一月少しで二度も出かけたのは初めてだった。
非番の木曜日。迅さんが日中トリオン体じゃないところを久しぶりに見た気がする。「台所立つときは生身だろ」「そうなんですけど」空色の隊服は脳裏に残りやすい。迅さんが普段起きるよりわたしが支部を出る方が早いし。
「たまには運動しないと身体鈍りますよ」
「わかってるわかってる」
「わかってるだけじゃ鈍りますよ」
「最近名前厳しくなったけど高校デビュー?」
脇腹を肘でつつくと、「痛い」とオーバーにとびはねる。コメントの必要も無いので黙って見ていると、「こういうときは何か言うもんだよ……」とあからさまに肩を落として姿勢を戻した。やっぱり必要なコメントが浮かばなかったので、黙って見ていた。どんどん肩が重くなっていく迅さんは面白い。
高校生じゃなくなった迅さんは大抵の時間をトリオン体で過ごしている。わたしが登校する時間に起きていないだけで、日中はほとんどどこかで何かしら働いているらしい。非番と行ってもみんなと同じようなものではなく、とかく忙しいようだ。
みんなが知らない迅さんは日々増えていくけど、嵐山さんや柿崎さんとは相変わらず仲が良いみたいで、この間も夕飯を一緒に食べていた。レイジさんは「あいつのことだから心配するまでもないだろう」と言う。何を心配しているのか、それまでもそのときも誰も明言はしていなかったけど、小南先輩や烏丸くんと一緒に頷いた。迅さんを信じるならまだし、勝手に悲観して疑うようなことはしたくない。
わたしの卒業式から1ヶ月もしないうちに迅さんは19歳になり、わたしはそれから10日と経たず16歳になった。学校は委員会も部活も決まって、やっと少し落ち着いた時期だ。半月もすればテストについて嘆く小荒井と佐鳥が、うちのクラスに奇襲をしかけてくるだろう。
「高校楽しい?」
電車の中で、迅さんはお茶を飲みながらそう訊いた。がらがらの座席に一欠片も遠慮せず、おやつのぼんち揚を開けながら首肯すると、わたしより先に一枚を食べつつ「それはよかった」と満足そうにした。
「クラス分けに恵まれました。平穏です」
「とっきーと一緒で良かったね」
「そうなんです。佐鳥も幸い隣のクラスですし」
「それって佐鳥に優しい意味? 厳しい意味?」
ぼんち揚を吸い込むように食べる迅さんの隙間をぬってぼんち揚を掴みながら、うーんと声をあげる。別に佐鳥が嫌いな訳ではないが、同じクラスだとやれ宿題だテスト直前の範囲確認だと、泣きつかれることが少なくない。何度も言っておくと嫌いな訳ではないが、クラスメイトにするなら奥寺くんや烏丸くんのほうがいいと思う。
窓の外を眺める。春の景色はほんの僅かな時間で彩りを変えるようで、先月見たときと比べると大分花の色が増えた。桜はもう散ってしまったけど、それ以外にも鮮やかな色はたくさんある。
ふと視線を感じて迅さんを見ると、やけににこにことこちらを向いている。何かわたしの背後にあるのかと振り返ってみるが、無駄毛脱毛の広告があるだけだった。夏に備えたいのだろうか、と思っていると「おれはそういうの興味ないからね」と、後頭部に軽いチョップを食らった。
「名前の成長を喜んでたんだよ」
「はぁ」
「こういうこと言われると途端に気のない返事するよね」
「それ、先月も言われた気がします」
「毎回言われるほどそういう反応してるってことだよ」
ぐっと近くで覗きこまれて、少し引き気味に「そうですね?」と答える。気遣って損をした気分だ。先月の迅さんが心なし静かで、しかも2ヶ月立て続けに海に行こうなんて言うから、何かあるのかと思ってたけど。何も無さそうだ。むしろここ半年で一番機嫌がいいんじゃないかとすら思う。卒業というイベントが、少なからず迅さんをおセンチにしていたということだろうか。
わたしに興味をなくしたのか、窓の外に視線を向けた迅さんが「お、あそこ桜が残ってる」と嬉しそうにする。
「まだお花見し足りないですか?」
「ぜーんぜん。満腹。でも来年からはおれも酒とか飲めちゃうじゃん?」
「……ギリギリかわせそうですけど」
「太刀川さんとかはそこをギリギリ押してくるんだよ。だからおれの平和な花見は今年がラストチャンスだったわけ」
「サイドエフェクトがそう言ってます?」
