔から血の気が引いた。


「まぁ、それも噂ではあったのだけれど…椿ちゃんの任務成功を見るに、噂は真実だったらしいね」
「はぁ…聞けば酒を飲んで隣に侍らせられたと。然しそれ以外は特に」
「椿ちゃんに気を良くしたのだろう。男は気になる女には自慢話をしたくなるものだよね。私も椿ちゃんが任務に出る前にその姿をお披露目して貰ったけれど、いやぁ、成長というものは残酷だ」
「……………」

特殊な性癖持ちとは人の事を云えるのだろうかこの男。

「冗談はさて置き、君がここに来た要件は椿ちゃんの今回の任務の事だけではないだろう?」
「ええ。椿に今後一切、今回のような任務を回さないで頂きたい」
「いいよ」

あっさりと鴎外はその要求を認可した。元々今回が特例みたいなものだからねぇと続ける。

「嗚呼、でもまた今回のような特殊性癖持ちのターゲットがいれば」
「断固。お断りします」
「……やれやれ、いつの間にか私よりも過保護になったものだ」


「いや、それとも他に理由があるのだろうね?」


鴎外は何か眩しいものを見つめるように、太宰へ視線を寄越した。
太宰は今迄見た事も浴びたことも無い其れにむず痒さを感じた。畏怖、絶望、憎しみ、悲嘆。どれとも異なるその視線の真意は何だ。
鴎外の言葉の意味を直ぐには理解出来なかった。然し先程から自身を必死に突き動かす、この煮えたぎるような感情の事を云っているのだと気付くと、ハッと鴎外に目を向ける。
太宰の腹の底でぐつぐつとマグマ溜まりのようになっているその感情の名は、怒りと似た空白の“何か”だった。


何も云わずに椿へ任務を与えた鴎外。何も云わずに任務を受けた椿。然し其れよりも、椿が男の手に触れられたという事実が何より太宰の神経を無遠慮に逆撫でした。あれは自分がこの手で育て、女にした。其の積み重ねはこの為にして来たものでは無い。

では、何の為に?
ポートマフィアの為。直ぐに出てきた答えに違う、と首を振る。最初はその為に地下から見つけ出した。教育に名乗り出て、彼女を外に連れ、片時も自分の側から離さなかった。そうだ、何時からだ。

何時からか自分は椿をポートマフィアの為にでは無く、自分の側に置くために彼女を。

そう気付くと走馬灯のようにカラカラと記憶のフィルムが流れる。予兆はずっと前から、彼女の言葉を遮って彼女を無理矢理部下にした時から、其れはずっと自身の陽の当たらない影の中で息を潜めて存在していた。


「椿ちゃんは君の部下だ。気に掛けるのも心配するのもわかる心算だよ。私もあの子の育ての親のようなものだから、余計にね」
「……違います」
「?」
「貴方の親心の其れと、私のは違う。確かに私は最初椿を育てる名目で地下から彼女を攫いました。然し、」


己の中にある感情、今までの行動を何度も思い返して、自分の中に燻る、未だ空白の其の名を。
太宰はゆっくりと頷き、1つの答えを導き出した。


「今、わかりました」


その顔は何処かスッキリとしていた。鴎外は目を細めて目の前の少年を見詰める。
親切と呼ぶほど綺麗な感情では無く、全くの他人に同情するほど心を砕ける人間では無いことは、太宰自身が1番よく知っていた。

「私は彼女を自分のものにしたかった」

「然し既に彼女は弟子として、部下として、私の手の中にいた。肩書きばかりに目が眩んで、私でさえ気付くのが遅くなったようです。嗚呼、なんでしょう、これは。酷く気持ち悪くて心地良い。今迄感じた事がない、否、私の中にはもう無いと思っていた。然し、今、見つけました」

先程までマグマのように熱く自分を支配していた感情の名は嫉妬。嫉妬とは恋い慕う者に向ける、人間が持つことを許された感情。椿に向ける己の恋情によって派生した、人間くさい、人間の感情。
見つけた其れに太宰は胸が高鳴り、その直後、一瞬恐怖した。然し気付いてしまってはもう遅く、箍が外れたようにとめどなく溢れる其れに恐怖が押し流される。
離すものか。絶対に手放してやるものか。生を引き伸ばした先でやっと手に入れた。嗚呼、矢張りここにあったのだ。探していたものの一つが。



鴎外は太宰のその様子を見て何処か満足そうに頷くと、「そろそろ椿ちゃん、船を漕いで君の事を待っているんじゃないかな」と云った。ハッと太宰は姿勢を正した。次いで踵を返し執務室の扉へと足早に向かう。


然し扉を開ける直前に、ピタリと太宰の動きが止まり、1つの質問を鴎外に投げかけた。


「そういえば、近頃中也と椿をよく組ませていますね。何故です?」
「おや…そうだったかな?何か不都合でもあるなら、調整するけれど」
「……いいえ。失礼します」

太宰の消えた執務室で鴎外は呟いた。

「…若々しい。眩しいねえ、エリスちゃん?」
「オヤジみたい。中年オヤジ!」
「ひどい…私もまだまだ若い心算だったが、本物の若さには矢張り負けるね…却説、」

折角得た感情に振り回される事は避けたいが、彼なら上手くやるだろう。寧ろそれに振り回されてくれた方が此方には都合が良い。
鴎外は既に始まっている作戦を、脳内で指先でなぞるのだった。