「名前、今日暇?」
朝ごはんのスープをそれぞれのカップに注いでいると、くたくたなパーカー姿の迅さんが隣に立った。土曜日だからって朝寝坊、と言いかけたわたしにそんなことを訊いて、レイジさんと林藤さんのカップを持ってから「これ、運んでいい?」と追加で尋ねてくる。最初より気持ち大きな声で。
わたしは頷いて、「パセリは各自で」と付け足す。両手がふさがった迅さんが、返事のようににっこりと笑う。後頭部の寝癖をぼんやり眺めて2秒、わたしも陽太郎と迅さんのカップを持ってテーブルに向かう。
迅さんはもう制服を着ない。
きのう高校の卒業式だった。
いつから迅さんに進学するつもりがなかったか、誰も聞いたことはない。わたしも知らない。はじめからそのつもりでも、ある時考えが変わったとしても、18歳になった時にはもう、迅さんは大学生にならないと決めていた。初めてふたりで海に行った春の日、「おれ進学はしないよ」とホテルの枕に埋もれて呟いていた。
嵐山さんも柿崎さんも大学生になる。それはほとんど確定的な未来として見えていたらしい。その未来、隣に自分がいないことも明確に見えると。わたしは「じゃあ、誰が止めても無駄ですね」と言った。迅さんの未来は誰にも見えないけれど、迅さんが誰かの未来を通して見るなら別だ。きっと誰が何を言ったって聞かない。そうと決めているこの人の笑顔と言葉は硬い。
滞りなく、迅さんは卒業した。S級隊員の彼はほとんどボーダーに就職していたようなものだ。制服の迅さんが見れなくなるだけで、生活に大きな変化は無さそうだった。
わたしはきのう学校を早退して、迅さんの卒業式ではなく任務に向かった。同日に卒業式がある人達はごっそりといなくて、代わりに佐鳥やとっきーがいた。「再来週はおれたちがいない側だからね」と、とっきーは実感無さげに呟いた。わたしもそうか、と思うあたり実感は無かった。イーグレットを持つ手にだけ、重みがあった。
トリオン兵の目玉のようなそれを撃ち抜きながら、可愛らしい色の花束を抱えて胸の飾りをつけた迅さんが、林藤さん達と帰宅することを考える。レイジさんのときは迅さんも一緒におめでとう、おかえりと言っていた。目まぐるしく日々が変化する。あの頃よりずっと、撃ちたい場所を撃てるようになった。わたしの部隊は解散したけど、ずっとイーグレットを使っている。迅さんは風刃を持っている。何一つ停滞してくれるものはない。
任務が終わって支部に帰ると、迅さんは飾りをつけた制服のまま小南先輩や烏丸くんにあれこれ言われていた。なんだかんだ嬉しそうな顔。
「嵐山さん達、きょうは任務ですって」
「おれは明日」
「2日も連続で非番、珍しいですね」
「まぁ明日って言っても夜勤だしね」
海に向かう電車は、土曜日と言えど昼前の微妙な時間なので空いていた。
迅さんは少し厚手の上着と薄いシャツを着ていた。「じゃあ早く帰りましょうね」と横顔に向かって呟くと、「間に合えばいいよ。トリオン体になれば眠気も吹っ飛ぶから」と笑う。窓の外に広がる景色は三門を離れた、平穏などこかの町並みだ。ベランダで洗濯物を干す女の人や、歩道橋を渡る小学生が、1秒も留まらずに消えていく。
ふたりで海に行くのは、これで5回目。土日に行ったのはきょうを含めて2回だけで、あとは平日だった。わたしは物心ついてから風邪を引いたことがない。だからとっきーなんかは薄々察していると思う。今朝も出かける間際に「もう一枚厚いものを着ていけ」とレイジさんに言われた。いくらドアを抜ける時間が違っても、近しい人にはバレているものだった。
「で、そのコートなんだ」
「はい」
「おれは十分薄いと思うけどね」
「でもコートですから」
「冬に着る春コートってほぼカーディガンじゃない?」
レイジさんの言葉を伝えると、迅さんは笑いながらそうだよね、見えてた、と悪びれなくわたしの手をとった。「でも内緒は内緒だから」と言う迅さんに、黙って頷いた。
あの日の空の色を忘れそうになるたび、迅さんの瞳を見て思い出す。
変わるものばかりだけど、迅さんの目はずっとあの空の色だ。
