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謁見の場で交わされた言葉を聞きながら、私は座ったまま息を呑んだ。
今まで何も知らされていなかった帝国での処遇が、まさか総司様のご側室になることだったなんて考えたこともなかったからだ。
総司様の奥様になることは、幼い頃から私が心で大切に抱いていた夢だった。
大好きで大切で、いつか総司様の隣に立てたらと願っていた。
けれどその夢はもう決して叶うことなどないと思っていたのに、それが今、思いもよらない形で再び現実味を帯びてしまったことで、自分が何を感じているのかさえよくわからなくなっていた。

それに昔と今では何もかもが違う。
薫様が仰った通り、今の私は講和の人質として帝国に身を置いている。
もし総司様と婚姻を結ぶことになったとしても、アルディオンとアストリアは幼い頃のような対等な関係ではない。
この婚姻がアストリアや東部の国々にどのような影響を及ぼすのかも、帝国が何を考え何を望んで総司様に私を娶らせようとしているのかも、私にはわからない。
そんな不確かなものを抱えたまま、ただ昔からの想いだけで婚姻を受け入れてしまうことがどれほど危ういことなのかは、薫様の言葉を聞けば私にもわかった。
それに何より私に与えられる立場はご側室なのだ。
幼い頃に憧れていたのは、総司様の隣にひとりの女性として並ぶことだった。
誰かに決められた身分として、総司様の妻になることではない。

あの夜、アストリアに総司様が来た時も総司様は約束を果たしに来たと仰った。
だけどあの約束も、今目の前にある婚姻の話も、私が幼い頃に思い描いていたものとはあまりにも違っている。
そこに愛情も相手を敬う気持ちもないのだと考えると、心がひどく冷たくなって、私は込み上げてくる涙を見られないようそっと眉を寄せた。


「陛下。僕からも発言の機会をいただいてよろしいでしょうか?」


総司様が手を挙げ、静かな声でそう言った。
陛下の傍らに控えている総司様の姿を見ていると、私の処遇についてはとっくに知らされていたのだと思う。
昨日、総司様が仰った君を悪いようにはしないという言葉を思い出してしまえば、心が苦しくなった。
総司様は、本当にこれでいいと思っているのだろうか。
私と総司様の間には、幼い頃の婚約だけではなく、大切な思い出も辛い出来事もたくさんある。
それなのに国や政治の都合で私と婚姻を結ぶことを、総司様自身は何とも思わないのだろうかと疑問に思った。


「うむ、よかろう」


陛下から許しを得ると、総司様は一礼し、薫様へと向き直った。
私には一度も視線を向けず、口元に僅かな笑みを浮かべたまま、淡々と言葉を紡ぐ。


「王太子殿下、あなたはセラ嬢が帝国に人質として来た経緯をお忘れではありませんか?そもそも講和は、アストリアを存続させる代わりに結ばれたものです。ですから人質であるセラ嬢は、規約に反しない限り、帝国側がどう扱おうと自由なはずです」


相変わらず冷たい物言いだった。
再会したばかりの頃なら、その言葉だけで胸を深く傷付けられていたと思う。
けれど今は、以前ほど痛みを感じなかった。
それが総司様の本心ではないと、いつの間にか私は信じてしまっているからなのかもしれない。
そう思う自分が正しいのかどうかもわからないまま、私は目を逸らさず、総司様と薫様を見つめていた。


「人質として帝国に置くことと、その身の上を本人の意思とは無関係に決めることは、決して同じではない筈ですが?」

「講和条約に、そのような文言はありませんよ」

「ええ。ですが、条約によって帝国に認められた権限は、人質としてセラ嬢を留め置くことに限られます。その身の将来まで、帝国の判断のみで決定できるとは条約のどこにも定められておりません。その権利を根拠として彼女の婚姻まで帝国だけで決めてしまうなら、アストリア公爵家に残されている家の意思まで無視することになるでしょう」


薫様は、私自身の意思や、アストリア公爵家の立場まで考えてくださっている。
その配慮に感謝していると、薫様は更に言葉を続けた。


「それに条約によれば、人質として帝国に置かれた者がその身の安全を守られ心身ともに健やかに暮らせるよう、帝国が責任を負う旨も定められております。ですが先日の狩猟会で、セラ嬢が心を病み自ら傷をつけたと……そのような騒ぎになったと聞きました。そしてその時、総司殿は彼女が心を病んだ理由のひとつに、彼女の母親の死にご自身の母親が関わっているという過去があると仰っていたそうですね」


狩猟会の日、私はアルディオン公爵家で受けた傷を、陛下の前で見せた。
あの時は、私が自分で傷をつけたのだという話にされてしまい、その場を終えるしかなかった。
けれど薫様は、その出来事を私を守るための糸口として拾い上げてくださっていたのだ。
先日お会いした時、薫様は私をアストリアに戻せるかもしれないと仰っていた。
あの言葉の裏には、すでにこの件について考えてくださっていたのかもしれない。
帝国側に落ち度がある以上、私を守るために使えるものがあると、薫様は知っていたのだろう。


「その件を耳にして、私は実際にセラ嬢の様子を確かめるため、こちらに出向きました。アルディオン公爵家を訪れた際、それが事実であることを、彼女自身の口から私と、ここにいる従者の斎藤が確かに聞いております。その場には総司殿もおられました」


