――彼女はこんな顔もできるのか。
呆然と見上げたその先には、まだ自分の知らない彼女がいた。
揺蕩う海の上で、ぐらりと揺れた。――なぜだ。わからない。手が届きそうで、届かない。あと少しの距離がもどかしい。自然と右手が宙を彷徨う。早く、行かなきゃいけない。焦燥にも似た感情が溢れる。
そうかこれは―――――。
言葉を発する前に身体は暗い海の底に投げ出された。


* * *

ジリリリリリ。ガチャッ。カチカチ。
「エース、起きてる!?」

耳元で聞こえるいつもの声の後に、網膜が刺激された。
いつのまにか全開になった群青色のカーテンを纏める後ろ姿。
――朝か。
男は寝起きの頼りない思考で考えた。先ほどの音は自身の眠りを妨げる強敵でもあり、相棒でもある。今日はむなしくも彼女の手によって何戦何勝かも分らない勝敗に決着を付けられたが。静かに佇む目覚まし時計は心なしかいつもより小さく見えた。

「何寝惚けてるの!今日はマルコ先輩のお家に行くんでしょ?全部聞いてるんだからね!?てかマルコ先輩もエースが起きないの分かって私に連絡してくるの性質が悪すぎる!こちとらそんなに暇じゃないっての!…ってこら!だから寝るなってば!」

友人への悪態をついているのか独り言なのか、よくわからないような声が聞こえる。あぁ、また頼まれたのか、なんて自身を包む掛け布団の下で思わず笑みが零れた。いつもなら煩わしい声も何故だか心地良い。どんな夢を見てたっけな、と考えたところで彼女は痺れを切らし、右足を懇親の力で振りかぶって――振り下ろした。腹部直撃。声にならない声が出た。

「最悪だ」
「遅刻だ」

声を揃えて二人して家をでた。
片や大遅刻。片や依頼不達成。それはもう絶不調のコンビだった。

「マルコ先輩から連絡きたの何時だったの?」
「3時間前」
「はぁっ!?信じらんない!そもそも3時間も遅刻しても見捨てないマルコ先輩本気で尊敬するわ」
「あ?お前、おれ以上に尊敬できる先輩なんていねェだろ!?」
「来世では絶対にエースは先輩にしたくないなあ。いうなれば全人類で先輩にしたくないランキング堂々の一位!私至上16冠達成おめでとう!」
「仮にも幼馴染にひでぇいいようじゃねぇか!」

このっ、と飛び付く様に綺麗に結われた髪の毛をこれでもかと乱しまくる。30分も掛かったのに、と悲鳴を上げる彼女を他所に男は満足げに口端を上げた。
男は現状に満足していた。生まれた時から今まで傍に居てくれる存在に。
自分の人生に一番に関与してくれる彼女に。全人類で唯一無二の異性の幼馴染に。
そして“幼馴染以上、恋人未満”という関係に。


「…はぁ、はぁ、着いた。15分で到着、また、タイム更新…、あーダメ。もう走りたくない」
「お、日に日に縮むな」
「誰のせいだと思ってんの?」
「おれの“おかげ”だろ?」
「バカいえ」

マンションのエントランスに入る前に今着いた、とメッセージを送ると秒で既読がついた。直後、コンコン、軽快に何かを叩くような音が聞こえ二人して音の方を向いた。彼女は恐る恐る手を振りぎこちなく笑う。この真上はベランダだったか。しかもよりによって友人の。上からこちらを見ている友人が果たしていつから俯瞰していたかは不明だが、隣の彼女に手を振り返す姿が映る。そのあと目線だけが男の方へズレる。上がっている口角に対し、歪みない半開きの目元。
――あ、おれ、これ死んだか?
冷静に判断できるくらいの余裕はあったと思う。

目的の人物の部屋に招き入れられ荷物を降ろした途端、お前は買い出しだと早々に追い出された。着いたばかりだというのに扱いが酷い。まぁ3時間も遅刻すりゃそうか。予想通りだ。友人の手前には彼女のしたり顔が見える。笑うなと肘で小突くと、友人からさっさと行けと言わんばかりに目で制された。はいはいわかりました。差し出されたお札を2本指で受け取り、靴を鳴らした。

