樫尾由多嘉が普段利用する駅には、複数の輪っかが重なったオブジェが設置された小さな広場が隣接している。改札を出た先の商業施設と線路との間にあるのだが、広さは学校の教室ほどしかない。しかも高低差と視界を遮るオブジェのせいで実際の感覚ではもう少し狭く感じる。それに広場といっても噴水などがある訳でもなく、街路樹と車両通行止めの金属のパイプで囲われただけの空きスペースだ。
 数年前までは灰皿があり喫煙所としても機能していたが、規制が厳しくなった現在では休日であっても待ち合わせに使う人がまばらに居るだけである。
 ある朝午前中の防衛任務を終えて、本部から学校へ向かっていると遠目にもその広場にたくさんの人が集まっているのが見えた。隣を歩く蔵内先輩も普段と違った様子におや、と表情を変えた。
「何かあったんでしょうか?」
ボーダーの任務には関係ないだろうが、もし必要ならば警察に連絡するべきかも知れないと思いながら足を動かしていると、道路脇に窓ガラスまで白くペンキで塗った車両に目が止まった。
「アンチボーダー組織か」
蔵内先輩の声に樫尾は無言で頷いた。集まっているのは最近市内で活発に活動をしている近界民を救済者とする宗教組織だった。彼らは全身を白色の衣服で固めているので見分けがつけやすい。
 ちなみに反ボーダー組織と言えど、ボーダー隊員に危害を加えるような過激派ではない。けれども、何が目的なのか再三注意しても警戒区域への不法侵入を繰り返しておりボーダー内では要注意組織に指定されている。対応は本部職員が行うので各隊員には無闇に接触しないように、と通達が来ている。
 念の為本部には報告しておくべきかと考えながらも、二人は足早に広場の横を通り過ぎようとした。
「学生さん?」
「はい、そうです」
髪をひとつにまとめた化粧気のない女性に話しかけられ、樫尾は律儀に足を止めた。真っ直ぐに向き合い返事をすると、白いポロシャツに白いチノパン姿の彼女は弱々しい笑みを浮かべた。後ろには『選別の時は来た』『世界は一度滅ぶ』などが黒い板に白色で書かれた看板が立てかけてある。そう言えば昔、人類が滅亡する予言が流行ったと聞いた事がある。確か「終末ブーム」と言うのではなかったか。無言で立ち止まる二人に女性は持っていたチラシを握らせた。
「あなた達にも白神様のご加護があります様に」
渡されたチラシは質の悪い紙と印刷で、ガサガサとした手触りだった。抽象的な言葉が回りくどく羅列され、いまいち白神様が何なのか要領を得ない。ぼぅっとなる頭で読み下していると「滅びゆく世界の中で、白神様に選ばれたものは生まれ変わる」と書いてある記述を見つけた。それを見て樫尾はなんとも言えない気持ちになる。フラッシュバックした、あの薄寒い笑みを一刻も早く忘れたくて振り払うように頭を左右に振った。

◇◇◇

 見通しのよい殺風景な場所にひとりの男が立っている。黒い詰襟を着ているので学生だろう。佇んでいる姿にはどことなく品があり、艶のある髪を耳に掛ける様子は絵画のようであった。ぬるい湿った風が彼の透き通った琥珀色の髪を撫でつけて行く。元来、強い意思を表すように煌めく碧色の瞳が、今は濁ったように地面をどろりと映している。
 膨張する頭が破裂しそうだ、と彼は思った。
 彼の視線の先には白く薄べったい円形の石が積まれている。それはひとつではなく、このかつては町だった場所の彼方此方にあり時折うわん、と音を立てている。彼は暫くじぃっと観察した後、積み上げられた石に手を伸ばした。一番上の石にしか触れないように触ったにも関わらず石の塔は呆気なく崩れた。まあるい石はころころと転がり、綺麗に磨かれた革靴にぶつかった。
 その瞬間に「ぅわぁあぁ」と赤子の泣き声があたりに響き渡る。ねっとりと喉を震わせる音は発情期の猫の声にも似ている。
 音は鼓膜を震わせ、とろとろとした羊水みたいに脳味噌を浸して犯す。そのじん、と痺れる感覚に、少年の薄く形の良い唇はおもちゃを見つけた子供のように嬉しそうに歪んだ。

