今年の梅雨明けは異例の早さだった。六月の一週目に宣言された梅雨入りは、然程雨をもたらさず更には七月を待たずに開ける事となった。男子校高校生の例に漏れず、毎年の季節の移り変わりを細やかに感じるタイプではないのだが、流石に新調した傘を差す日が少なくて肩透かしを食らったので「なんか変だな」とは思っていた。
空いた時間に見たネットニュースによると、毎年の平均で一ヶ月半もあるはずの梅雨が今年は二週間だったらしい。その時は気象庁が後付けで梅雨明けを一ヶ月も伸ばすとは思いも寄らなかったのだが……。どちらにせよ例年とは違った年だった。
 そんな六月の終わりに、出水公平は照りつける太陽の下をボーダーに向かってとぼとぼと歩いていた。
(くそあちぃ、おはようからおやすみまでトリオン体で過ごしてぇ〜)
 ワイシャツの下に着ているTシャツが汗で体にべっとりと張り付いているのが、最高に気持ちが悪い。せめて風が吹けばこの不快な湿度も我慢出来そうなのに、凪いだ風は草木をすら揺らさなかった。既にうんざりするほど暑いがこれからもっと暑くなるのだと思うと、夏が終わることには自分が干物になってしまいそうだ。
(今ならプールの水も全部飲み干せそうだわ)
 数日前から嫌に喉が乾く。学校を出てから真っ直ぐにボーダー本部に向かって歩いてきたので、鞄の中には空になったペットボトルしか入っていなかった。出水はラウンジにある自動販売機を目標のオアシスと決めて、重たい足を引きずるようにして歩いた。

作戦室の扉を開けるといつものように、コントローラーを握った柚宇さんと本部内できな粉餅を食べる事を禁止された太刀川さんがふんわり名人を貪る後ろ姿が現れた。
「どしたどした〜?公平くん酷い顔色だよ〜」
画面から視線を離さず、かつ複雑なコンボを決めながら柚宇さんが言った。
「お〜、ほんとだ。夏バテか?げっそりしてんなあ」
太刀川さんにまで言われるなんて、そんなに酷い顔をしているのだろうか。のどが渇くだけで、体調が悪い訳じゃない。荷物を置きながら、気持ち姿勢を正した。それからうるさい奴が一人いないのに気が付く。
「最近急に暑くなったんで……、あれ?唯我は?」
「体調不良でおやすみだって〜、熱中症かもしれないよ。いずみんも気をつけてね」
「飲み物買ってきたんで大丈夫っす」
 テレビ画面に表示される"YOU WIN"の文字を眺めながら、ラウンジで買ったペットボトルのスポーツドリンクのキャップを外すと一気に飲み干した。500mlの水分が身体に入ったはずなのに、喉の渇きは全く言える気配がない。もう一本買ってきた麦茶のキャップも続けて開封する。
「うわ〜、男子高校生ってご飯だけじゃなくて、飲み物もすごい量なんだね」
ごくごくと喉を鳴らしながら次々にペットボトルと開ける出水を、国近は半ば飽きれるようにして見た。それから時計の針の位置と防衛任務の時間を頭の中で計算して、ゲーム機の電源を落とした。プツンと、音がして真っ暗な画面に、部屋の中が映る。
「それ飲み終わったら今やってる奴らと交代するぞ」
トリオン体に換装し終わった太刀川が出水をじいっと見つめた。無機質な格子状の瞳からは感情が読めない。
出水はその視線を振り切るようにして無理矢理に明るい声を出した。
「「了解」」
返事は国近の声と見事に重なった。その事がなんとなく照れ臭くて、にやけた口元を隠そうと鞄に手を突っ込んだ出水は、その手に静電気のような刺激を感じて掴んだトリガーを落とした。
びりりとした痛みを振り払うように手を上げた彼に、残りの二人は不思議そうな視線を投げた。