目的のコンビニは徒歩5分、信号を越えた先にある。
――こんなことならこっちに先に来るべきだったか。
いや、それは遅刻していない場合が前提だ。遅刻して尚コンビニに寄り道など幼馴染の彼女が許す訳もない。
チャチな来店音が鳴る。涼しい店内にはハリのいい音楽が響いていた。かごを手に取り幾つかお菓子を手に取り放り込む。最後に向かうリーチインショーケースに陳列された飲料水を見渡した。
夜であれば否応無しにお酒で問題なかったが生憎ギリギリ朝。そろそろ正午にもなりそうな時間だった。顎に手を当て思考した。
昼食は、あの面倒見の良い友人が今日も大量に適当に何かを作ってくれているに違いない。それならなんでもいいか。途端に考えるのが馬鹿らしくなり適当でいいか、と自分基準で2リットルのお茶を2本。500mlのジュースを3本選ぶ。勿論お釣はちゃっかり自身の財布に。大量のお菓子や飲み物を含んだかごは想像以上に重かった。
やる気のないありがとうございました、という音を背に、今しがた購入した商品を漁る。
先ほどよりも強く差しているような太陽に舌打ちをする。自棄に喉が渇く気候だ。
男は自分用に選んでいた炭酸水を一つ取り出した。キャップに纏わりついているキャラクター物のストラップにそういえば彼女はこれを集めていたような気がする、と思いだし掌に乗る小さなそれを一瞥した。『エースとマルコ先輩に似てるね』と笑っている姿は今も鮮明に残っている。形の大きさとは裏腹にニヒルな笑み浮かべたストラップはお世辞にも世間一般の女が好みそうな“可愛い”とはかけ離れている。
男は自分と友人に似ているというだけで好きだと言っていた彼女の愚直さに鼻で笑った。
彼女が絶対に自分でゲットすると豪語していたソレを獲得してしまったと伝えると、彼女はどう思うだろうか。反応は2通り思いついていた。
そうなったらいいな、と思う予想と、恐らくそうなるだろうな、という未来予知に近い予想。
くだらねえな。と一瞬にして興味が削がれた小さなそれは、ズボンのポケットに強引に仕舞い込んだ。
――絶対に渡してやるものか。
意地のようなものも含まれていたと思う。したり顔で笑っていた罰だ。力なく笑いそのまま歩みを進めた。
そうでないと、自覚してしまった自身の感情が抑えられそうになかった。
流れていく粒が小さくアスファルトを濡らした。暑さから来た汗でもない。もちろん、ペットボトルから溢れた水滴でもない。視界は徐々に滲んでいく。ぼやけた足元に思わず空を仰いだ。
男はもう一つ思い出してしまったのだ。
ーー今頃あの二人は何をしているんだろうか。
彼女と友人、もとい苗字とマルコがつい先日から恋人同士になったことを。




ザァ−ン、と波打つ音と潮風がそよいでいる。
嗅ぎ慣れた磯の香りと野郎どもの汗臭いにおいに引っ張られるように意識が下りてきた。
――ここは?何をしていた?
状況を把握するよりも前に「隊長―!」と縋りついてくるむさ苦しい目の前の男を引き剥がした。
ついさきほどまで持っていたはずの重みのあるコンビニの袋は手元にはない。目に映る景色も全く異なっていた。
偉大なる航路の上だ。戻ってきたのか。いや、そもそも夢か。どうやら白昼夢を見ていたようだ。
びっしょりと濡れた体を乾かすように炎を灯せば纏わりついていた海水の不快感は消える。
――そうか、海に落ちたんだった。
海王類を追い求めすぎて海に落下してしまった自身の愚行を思い出し後頭部を掻いた。無事に救出できて一安心だと笑う部下と、呆れたように笑う連中はいつも通りでホッとした。

「エース!また落ちたの!?」
能力者の癖に信じらんない、と息巻きながら検温をしている目の前のナースは、勢いよく診察器具を剥がした。
「ワリィ、つい、な」
「海王類仕留めた後だったから良かったものの、一歩間違えたら危なかったんだよ?仕事の途中でエース隊長が海に落ちましたー、って慌てて医務室に駆け込んでくるアンタの部下を見るのもう飽きたっての!」
「そういうなよ、次の島でアイス奢ってやっから」
「食い逃げ常習犯は信用できません!」

なんだかんだ面倒見がよくて文句を言いつつもきちんと対応してくれるそいつは俺とほぼ同時期にこの船に乗船した苗字だ。
関係的には隊員とナースであるが、ほぼ同期ということもあり、書類整理、海に落ちた時の異常がないかの問診、そのほか下船する時の情報収集とかでツレになってもらうことも多い。そういった時は女がいた方が何かと便利な時もある。素性を濁すには。乗船しているナースがそういった仕事をやる必要はないが、以前トラブルにて相棒を頼んだ時思ったよりも頼りになる女だったのでオヤジに頼み込んで兼用してもらうことになっていた。ナース以外の女が乗船していないこの船では異例といえば異例な存在である。陰では『エース隊長の相棒兼ご主人様』とのことらしい。おれが支配されているなんて不名誉にもほどがある。
炎で温めるから必要ないと一蹴した問診は強引に行われており、案の定問題ないと分かるや否や医務室から追い出した苗字に相変わらずこえー女だとひとりごちた。

「そうだ、作業終わったら甲板に来いよ!」

言い忘れていた、と閉じた医務室の扉をもう一度開けそう告げると「わかったから仕事の邪魔しないで!」と半ヒステリックに叫ばれた。周りにいるナース達も苦笑している。
――アイツ、生理前か?
 そんなことをいうとセクハラだと更に臍を曲げそうだったから、寸でのところで飲み込んだ。