閑話 中原中也相談所
「そりゃあお前、太宰の野郎もそうなるだろ」
怪訝な顔をして云う中也に、椿は手元のグラスの氷をカランと鳴らして遊んだ。中はぶどうジュースだ。中也はワイン。定期的に開かれるこの会は、中也が以前「悩みがあるなら相談しろ」と云った時から始まった。悩みというよりは、椿が話す内容は上司である太宰が仕事をしないという愚痴ばかりである。
然し今回椿が訪ねてきたのは愚痴が目的ではなく、真っ当な相談だった。なんでも、先日男から食事に誘われたので行ってみて帰ってきたら太宰が怒っていたというのだ。中也は椿の話ぶりで色々端折ったなと察したが、そこだけ聞いても心当たりのあった中也には、全容が充分にわかってしまった。
それは数週間ほど前、中也が任務に太宰と同行した時のこと。確かハニートラップの一件の直後だ。気持ち悪いほど上機嫌に「やァ中也!」と挨拶に背中を叩かれた。鳥肌を立たせながら回し蹴りを繰り出すとヒョイと躱され、其れから太宰の口からは椿の話が尽きなかった。何かないわけがない。聞くと「漸く見つけたのだよ」としか云わない奴にだから何がだよ、とキレ気味に相手をして、変わらず椿の話をするその横顔をふと見れば、凡てを察した。そして「厄介なもんに気付きやがって」と1人口の中で呟いたのだ。
そして今度は椿のこれである。
中也はグラスをくるりと回すと、ワインの香りと共に赤い液体を口に運んだ。
「…で、んだよ。黙ってちゃわかんねぇぞ」
「……酒くさ、」
「…相っ変わらず酒の匂いが駄目だな」
「暫く嗅いでると鼻の奥が痛くなる」
「そんなにか!」
勢い余って椿を見て、ハッとする。
椿の襟元と長い髪の隙間からチラリと覗く赤い印に、勘付かないほど中也は子どもではない。そして椿も、もう子どもではなかった。
今迄太宰と椿の間柄を一番近く遠いところで見ていたのは中也だ。“そういう教育”をしていたことも知っている。だからあのハニートラップの一件があったことも分かっていた。太宰が椿を抱くことは教育の一環であると理解していたが、然しその赤い印には、教育という名目には留まらないものを感じた。太宰が椿を捕まえておく行動の意味は、部下だからという事だけではないと前々から察していたこともある。
其れが此度、自覚したと思ったら早速手を出しやがった。否、今の椿の話を聞くと嫉妬か…と中也はぐっと酒を煽った。椿の首から視線を逸らす。
(俺も近くで見ていた心算だったが……まぁ椿を連れ出したのは彼奴だ。そっちに傾くのも道理だろうな)
太宰よりも優しくしていた自信はある。
然しそれでも、未だ気づいてはいないものの、椿が太宰へ、信頼とは異なるそれを抱き始めている事は明白だった。何よりここ最近の椿の愚痴は様子が違っていた。酒の臭いではなく、女の臭いを気にするようになっていた。子どもらしい好き嫌いに滲むようになった、女への嫉妬。其れは明らかに、椿の中での太宰への気持ちの変化だった。
当の本人は其れには全く気づいていないどころか、大きすぎる信頼…信仰とも呼べるものの中に、その想いを埋もれさせてしまうのではないかという危うさすらある。
今太宰と椿の間にあるそれに気付いているのは、恐らく中也だけだった。否、2人の育ての親とも云える鴎外も気づいているかもしれない。然し近頃の任務では中也と椿を異様に組ませたがる為、矢っ張り気付いているのは自分だけか、と思案する。それで以前に、太宰に愚痴愚痴と八つ当たりされた事もあった。中也は太宰にまで相談窓口を開いた覚えはない。そして今後も開く予定は無かった。
隣で椿がグラスの中の氷を回して遊び始めた。零れるからやめろ、と制止の声をかける。
「結局手前はどうしたいんだよ」
「………わからない。でも、太宰の側にいたいとは、思う」
「ハッ」
「中也は、どう思う? これが何かわかる?」
どうって。そんな言葉は椿の目に射抜かれて声になる前に消えた。
俺の口から云っていい事なのか、俺が云えばお前は納得するのか、自分で気付かねえと無意味だ、お前にはまだ気付いて欲しくない。
結局中也は、口を噤んだ。
「…自分で考えろ。俺が云うのはお門違いだ」
「ええ…」
「手前本はよく読むくせにこういう時はほんと丁稚だよな」
「…意地悪」
「鈍いんだよ手前が!」
ビッと椿に指先を向け、半ばヤケになって口を開いた。
「手前の猟犬並みの嗅覚と勘と本能が云ってんだろ?その通りに動け。そしたら、知りたい事は結構簡単にわかるもんだ。…気に食わねぇが、奴の側に居たいなら離れんじゃねぇぞ。彼奴、前も丸腰で銃弾の雨ん中棒立ちしやがったからな」
ピク、と椿は耳を反応させ、わかったと呟いた。これで彼奴の自殺癖と愚痴が少しは収まるといいが。
(……俺も大概甘ェな)
太宰の野郎と椿は云ってしまえば両想いだ。目出度い事だ。
中也は自分の胸の中に燻るその欲の名に蓋をして、気付かないふりをした。
それにしても、その一件があったというのに自分の元に来ていいのか?とはたと気付くと、中也は拙い予感を流し込むように酒を煽った。