海上の羊 コミティア125(平成30年8月19日初版)

まだ明るい空に欠けた月が出ている。空が透けて薄っすらと青い。
少し冷たくなった風が海の方から吹いている。
夜が来てしまう前に帰らなければ。
海岸に背を向け、なだらかな松林の坂を上る。
砂浜の続きに立っている家のドアの前でふと振り返った。
ここからは海の青は見えない。
部屋に入ると波の音が幽かに響いていた。




海上の羊





1、病み上がりの朝

 海は隠していた闇を夜に浸して、音も無くすぐ側までやってくる。
窓を閉めた湿度の高い部屋で、闇が起きて来ない様にじっとしていたのに見つかってしまった。
ぐったりと身体が重くなる。骨が軋んで、呼吸したいだけなのに苦しくて咽てしまう。
逃げる様にベッドの中に潜り込む。真っ暗な中、朝日が差す時を必死で想う。
晴れた空、上も下も違う青なのが綺麗なのだ。

               ◇

 窓から差し込んだ陽が、眩しくて目が覚める。頬に映る光が暖かい。
良かった、今日も生きている。汗ばんだ身体はまだ気怠い。
窓を開けると丁度夜が明けて行く頃だった。
藍色の空に少しずつ太陽が染みていく。
薔薇色の空は祝福だ。静謐な風が通り過ぎて、世界に朝が来た。

 
夜の気配が去り、ひとり取り残された部屋で波の音を聞いていた。
水差しの水を口に含んでから酷く喉が渇いていた事に気が付いて、浴びる様に夢中で飲む。
濡れたシャツを仰ぐ様にしながら食べる物を探しに台所へ行くと、粗末な台所からカビの生えたパンをひとつ見つけた。そのパンを掴んで、裸足のまま外に出た。
今日は気持ちいい風が吹いている。
変色した部分を毟りながら、海の方へとなだらかな坂を下る。
誰もいない砂浜にウミネコが一羽飛んでいた。
ウミネコに向かって、欠片を投げると目の前をついーっと横切っていった。
手に残ったパンを咀嚼する。みゃうみゃう。鳴き声が聞こえたが、ウミネコの姿は見えない。

波打ち際を歩きながら波を蹴る。跳ねた水がちらちらと輝いた。
どこまでも続く砂浜で、飛んだり跳ねたりしている内に足が縺れて倒れ込む。
全身砂まみれになって、急に現れた空を仰ぐ。開いた口から勝手に声が漏れた。
多分、笑っている。声は誰もいない空に吸い込まれた。
暫く空を見上げてから、今度は地面に耳をつけて目を瞑った。
頭の外からではなく、海の底から波の音が聞こえる。海は見えなくても続いている。
僕はこの海の果てにいる人々の事を想った。笑いあう人々と、その中にいる僕自身を。
それは楽しくて、少し悲しいだろう。
目を開けると人々は消えた。波の音だけがごうごうと変わらずに鳴っている。

世界は今日も美しく、そして僕はどこまでも孤独だった。