2、 霧と羊

その日は霧が出ていた。
濃い霧は一面乳白色に塗り替え、松林の辺りだけ鈍い青色に染まっていた。
海が溶けているのか息苦しい程の生の気配がする。陸に居るのに溺れそうだと思った。
露に濡れた下草が冷たい、と気が付いたら部屋の外を歩いていた。
身体が圧し掛かられている様に重い。瞬きをしたその隙に上下が入れ替わる。キスのような生ぬるい風が身体を撫でていく。伸ばした手がちくりと痛んだ。

               ◆

朝、ベッドの上で目が覚めた。なんだか悪夢を見ていた気がする。ため息を吐きながら身体を起こすとちくりと指が痛んだ。指の間から赤い液体が滑り落ちる。どこかで見たような既視感に首を傾げるが、白いシーツに赤い模様が広がるのを見て慌てて指を押さえる。ぬるりとしたそこから海の匂いがした。

 汚れたシーツを洗って、薬缶を火にかける。ミルに豆を淹れるがこれが最後のようだった。レバーを回すと馨しい香りがする。珈琲を淹れる作業が好きだ。ゆっくりと落ちていく珈琲の滴を眺める。指の傷は深くはないがまだ少し痛む。僕の足は自然と海に向かっていた。

今日は昨日より暑くなりそうだ。高い空に勢いの良い雲が海から立ち上っている。
ウミネコが遠くに飛んでいるのが見えた。不意に見えた人影にびっくりして立ち止まる。
僕以外の誰かがいた。こちらに背を向けてじっと海を見ている。いつからここにいるのだろう。
僕は声をかけることも忘れて、目の前の白い髪が揺れるのを眺める。泡の様な髪が肩の上でくるくると舞っている。置いてきた珈琲の匂いがする。
暫くすると風で靡く髪を押さえながら僕の前まで来る。前髪から深い青色の瞳が透けている。
「うみのひつじ」
岩の中で反響している様な不思議な声だった。青は揺れる。
「海野、羊」
小さく繰り返すと名前だったようで羊は二回頷いた。確かにあの髪は羊の様だ。
「僕はつみ、です」
今度は羊が繰り返した。風の中で僕の名前が響く。羊はにっこりと笑って僕の手を取った。冷たくて柔らかい手の感触。
髪も肌も真っ白で、後ろの海が映っているように見えた。