海に着いてから寂れた屋台で焼きそばを買った。遅めの朝ごはんがまだお腹に残っていて、大部分は迅さんに食べてもらった。「外で食べる焼きそばってなんでおいしいのかな」と呟く迅さんに答えず、自分の割り箸が珍妙な形で割れているのを眺めていると横から能天気な顔が割り込んできた。
「お、名前片想いか?」
「はい?」
「割り箸がそうやって割れるのは片想いしてるってことらしいぞ」
「いや、してませんけど」
「こういう話題だと途端につまんない返事するよねおまえ……」
浜辺の隅にぽつんと置かれたゴミ箱は季節外れのせいかぎゅうぎゅうで、大分前のゴミも入っているようだった。ふたりで焼きそばのパックを出来る限り小さく潰して、隙間に詰め込む。
泳ぐには少し冷たい海辺。人気はなくて、波と鳥の声がよく聞こえた。
波の跡をなぞるようにして歩きながら、「今度から名前が暇な日にしよう」と迅さんが声を張る。薄い色の髪が光に透けていた。わたしの返事を待たず、続ける。
「おれ、もういつでもいいからさ」
歌うような陽気な声。陽気な明日が見えていなくても迅さんは笑う。見えた未来について暗い顔をしない。みんながそれを頼って生きていると知ってるから、悲観的な声を発しない。そんな表情片端から破って捨ててしまう。
波がざぶん、とはねて、スカートの裾を掴んだけれど膝まで水がはねることはなかった。迅さんは捲ったズボンの裾がずり落ちていたのを直す。
すぐ横に立って、しゃがむ迅さんのつむじを見下ろす。
「わたしは、迅さんの都合がいい日でいいです」
顔を上げてわたしを見る、彼の目はいつもと変わらずぼんやりと細められている。眠たそうにも退屈そうにも、安らいでいるようにも見える。眩しそうにも。きっとみんなが迅さんの瞼にのせる意味は違う。わたしは自分が眠たくてもしゃっきりしてても半開きの目をしてるから、迅さんもそんなもんかなと思っている。
空色の光彩。海の陽がさして陸離としたその中に、平淡な顔をしたわたしが映っている。わたしが見ている迅さんはこんなにきらきらしているのに、迅さんの目の中にいるわたしはやたら褪せているように思った。追いつこうなんて、追い越そうなんて考えたことはないけれど、おまけにしたって陳腐な人間。つまらなそうな顔をしてる。そんなことないのにな。
「名前」
しゃがんだまま、迅さんかわたしの名を呼ぶ。
「はい」見下ろしたまま答える。薄い波はわたしたちの足まで届かないで沖へ引きずられていく。
ただ膝を曲げて小さくなっているだけの彼が、どうしても眩しい。3月の陽はまだ長いと言えるほどじゃなくて、真っ昼間の今でもそれなりに低い位置にある。迅さんの向こうに光がある。
あの日見上げた迅さんも眩しかった。
いつまでも眩しい。変わらない。日を追う毎に眩しくなっていくようですらある。迅さんには、わたしがずっと暗いところにいるように見えるのだろうか。
迅さんが笑う。
目を合わせたとき、最初に笑うのは絶対に彼のほうだ。わたしは彼が笑って口を開くのを待ってしまう。彼の言葉が間違った方を向くことはないから、呼ばれるのを待ってしまう。
一生この人を信じていたい。
「疲れた?」
「いいえ」
「じゃあ、今日はすぐ帰ろう」
「はい」
立ち上がった迅さんの腰だか膝だかが、ぽき、と小気味のよい音を立てる。「寝る前にストレッチした方がいいですよ」と顔を覗きこむと、「わかる」と苦笑いが返ってきた。自覚があってもストレッチはしないだろう。彼の身体は彼にとって、トリオン体で動ければいいものだ。
もう制服を着ない迅さんの背中は、やけに広くて急に大人びて見える。
「名前のセーラー服、楽しみだな」
振り返った彼の瞳に、「そうですか?」と答えるわたしの笑顔は疑わしげだったのだと思う。彼が「そんな顔しても似合うよ、おれにはわかる」と、子供のように笑ったから。
18歳と15歳/3月 陸離の刺
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→To Be Continued