彼女の母親の墓石は白い。
黒いワンピース姿の彼女が墓石を洗う。おれは傍らで花束や花ばさみを持って見守っている。手伝うか尋ねたけれど、二人がかりで洗うほどの汚れはない。1年よりもっと短い間隔で、彼女はここを訪れている。落葉がある季節ならまだし、夏の墓参りでおれが特別すべきことはなかった。
この暑さで熱された墓石はそりゃあもう殺人的な暑さで、スポンジで洗うそばから泡が蒸発していく。焼け石に水ってやつだ、と不謹慎にも考える。彼女の麦わら帽子を手にひっかけ、彼女が持ってきた日傘の下で容赦のない陽射しを避けながら、髪を結った彼女のうなじに汗が張り付いているのを見ていた。
「終わりそう?」
「はい。もう少しで」
平たい洋風の墓を、丁寧にタオルで拭きながら答える。身寄りのない彼女の母親の墓は、その母親一人分の名前が刻まれているのみだ。彼女には親族という親族がいない、と言っているのは冗談でも誇張でもなかった。哀しくはないしおれも同じようなものだ。世の中にはそんな子供が少なくないだろう。家族のような存在がいるだけ、おれ達はマシなのだと思う。
8月初週の墓地には人が少なく、時々通路を行く家族連れなんかを見るくらいだった。これが盆くらいになると増えるのだろうか。
掃除を終えた彼女にタオルを渡し、花束と鋏も渡す。花立に仏花を生けていく彼女はいつもと変わらない静かな表情だった。この下に故人がいるって言っても、あるのは骨だけだ。黒トリガーの方が余程身近だよねだってそのものだしとぼやいたとき、「確かに」という顔で頷いたのは彼女だけだった。今思うとめちゃめちゃブラックな言葉だ。
彼女が失った家族や友達について上手に哀しくなれないことも、それでいいと思う。おれだって哀しくなれない。哀しくても軽々しく笑って、すべきことをしてなくちゃならない。
隣の不器用を見て安心するおれは酷いだろう。
おれを罵らない彼女の口を信じきっているのだ。
この墓地は海に程近い。けど、二人きりで来るのは初めてだった。大抵は彼女が一人で行っていて、時折みんなでついていった。一時間に二本しかバスがない立地のせいで、レイジさんや林藤さんの運転があると急に助かるからだ。彼女はいつだって淡々と「おかあさん、来ましたよ」と石に話しかけ、淡々と掃除をして、花や菓子を供え、手を合わせた。その細い背中を見ているときは、おれが彼女の神様ではないように思えた。簡単に言えばほっとしていた。
常々彼女の思考の第一はおれだ。信じるものがあってそれが日々を有利にするならいいと思う。彼女は実際とても落ち着いた女の子で、実戦に強い。彼女がヘマをする未来なんてそうそう可能性すら現れない。良いことだと思う。おれが彼女の神様になりたくない一点を除けば。
信じられるものでありたい。信じられていたい。
でも、神様じゃないものがいい。出来れば人間がいい。対等を望みたい。信仰というのは人間相手にするもんじゃない、だって人間は腹も減るし脈をうつし恋もする。平等に残酷ではいられない、おれはどんなに未来が見えても一つのつがいを残して世界を洪水に飲ませてはやれない。きっと助けたくなるし助けてしまうし、彼女を優先してしまうと思う。おれは神様に向かない。
彼女があの日おれを信仰してしまったように、あの日のおれは見えた未来を信じた。目の前の女の子が生きていく、その線の上におれがいる景色。いろんな可能性の中で彼女は大抵おれの近くにいるようだった。その距離がどんな意味か気にするようになったのは、そんなに前のことじゃない。最近のことでもない。
神様に向かない。
目を閉じて祈るような彼女の横顔は綺麗だけど、それが此方を向いた途端目を背けたくなる。信じてくれていい、頼ってくれていい、でもおれが人間だってことを知って欲しい。全てを救えない程度おれは人間なのだ。全てを許せない程度。全てが欲しくなる程度に。
彼女が目を開けてから、おれも手を合わせる。初めて逢ったときには故人だった人に、伝えることなんて大して浮かばない。目を閉じると蝉の声がよりうるさく聞こえるようで、ちょっと煩わしい。
娘さんは射手になってまた強くなりましたよ、相変わらずのんきで今年の春も桜の花びら枝に刺してマジックチェリーロッドとか言ってました、正気を疑っていいと思います。教育悔やんでません? おれはそこらへんについては可愛げで押し通せると思うので、おれを頑なに神様持ち上げする方を何とかして欲しいです。出来れば。まぁここには何もいないの知ってるんだけどもし草葉の陰にいるなら彼女の夢枕で迅と付き合えとか適当に呪ってください。
目を開けると、隣から「そんなに熱烈に言うことありました?」と声がかかる。彼女は首を傾げて気持ち不思議そうな真顔だった。額から汗が流れる。
「娘さんをおれにくださいって頼んでた」
「はぁ」
「あ、出たやる気の無い返事」
「すみません。コメントし難い内容だったので」
淡々と呟いて汗を拭う彼女の頬は夏場を疑うほど白いが、耳は太陽に焦がされたのかと思うほど赤い。
「あ、真に受けた?」
つい冗談で済ませようとしてしまう。悪い癖かもしれないが、こういう素振りでもって周りはおれのサイドエフェクトやトリガーに対する重圧を減らす。おれが背負う重みではない。みんなが勝手に背負う方だ。
未成年の少年たった一人の視野に頼って防衛任務の予定を立て、大きな侵攻に備え、遠征に備える。それはおれのことなんだけど、おれが笑っちゃうくらいみんなは重たく考えてる。でも迅悠一という人間を本部に閉じ込めて死なないようにするには、おれの目は人間的過ぎる。今のおれには目の前の彼女の未来しか見えない。おれは見たい未来を選べない。
彼女は少しむすったれておれを見る。おれがあの日助けてから、絶対におれが願った通りの未来を叶えてきた女の子だ。まるで神様の言う通り。洒落になってないけど彼女は知らず知らず、おれの願う通りの未来を歩いていた。数本に枝分かれした可能性の中でも、一番おれが「そうならいい」と思うものを。
今見えている未来も一本道じゃない。
でもなんとなく、本当になんとなく根拠や理由はなく、おれがそうであれと思う方を向いてくれるのではないかと期待している。期待、するくらいには人間なので。
「……受けてません」
完全に不機嫌である。参った参った。
からかって悪かったよ、と謝れば「そういうこと言うからボーダーセクハラ撲滅委員会の標的にされるんですよ」とため息をつかれる。え、何その沢村さんが委員長してそうな会。「沢村さんが次お尻触ったら風刃取り上げて刻むって言ってました」人に向かって刻むって言葉使うの怖すぎない? そんな委員会に名前入ってるの?
彼女は仕方ないなと言いたげな無表情でおれを一瞥し、麦わら帽子を被った。去年レイジさんが買ってやったやつだ。青いリボンがひらひらと揺れる。まとめた荷物を持ち上げた彼女は、装いだけならどっかのお嬢さんである。中身は最近射手になったゴリラ。今年もクワガタ手掴みするんだろうな。
「海、寄って帰りましょう」
「人多いだろうね」おれのサイドエフェクトがそう言っちゃってる。
「やめますか」
「やめない」
そうですか、と彼女はほんの僅かに頬をゆるめた。
笑顔にしては静かなその表情が、おれは好きだ。
彼女が洪水のあとの世界に残りたいと言わなくても、おれはきっと助けてしまう。
19歳と16歳/8月 人ふたり残る岸辺
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