6
皇宮に向かう道すがら、僕が尋ねたのはセラ嬢の叶えたいと思っている未来だった。
今日の話し合いがどんな結末を迎えようと、僕はこの子を手放すつもりはない。
どうすれば彼女を僕の手元に置けるのか、その道筋もすでにいくつか考えている。
そうできると信じているからこそ、今は少しでも多く彼女自身が望んでいることを知っておきたかった。
けれど肝心のセラ嬢は、何かを頭の中で思い浮かべているようなのに、それを言葉にしようとはしない。
窓の外をぼんやり眺める横顔には、どこか頼りなげな色が浮かんでいて、それが妙に気に掛かった。
僕が首を傾けると、その気配に気づいたのか、彼女ははっと顔を上げた。
『夢は、そうですね……具体的なものは今はまだないかもしれません』
「そうなの?なんだか意外だね」
『意外ですか?』
「うん。だって、子供の頃はあんなにたくさん夢を話してくれたじゃない」
幼い頃、セラ嬢とはよく未来の話をした。
大人になったら何をしたいとか、どんな屋敷に住みたいとか、そんな他愛のない話を飽きるほど繰り返していたものだ。
彼女は天井の高い三階建ての図書館を作りたいと言って、その中央には立派な螺旋階段を置くのだと目を輝かせていた。
夜になれば室内から星空を眺められるような広いテラスも欲しい。
音楽室には色々な楽器と楽譜を並べて、庭園には大きなブランコと湖を作るんだと、次から次へと夢を膨らませていた。
僕たちが語り合った未来は、いつだって僕たち二人が一緒に過ごしている未来だった。
『あの頃はまだ子供でしたから、夢というより、贅沢な野望を語っていただけですよ』
「ははっ、野望って。でも、まあ確かにね。子供だから許されるようなことも、結構言ってたし」
『そうでしたか?』
「うん。たとえば、ピアノを両手両足同時に弾けるようになりたいとか、髪をラプンツェルみたいに長く伸ばして、屋敷の屋上から自分の髪を使って降りて、お忍びで街に出掛けたいとか」
思い出した途端、可笑しさが込み上げてきて、僕は思わず笑った。
するとセラ嬢は目を丸くしたあと、少しだけ頬を膨らませ、恨めしそうに僕を見つめる。
『どうして笑うのですか?総司様は、私の夢を馬鹿にしていたのですね』
「いやいや、馬鹿になんてしてないよ。ただ、今思い出すと少し可笑しくてさ。それに君、あの頃は本当に真剣な顔で話していたから」
『もう……そんな昔のことを思い出さないでください』
からかうように笑えば、セラ嬢の頬がまた少し膨らんだ。
その幼い仕草が懐かしくて、僕もつられて笑ってしまう。
けれど、その笑みの奥では別のことが引っ掛かっていた。
今の彼女には僕には話せない理想の未来があるのだろうか。
王太子と共に生きる未来を思い描いているのではないか。
帝国に連れて来られた今となっては、それが叶うかどうかもわからないから、口にしないだけなのかもしれない。
そう考えてしまえば、心に小さな影が落ちた
『具体的な夢はありませんけど……人の役に立てる人でいたいとは思っています。総司様が帝国のためにお仕事をされているように、私にも何か役目を与えていただけたなら、その務めを精一杯果たしたいです』
「そっか。それはアストリアでも、帝国でも変わらない?」
『はい。もちろんです』
自分がどうなりたいかより、誰かの役に立てる人間でありたいと願うのは、彼女らしい答えだと思った。
昔と変わらない彼女の様子に微笑んだ時、馬車がゆっくりと速度を落とし、やがて皇宮の正門前で止まった。
扉が開かれ、先に降りた僕はセラ嬢に手を差し出す。
セラ嬢がその手を取った時、指先から伝わる僅かな震えに気づいた。
でも今日の話し合いが、彼女のこれからを決めることになるかもしれないのだから無理もない。
僕はその手を支えながら馬車から降り、少し緊張した面持ちの彼女に声を掛けた。
「今日の話し合いで、どんな結果になるかは僕にもわからないけどさ。もし君に何かを選ぶ機会が与えられたなら、何を選ぶのかはセラ嬢自身が決めればいいよ。どんな道を選んだとしても、それを誰かに責められる筋合いなんてないんだから、ちゃんと考えて、自分が後悔しないと思えるものを選んで」
さっき彼女が話してくれた言葉を、今度は僕から彼女に返した。
するとセラ嬢は大きな瞳をさらに大きく見開き、それからほっとしたように柔らかな笑みを浮かべた。
『ありがとうございます。総司様にそう言っていただけると心が軽くなります』
「それなら良かったよ」
素直なセラ嬢のことだ、僕の言葉を疑うことなく、真っ直ぐに受け取ったのだろう。
不安そうに揺れていた表情が、少しずつ柔らかなものへと変わっていく。