薫様の声は穏やかだったけど、そのひとつひとつの言葉には、逃げ道を与えない強さがあった。


「その時は、私も条約違反だと申し立てるつもりはありませんでした。ですが、その事情を知りながら、彼女を再び同じ苦しみの中に置く婚姻を進めるのであれば、話は別です。帝国が誇る法と規律とは、都合のよい時だけ守るものなのでしょうか。条約に定められた人質の安全を一度見過ごし、事情を知った後もなお同じことを繰り返すのであれば、それは単なる見落としではなく、帝国自らが条約を破ることを選んだと受け取られても仕方がありません」


謁見の間に重い沈黙が落ち、張り詰めた空気だけが広い室内に満ちていく。
私は膝の上で両手を重ねたまま、じっと俯きそうになる気持ちを堪えていた。
薫様は帝国そのものを屈服させようとしているわけではなく、帝国が自ら掲げた法と条約を、本当に守るのかと問いかけているのだ。

もしここで私の婚姻を帝国側の都合だけで決めてしまえば、アストリアとの問題だけでは済まない。
帝国と交わした条約は、本当に守られるものなのか。
帝国は弱い立場にある者との約束すら、自分たちの都合で変えてしまう国なのではないか。
そんな疑いが、大陸の国々にまで広がることになるのだろう。
それに、おそらく陛下もあの傷は私自身がつけたものではないことをご存知だ。
帝国側の落ち度を一度無理に力で抑え込んだ手前、この件に関しては強く出られないことを陛下も理解されたのだと思う。
長い沈黙のあと、陛下は玉座の背に身を預けるようにして、静かに息を吐かれた。


「其方が言いたいことはよくわかった」


低く落ち着いた声が、静かな謁見の間に響く。
陛下はまず薫様を見つめ、それから総司様へと視線を移された。
総司様は何も言わずにただ静かに立っている。
その横顔からは、どんな考えを抱いているのか少しも読み取れなかった。


「セラ嬢自身に、総司との婚姻を認める意思があるか。それともアストリアに戻ることを望むのか。本人が婚姻を望むのであれば、私はそれを認めよう。だが、戻ることを望むのであれば、その意思もまた尊重する」

「ありがとうございます。それほどのお言葉をいただけるのであれば、私からこれ以上申し上げることはありません。セラ嬢が自ら総司殿との婚姻を望むのであれば、私もその意思を尊重いたします。ですが、本人が帰還を望むのであれば、どうかその願いをお認めください。講和を維持するための新たな保証については、私自身がその責を負い、アストリアとの約定を改めて帝国にお約束いたします」


薫様の言葉が途切れると、謁見の間には再び静けさが戻った。


「ならば、これ以上こちらだけで話を進める必要もあるまい」


陛下の視線が私に向けられ、心臓が大きく跳ねた。


「セラ嬢。総司の側室となり、この帝国に残るか。それともアストリアに戻ることを望むか。どちらを選ぶかは、其方自身が決めよ」


胸の奥に押し込めていたものが、一気に揺れ動いた。
大好きだった人の隣で生きること。
それは私にとって、何よりも大切な願いだったはずなのに、今こうして目の前に差し出されると、嬉しさよりも悲しさばかりが心を満たしていく。

けれど、アストリアに戻れば、お父様がいる。
長い間会えなかった友人たちもいる。
私を待ってくれている人たちの顔を思い浮かべると、胸の奥がじんと熱くなった。
そして何より、私には薫様がいる。
帝国で私が一番辛かった時、薫様が会いにきてくれて、私のことを信じてくれてどんなに嬉しかったことだろう。
あの日、私は心に誓った。
アストリアに戻れる日が来たら、薫様の隣にいたい。
今度は私が薫様を支えられる人になりたいって。

私は膝の上で指をそっと握りしめ、俯きそうになる顔を懸命に上げた。
そして、総司様を見つめる。
総司様は何も言わず、ただ静かに私を見つめていた。
その瞳の奥に何があるのか、私にはわからない。
けれどその視線を受けた時、幼い頃に憧れていた人の姿と、今の私が知っている総司様の姿が重なって、胸がどうしようもなく苦しくなった。

私は、この人を残してアストリアに帰ろうとしている。
目の前にいる総司様に手を伸ばさず、別の場所で生きる道を選ぶのは、これが二度目だった。
一度目は、アストリアで総司様のお母様が罪に問われた時。
話を聞いてほしいと必死に声を上げていた総司様に、私は自分の意思で背を向けた。
そして今もまた、総司様の隣で生きていく未来を選べる立場にいながら、私はその未来を手放そうとしている。
あの頃も、今も、総司様を誰より特別に想っている気持ちだけは変わらないのに、私が選ぼうとしているのは、総司様と離れて生きる未来だった。

この選択が正しいのかなんて、私にはわからない。
ただ、アストリアに帰りたいという気持ちだけは、ずっと胸の奥に残っていた。
だから私は震えそうになる唇をそっと結び、陛下を見上げた。


『皇帝陛下。私に、このような選択をお許しくださってありがとうございます』


声が震えないように、膝の上で握った手に力を込める。


『私は、アストリアに戻りたいです』


はっきりと言葉にすると、思っていた以上に心がひどく痛んだ。
けれど、その一言を口にするまでに、私は何度も心の中で迷い、何度も総司様の顔を思い浮かべていた。

そして最後に、もう一度だけ総司様を見つめた。
エメラルド色の瞳と視線が重なる。
胸の奥に鋭い痛みが走ったけど、私はそれでも微笑もうとした。
大好きだった人だからこそ、総司様から離れて生きる。
それが今の私にできる精一杯の選択だった。


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