「いや、見なくてもわかる未来」
「なんですかそれ」
太刀川さんが迅さんを誘う前に酔うに酔わせて半裸のぱっぱらぱーにしとけばいいんですよ、と言うと「名前いつの間にかえげつなくなって……」とわざとらしい慌てぶりで口許を押さえたので、軽く足を踏んでおいた。
生身は痛い、と迅さんが足をさする。大袈裟だ。ずっとトリオン体でいるから痛みに敏感なんじゃないか。
「すみません」
思っていたのと違う言葉が口をついた。
迅さんはわたしの顔を見て、驚いたような顔をしていた。わたしも驚いている。「あ、いや」言うつもりだった意地のよろしくない言葉を、改めて声に出すより先、迅さんが笑った。
「平気平気」
気にするなって、と頭を叩かれる。撫でるような力。
この人が大人になって、わたしはその後を追って。
あぁ、桜なんて興味ないのに。
それでもこの人を花の樹一本で平穏に縛れるなら、何本だって植えるのにな。
□
海にはまばらに人がいた。海水浴には早すぎる時期だし潮干狩り向きの浜でもないが、近隣の水族館に行ったついで、という雰囲気だ。「貸し切りはしばらくお預けかな」と迅さんがわたしを見て言うので、未来のわたしたちは二人きりではない海を歩くのだろう。人がいると困るような話はしたことないけど、手を繋いだ若いカップルなんかとすれ違っていると、なんとなく口数が少なくなった。
「ここに来るのも慣れた?」
迅さんの言葉を肯定も否定もせず、歩く。ふたりでいることに慣れたような、いつも何かしら不安があって慣れないような、変な気分だ。
スカートが海風を含んで大きく揺れる。春の波が容赦なく足元の砂を削る。「危ないから」ととられた手を拒まず、迅さんに引っ張られるように歩いた。海の向こうばかり見ていた。くすんだ海の青に、霞がかかったような青空。真昼の月。春はぼんやりとして輪郭がない。
「わたし、射手に転向しようと思うんです」
海を向いたまま切り出すと、「いいんじゃない」と声が返ってきた。「良い射手になるよ。おれのサイドエフェクトが保証する」迅さんの言葉は穏やかで、背中を支えてもらったような安心感があった。この人に肯定してもらえたからには大丈夫だと、誰に肯定されるよりもそう思ってしまう。
何か、きっかけがあったとかではない。ずっと思っていて、高校に入るということがタイミングとして丁度良かっただけだ。あっちもこっちも新しいというのは苦労しそうだから、学校が落ち着いたらと決めていた。
委員会も決まったし、バイトもこの間受かった。新しい日常のサイクルに、狙撃のトリガーが馴染むより早く、転向しようと思った。レイジさんにもとっきーにも相談はしていて、烏丸くんにも話はして、出水先輩におすすめのトリガーセットも聞いてきた。
そうまでしてもやっぱり、迅さんの肯定に一番安堵する。わたしが備えて積んだもののすべて、迅さんがそれで良いと言ってくれるのを待ってしまう。倒してもらうのを待っているドミノみたいに、迅さんの言葉が役割を与えてくれるのを待ってしまう。
不健康だろうか。
あの日からずっと迅さんの言葉を一番に信じて歩いた。
海にふたりで来ることの理由とか意味は、正直わたしにはわからない。迅さんに訊いたことはない。言われたままについてきて、学校を休んで、海を眺めているだけだ。迅さんがこれでひとつでも楽になるならいいけれど、そうでなかったらという不安がある。わたしは迅さんとの明確な関係を持たないから、ただ信じているだけだから、迅さんの何もかもを代われないし、減らせない。
「名前、明日非番だよね」
「はい」
「泊まっていこうか」
「はい?」
迅さんを振り向く。風で髪がはためいて、表情がわかりにくい。笑っているのはすぐに察した。妙な暗さもない。
ただ、「少し、」「はい」「名前」「迅さん?」
疲れちゃったからさ
そう、口が動くのを眺めていた。
迅さんの目は穏やかだった。
あの日のままの空色で。
服に入り込んでいた桜の花びらが、彼の喉元から落ちていった。
19歳と16歳/4月 満ちては引く春
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→To Be Continued