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con amore

03



創立祭までの時間は短かった。
いくつかあった候補の中から私が選曲したのは『カッチーニのアヴェ・マリア』。
この曲はカッチーニと名前が冠されているのだが、実は別時代の別国の別人が作曲したとほぼ判明している。
アヴェ・マリアは、『マリアに幸あれ』を意味するラテン語。
けれど私はこの曲を聴いた時、イエスを身籠ったマリアを祝うためやマリアの深い喜びを歌っているものとは思えなかった。
むしろ後に迎えるマリアの悲劇、すなわち愛息の処刑とその死による喪失の悲しみを歌ったのではないだろうかと思った。
悲劇的というか、慟哭というか、とめどなく涙を流しながら神に嘆願するというか。
深刻で厳粛にさせられるような曲だと感じた。
けれど、ドラマチックなメロディとあまりに甘美な美しさ。
私はこの曲がとても好きだった。



創立祭の日、学院は祝日で休みになる。
それにもかかわらず制服姿があちこちに見られるのは、きっと土浦が演奏するという宣伝効果のおかげだろう。
静香はステージの脇から客席をチラリと見て小さく溜息を零した。
お偉いさん方の前で弾くのも気乗りしないのに、なぜ生徒達の前で演奏をしなければならないのだろうか。
しかももう一人の演奏者は土浦だ。
コンクールではないのだから優劣を競うわけではない。
けれど同じ楽器で同じ解釈ならば、誰だって自然と比較や評価をしてしまうと思う。

「…嫌だな。」

本音が漏れてしまって慌てて口を塞いだが、時すでに遅し。
土浦がしっかりと聞いてしまっていた。

「ここまで来てそんなこと言ってんのか?」

苦笑いながら声をかけてきた彼に、静香はすみませんと小さく頭を下げる。

「何がそんなに嫌なんだ?」
「嫌と言うか…好きじゃないんです、人前で演奏するの。」
「まあ、俺も好きってわけじゃないけどな…。」
「でも先輩はコンクールに出ていたじゃないですか。」
「あれも最初は無理矢理だったからな。」
「え?」
「もちろん、最後には参加できてよかったと思ったぜ。にしても、何でだ?」



「…先輩には関係ありません。」

その言葉にドンと突き飛ばされた感覚に陥る。
静かに発せられたそれは全てを拒絶していた。
誰も踏み入れさせない吉隠の強い意志。
けれど、どこか泣きそうで。
言葉を継げない俺を置いて、吉隠はステージに上がっていった。
拍手が止んで聴こえてきた音に更に絶句する。

…うまい。
あいつの演奏を初めてしっかりと聴いたが、『メランコリック・クイーン』の渾名は伊達じゃねえ。

山奥にある細い川のように流れる音階の伴奏に、一音一音がやけに響く旋律。
それを紡ぐ柳の様に揺れる腕。
細いくせに力強くもか弱くも自在に音を操る指。
間や緩急も半端ない。
ゾクリと背中に衝撃が走った。

元々好みの解釈をするヤツだと思っていたが、なんて音を出すんだ…。
知りたい。
吉隠のことをもっと知りたい。
ここまで深く哀しく刹那的な音を出す理由を知りたい。
その奥にあるであろう、彼女の本当の音を引き出してやりたい。
ああ、逃れられない…

土浦はクシャリと髪を掻き上げると、悔しそうに唇を噛んだ。


2015.08.24. UP




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夢幻泡沫