その様子を眺めながら、僕は静かに微笑んでいた。
もちろん、何を選ぶのかは君の自由だ。
誰かに決められるのではなく、自分自身で選ぶべきだと思っている。
けれど、選んだ道には必ずその先の未来がついてくる。
選ぶということは、選んだものによって生まれる結果も、自分で受け止めるということだ。
だから僕は何を選ぶにしても、あとで後悔しないようによく考えてほしいと伝えた。
君がその先に何を望み、何を失うことになるのかまで、きちんと考えた上で選ぶのなら、僕はその選択を邪魔するつもりはない。
少なくとも、今はね。
「じゃあ、行こうか」
そう声を掛けて歩き出すと、セラ嬢も小さく頷いて僕の隣に続いた。
皇宮の大理石の廊下を進むにつれ、行き交う騎士や侍従たちが僕たちに気づき、静かに頭を下げていく。
普段なら気にも留めない光景だけど、今日はどうにも空気が違って感じられた。
やがて重厚な扉の前に差し掛かると、侍従が恭しく扉を開く。
その先に広がっていたのは、皇帝陛下の御前だった。
広間の奥、高い玉座に陛下が座し、その左右には重臣たちが控えている。
僕はセラ嬢を伴って中に入り、静かに一礼すると、彼女を謁見の様子がよく見える場所へと案内した。
「君はここに座って。僕は陛下の近くに待機するから」
用意された椅子に彼女が腰を下ろすのを見届けてから、僕は陛下の傍へと向かった。
帝国の剣として、この場で僕に許されているのは、余計な口を挟まず、陛下の決定を見届けること。
セラ嬢から少し離れた場所に立ち、玉座を見上げれば、陛下と視線が重なった。
陛下の表情を見れば、今回の王太子からの申し出は、帝国側からしたら厄介なものなのだということがわかる。
最悪の場合、彼女を返還せざるを得なくなる……そう考えると苛立ちから握る拳に力が入った。
それから暫くして、謁見の間の扉がゆっくりと開かれた。
静寂に包まれた広間へ足を踏み入れてきたのは、ルヴァン王国王太子である薫殿下。
その隣には近衛騎士のはじめ君が控え、王太子は周囲を見回すこともなく、真っ直ぐ玉座へ歩みを進める。
僕は重臣達と並び、その姿を静かに見つめていた。
帝国に足を運び、セラ嬢の様子をその目で確かめた時から、この男が次に狙うのは皇帝陛下との直接交渉だと予想していた。
本来であれば近藤公爵自ら帝国へ来るべき案件だけど、現在閣下は病に伏せている。
だからこそ、この場に立っているのは王太子なのだろう。
「このたびはお時間を賜り誠にありがとうございます、皇帝陛下。まず初めに、一通の親書をお預かりしております。こちらはアストリア公国近藤公爵より陛下に宛てた親書でございます」
王太子は懐から封蝋の施された書状を取り出し侍従に差し出す。
侍従が玉座まで運ぶと、皇帝陛下は静かに封を切られた。
謁見の間は、水を打ったように静まり返る。
読み終えた皇帝陛下は書状を閉じ、王太子に視線を向けた。
「近藤公爵は現在床に伏しており、長旅に耐えられるお身体ではございません。ですが、父親として娘を想うお気持ちは今なお変わることなく、このたび私へ正式に交渉の全権を委ねられております。本日はタルタリア帝国とアストリア公国の間に結ばれた講和条約について、ひとつ申し上げたく参上した次第です」
親書まで用意されてしまえば、王太子には正式な交渉権がある。
陛下も門前払いにはできないということだ。
「申してみよ」
深く一礼すると、王太子は顔を上げる。
穏やかな笑みを浮かべながらも、その双眸だけは微塵も揺らいでいなかった。
「現在、アストリア公爵令嬢であられるセラ嬢は、講和条約に基づく担保として帝国に留め置かれております。しかし講和が成立して以来、両国の間に大きな衝突はなく、今日まで和平は維持されております。アストリアが帝国との約定を違える意思を持っていないことも、すでに明らかかと存じます。であればセラ嬢を人質という形で帝国に留め置く必要はないのではないでしょうか」
「つまり其方は、セラ嬢の返還を要求すると言うことか?」
「はい。彼女を祖国へお返しいただきたいというのが本日の案件です。どうかセラ嬢をアストリアへお帰しくださいますよう、正式にお願い申し上げます」
はっきり紡がれた言葉を聞いても、陛下は眉一つ動かさなかった。
北部最大の権力を握る帝国が、そう簡単に講和の内容を変えるわけがない。
これなら事なきを得そうだと思っていた矢先、王太子は言葉を続けた。
