海に行こう、と迅さんが言った。ふたりでトーストをかじりスープの器をおそるおそる持ち上げていた、春の朝。まだわたしは中学生で、迅さんは高校生だった。「海沿いに水族館あるでしょ。知ってる?」「話だけ聞いたことあります」母が生きていたころ、友人がいたころに、いつか行こうと言っていた場所だ。話したときは新設されたばかりで建物がとても綺麗だと、話題になっていたらしい。市外の海と、そこに沿う水族館。
 迅さんは「じゃあ食べ終わったら準備して行こう」と、トーストののこりひとかけを大口で食べきった。わたしはようやく冷めてきたスープを喉に流しこむ。きのうのミネストローネの残り。陽太郎くんや迅さんがはしゃいで具を食べまくってしまったので、手元にあるのはトマト味の具無しスープに近い。
 食べ終わって食器を片づけてから、自室に着替えに行こうとして、はたと足を止めた。「迅さん」「うん?」振り向いた迅さんは制服を着ていた。普通校の学ラン。わたしは中学校のブレザー。
 きょうは平日だ。

「いいんですか、学校」
「いいよ、今日くらい」

 迅さんの言葉に、わたしは黙って頷いた。
 春の空気はまだ少し冷たい。



 トリガーホルダーは置いてきた。
 朝早くの電車を下り方面へ、最初はラッシュ時の混雑が少しは牙をむいていたけど、だんだん人は減っていった。平日に海に行く人間なんて、そういないということだ。
「悪いことしてるみたいですね」
「そうかな、戦術的でしょ」
 わたしたちはふたりとも学校に欠席の連絡を入れて、机には「学校に行ってきます」と書き置きを残した。支部長やゆりさんたちは本部へ、レイジさんは大学へ行っている。わたしの部屋で机に置いたトリガーホルダーを見つけるなどしなければ、きっとバレない。任務も何も無い日だから。
 私服になった迅さんはその年齢より大人びて見えた。わたしもそうなのかもしれない、と言うのは水族館の入口で料金表を見上げていたとき、「大人2枚でよろしいですか?」と行列をさばくスタッフに訊かれたからだ。いや、とふたりで一瞬反論したけれど、身分証を制服のポケットに入れっぱなしていた。大人しく、大人2枚のふりをして料金を払った。「俺が出すよ」と迅さんが言うのを、「じゃああとでごはんを奢ってください」と止めながら。

 水族館の中は青い。
 水槽の色がそこかしこに反射して、青い光がちかちかと床を照らしている。色鮮やかな魚がスイスイと泳ぎ、ペンギンは直立のまま動かない。「何が好き?」見とれて、つい水槽に触れてしまったわたしの手を迅さんはそっと掴んだ。ガラスみたいに冷たい指。迅さんを見上げながら、「……一番はわからないです」と答えた。一番を決めろと言われたらどうしても目の前のひとになってしまう気がした。
 迅さんは「そっか」と、わたしの手を掴んだまま薄く笑った。

 サイドエフェクトのある目。風刃を持つ人。ただの高校3年生にしては、このひとが背負うものはあまりに重たい。みんなわかっているけど、わかった上でこのひとに頼るしかない。世界を背負うにはあまりにも人並みの青年の両肩に、負いきれないほどのものをのせるしかない。
 迅さんのおかあさんは近界民に殺されたらしい。
 人並み外れたサイドエフェクトがあって、そのせいではなく失うものが多くあって、それを顔にも言葉にも出さずに戦う彼のことを、わたしはすごいとか偉いとかの言葉で表せない。あの日見た迅さんの目が、わたしのすべてになった。そこには彼がどんなひとであるかという要素は関わっていない。

 冷たい指をしているひと。
 トリオン体と変わらないはずの背格好は、いつもより少しだけ近くに感じる。

 水族館のカフェで簡単にごはんを済ませて、すぐそこの海に向かった。
 靴と靴下を脱いで、コンビニでウェットティッシュを買ったときの袋に入れて、浜辺を歩く。波が濡らしているあたりはシーグラスや貝殻も少なくて、思っていたより滑らかな感触がする。

「まだちょっと冷たいな」
「でも、想像していたより冷たくないです」
「海って真冬はあたたかいって言うよね」

 海風が互いの服や髪をばらばらと揺らす。
 掴まれて、握り返したままの手は冷たい。指先が特別真っ赤になっているとかではなく、ただわたしよりこのひとの体温が低いのだ。見上げる顔は穏やかで、彼が見ている海はあんまり広大で。
 わたしが家族と友達と元いた家と、あの日壊れた全部と置き換えたこのひとは、人間なのだ。
 どれだけみんなが頼っても、わたしが信じても、人間なのだ。サイドエフェクトは迅さんをばけものにしない。誰にも彼を人間以外の生き物には出来ない。
 でも、まるで神様みたいな顔をして笑う。
 そんな彼のことを、どれだけのひとが見上げてきただろうか。

「……風冷たいね」

 わたしを振り返って、ぽつりと呟く。

「そうですね。……まだ、春だから」

 互いの誕生日を迎えたばかりの、春の日。
 波は穏やかに、何度でもわたしたちの足を掬って、わたしたちは時折転びそうになったり立ち止まったりしながら、延々と海を添っていった。


18歳と15歳/4月 海を撫でる春


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