◇◇◇

 本部から支給された【白神様を信仰する宗教団体への対応マニュアル】の冊子をめくりながら蔵内和紀はため息を吐いた。信仰の自由を否定する気は無いものの、警戒区域内に侵入されたのでは彼らの安全を守る事が難しくなる。警戒区域内にある自宅へ戻りたくて中へ入ってくる人達の気持ちは痛いほどわかるし、ボーダーという組織を憎んでいる人が本部までやってくるのも行動原理としては理解出来る。しかし、先日駅前の広場で見た宗教団体が危険を冒して入ってくる理由に納得がいかない。彼らはアンチボーダー組織ではあるが、こちらの妨害工作には興味がないらしい。
 わざわざどこからか石を持ってきて、警戒区域内に積み上げて帰っていく。彼らがやっているのはただそれだけだ。
「石を積むとありますが、賽の河原と何か関係があるのでしょうか?」
配っていたチラシにも生まれ変わると書いてありましたし、とカシオがしっかりした眉を寄せて眉間に皺を作った。
「どうだろう。もっと、シンプルに碑なんじゃないか」
蔵内は人目に付く行為をそう解釈した。実物を見た事がない上に石の大きさなどの詳細がわからないので、それ以上の見当のつけようがないが。でも、そうだったとして何故なのか疑問は残る。ボーダーに対して犠牲者について訴えたいのか?でも、彼らの信仰によると、選ばれるというのはポジティブな意味を持つのではないのか。
 考えても詮無いので、後輩には見かけたらマニュアル通り通報または記憶封印措置の為に本部へ案内するようにと再度念を押した。素直な彼は神妙に返事をした。今まで黙ってマニュアルを読んでいた王子は、突然くすくすと笑いだした。
「なんかもっと呪物っぽいやつだったよ。ほらこれ」
そう言って彼がポケットから無造作に出したのは、何の変哲も無い石ころに見える。白っぽいそれは角が取れコロンとしている。
「まさか拾ってきたのか?!」
「うん。だって気になるだろう?」
目を剥く蔵内に対して、樫尾は机に置かれた石へと興味を移した。石の表面はざらりとしていて、触るとパラパラと細かい砂が辺りに落ちる。ぶつかってぶつかって擦り減った石だった。
「どうやら、三門市内の河原で拾って来たみたいだよ」
王子の言葉に、何故「三門市内」だと判ったのかと疑問が浮かぶ。小学生の頃に自由研究で河原の石の分類した事を思い出しながら首を捻った。それにしても、カシオの言った賽の河原の方が正解だったか。でも、石を積むのが供養だったと判明したところで、わざわざ警戒区域内に積む必要はないはずだ。
「そうか。でも色々と可笑しくはないか?」
「川ってね、水に紛れて色々なものが流れるんだよ。昔はよく祓いの儀式で使った人形を、川に流したりしただろう?」
作戦室には空調が効いているのに蔵内は息苦しい暑さを感じて、首元のネクタイをだらしなくない程度に緩めた。じわりとまとわりつくような暑さに服が汗で湿っていくのがわかった。
「そういう穢れとかって最後まで流れてくれれば良いんだけど、大体途中で石にくっついちゃうんだ」
暑さを感じないのか王子は涼しげな顔をしている。いや、表情には現れていないが額に髪が張り付いているのが見える。彼も暑いのだ。それなのに寒さでも感じているみたいにほうっとため息を吐いた。
「王子?」
恍惚とも言えるうっとりとした表情で彼は石に頬ずりした。そして祈りを捧げる信者の目つきをして、うやうやしくその石を掲げた。
「ほら、みんなも聞いてみてよ。もうすぐ産まれるから」
そう言って口を噤んだ王子は天使のような笑みを浮かべ、目からは止め処ない涙を流している。異様な光景に絶句していると、震える唇から「うう」と唸り声がせり上がってくる。

 その閉じた口からは新しい命の誕生を告げる産声が、禍々しく上がった。

うまれる/了