「もちろん、ただ返還をお願いしているわけではございません。帝国にとっても、この申し出を受けるだけの利が必要であることは承知しております。そこで我が国より、いくつかの条件を提示させていただきます。まず、東部交易における帝国への優遇措置を拡大し、東部でのみ産出される鉱石や薬草についても、帝国への優先供給をお約束いたしましょう。また今後十年間、帝国商人に課される関税を大幅に引き下げる用意もございます。そして今後、講和条約に関して何らかの問題が生じた場合、その責任は私が負うと王家の名にかけてお約束いたします」
つまり、帝国にとって不利のない条件を整えた上で、講和の保証をアストリアだけでなく王家も担う。
その代わりに、セラ嬢を返還してほしいということか。
条件だけを見れば、決して悪い話ではない。
けれど、陛下と僕の間には以前交わした約束がある。
講和を成立させた僕への報酬の一つとして、セラ嬢を僕の望むままにする、それがあの時の約束だった。
だからこそ、陛下も簡単には首を縦に振れないのだろう。
陛下はしばらく黙ったまま、何かを考えるように僕を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「貴国が何を差し出そうとも、帝国が講和の際に得た権利を手放す理由にはならない。アストリア公爵令嬢が帝国に置かれたのは、今後の和平を保証するためだ。その約定は今なお有効だ」
「私は講和条約そのものを覆していただきたいとは申し上げておりません。ただ東部の貴族を、長きにわたって人質という立場に置き続けることについては、いささか考慮していただきたいのです。アストリアが帝国との約定を守っているにもかかわらず、その家の令嬢を人質として留め続ける。それが東部の諸侯にどのような印象を与えるか、帝国もお分かりになるでしょう」
「こちらとしては、彼女をいつまでも人質として扱うつもりはない。すでに今後の身分についても正式に決めてある」
「今後の身分……ですか?」
「そうだ。彼女は近く、帝国貴族の妻となるからな」
その具体的な話はまだ公にはしていないものの、ここまで来ればもう隠し続ける必要もないのだろう。
王太子は一度だけ視線を伏せ、それから皇帝陛下を見上げた。
「処遇が決まっているのであれば、帝国の然るべき家でしょう。どちらに嫁ぐ予定かお伺いしても宜しいですか?」
「彼女は来月、アルディオン公爵家で側室として迎えられる予定だ」
その言葉を聞き、王太子の表情が明らかに変わった。
驚きというより、予想外の事実を突きつけられた顔だった。
「やはりそうでしたか。ですが和平のため帝国に連れて来られた女性が、その後帝国の貴族に嫁ぎ、しかも正妻でなく貴側室となる。その意思確認を帝国内だけで行うことに、東部として異議を唱えます」
「ならば、そこ理由を申してみよ」
「アストリア公爵家には、セラ嬢しか子がおりません。東部では、その唯一の子に家の継承権が認められます。ですから、彼女が帝国の貴族と婚姻し、その子が帝国で育つことになれば、アストリア公爵家の継承権まで帝国側に取り込まれることになります。これはアストリア一国の問題ではなく、東部の諸侯家が帝国との婚姻によってその権利を失う前例にもなり得ます。それに人質として預かったことと、アストリアの継承や内政に干渉する権利を得たことはまた別です。講和条約で認められた範囲を超えて、東部の諸侯家の権利まで帝国に取り込むことは、東部として受け入れられません。帝国の威信を保ちながら、東部もまた自らの諸侯家を守れる形を維持していただきたいのです」
「だが実際、アルディオン公とセラ嬢は以前婚約関係にあった筈だが」
「お二人の婚姻自体を政治的な問題だとは考えていません。問題なのは今の彼女の立場です。幼い頃の婚約は、セラ嬢がアストリア公爵家の令嬢として、総司殿に嫁ぐという話でした。しかし現在の彼女は、講和の保証として帝国に置かれている人質です。その立場のまま婚姻を成立させるということは、東部の意思を無視していることと同等です。少なくとも本人とアストリア公爵家、そして東部を取り仕切るルヴァン王国の意思を確認した上で決めるべきでしょう」
言っていること自体は間違っていない。
正式な婚姻を結ぶとなれば、家の承認はもちろん、東部ならルヴァン王国、北部ならタルタリア帝国の承認を得るのが通例だ。
幼い頃、僕とセラ嬢が婚約した際も、同じ手順を踏んでいる。
けれど、あの頃と今では、決定的に違うものがひとつある。
セラ嬢はもう、ただのアストリア公爵家の令嬢ではない。
講和の保証として帝国に置かれた人質だ。
僕が静かに手を挙げると、玉座の陛下がわずかに頷き、それを合図に僕は口を開いた。
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