◇◇◇

「防衛任務終わったし、飯でも食いにいくか!」
太刀川隊隊長である彼は後輩に対してお金を使いたがるような節がある。戦闘が好きな彼が稼いでいるのは周知の事実なのだが、もっと自分の欲しいものを買うなり貯金するなりすれば良いものをこうやって隊でご飯を食べに行ったりして使うのだ。それは最も彼自身がボーダーの大人に可愛がられている所為かもしれないが。
「やった〜!今ならファミレスでゲームのご飯が食べれるんだよ〜」
おれはさして腹が減っておらず飲み物が飲めればどこでもよかったので、柚宇さんの希望で駅前のファミレスに向かう事になった。そう言えば、ここ最近食欲も無いので本当に夏バテかも知れないな、と思った。
 太刀川さんと柚宇さんのゲーム談義を聞き流しながら、唯我が聞いたら仲間外れだってうるさいだろうなと思う。いつものことなのだが、妙に唯我が休んだことが気になった。ボーダーのスポンサーだった唯我がコネで太刀川隊に入隊したのは事実だけれど、彼は弱いなりにボーダー生活を楽しんでいるらしく私用で休むのは珍しい。この前の事もあるし安否確認だけどもしてやるかと思い、メッセージアプリを起動する。
『体調大丈夫か?』とタップして送信すると『こうかつ』とだけすぐに返信があった。意味が分からなかったので、どうやら文が打てないくらい具合が悪いらしい。さすがに心配になったが、あいつの家なら病院だって行きたい放題だろう。早々に気にするのはやめた。
 コラボしているというゲームのせいか、ファミレスはそこそこ客が入っていて店員さんは忙しそうに動き回っている。ガヤガヤとする店内に足を踏み入れると、髪をポニーテールにしたまだ学生ぽい雰囲気を残した制服の女性と目が合う。
「四名様ですね、ご案内致します。こちらへどうぞ」
レジから出てきたその人がにっこりと笑顔で奥の席を手で指した。その自然な動作に頷きそうになるものの、今日は唯我が居ないので三人しかいない筈だ。他のお客と同じグループだと間違えられたのかと思って背後を確認したが、振り返った先には曇ったガラスの扉があるだけだった。二枚ある扉の間にあるスペースには人影がなく、薄汚れたガチャガチャが六台並んでいるだけだ。
「えっと、三人です」
変だなと思いながら人数を伝えると、彼女は怪訝そうな顔を一瞬してから再び営業用の笑顔に切り替えた。黄色味がかった照明の下でキツく結ばれたポニーテールが揺れる。
「失礼いたしました。窓際のお席をご利用下さい」
 四人がけのソファー席に崩れるように腰かけると、ベンチシートがギシリと音を立てた。変わった事はしていないのになんだかとても疲れた。
窓の外はもう日が落ちていて、空は藍色だ。店内放送は控えめで、時折ゲームのキャラクターであろう声がコラボメニューを勧めるのが聞こえる。
 柚宇さんがおれの顔を見ながらにやりと笑った。
「怖い話で『一人多い』って話よく聞くけど、本当に言われることあるんだね〜」
「唯我の生き霊だったりしてな」
ははは、と軽く笑う太刀川さんが窓の外を何度も見ているのが気になった。外には歩道があるものの人通りは少なく、暗いので見えるのは反射して映る店内だけだ。
気にするような物は見当たらないし、その証拠に窓側に座る柚宇さんはコラボメニューが載っているページを熱心に眺めている。
「お冷でございます。ご注文がお決まりになりましたら、そちらのベルでお呼び下さい」
 黒髮を肩につくくらいに切り揃えた女性がお盆にカトラリーとグラスを乗せて横に立っている。ピンポーンと他の席からの呼び出し音に一度視線を外したが、こちらに向かって微笑んだ。
 半袖の制服から伸びる白い腕がおれの視界を横切って、氷の入ったグラスが四つテーブルの上に並べる。それぞれ三人の目の前にひとつずつと、おれの隣の空白の席の前にもひとつ。
あっと思った頃には、彼女はエプロンを翻して既に別のテーブルで注文を取っていた。
「ええ〜、お水の人って最初の人と違ったよね?」
メニューから半分顔を出した柚宇さんが目の前の空席を嫌そうに見る。ぽつんと置かれたグラスのせいで、トイレに行った誰かが戻ってきそうな気配がある。
「お水下げてもらう?」という彼女に「まあ、気にしなくて良いんじゃないんですか?」と返して、コップを奥に寄せた。少ないならまだしも、多い分にはわざわざ忙しそうな店員さんを呼びつける程の事ではない、と思う。
「いずみん呪われるような事したんじゃないの〜?」
「そんな事しませんって!あ、でもこの前肝試ししました。え?!おれなんか連れて来ちゃってます?!」
一瞬ドキッとしたものの、そんな大層なものではないと思い直す。わざわざ県外の有名な心霊スポットに突撃したわけでもなく、小学生の間でふわっと噂されている漏れなく作り話の幽霊屋敷に、五分かそこら入っただけである。
「肝試し〜?楽しそうだな、それ」
太刀川さんの瞳が興味津々と言った風に、きらりと光った。
「ダメだよ太刀川さん。わたしも廃病院で肝試ししたいって言ったんだけど、無断で他人の土地に入っちゃいけないんだって〜」
多分柚宇さんがしたいのは肝試しではなくて、ゾンビ倒しごっこだと思うが突っ込まないでおく。
「病院まで行かなくても十分怖かったですよ。てか、唯我がすげ〜嫌がるんで大変でした」
「なんかねえ、無理矢理連れてくと脅迫罪とかになっちゃうんだって。いずみん逮捕されちゃうよ〜」
「柚宇さん詳しいですね」
「ふふふ、全部今ちゃん情報」
 得意げに胸を張る先輩を前に、肝試しをした時の事がじわじわと不穏な胸騒ぎを連れてくる。誰か静止する人がいれば違ったのだろうか。
あの日は何故か米屋と唯我と夏っぽい遊びをしようぜ!と盛り上がったのは良いものの、花火は公園や川でやるとすぐに警察に通報されるご時世だし、大学生組とは違って車が無いので遠くには行けないとなると他に夏っぽいいつもと違う遊びは思いつかなかった。
うんうんと唸りながら無い頭を捻って、米屋が聞いた幽霊が出ると噂されている廃墟に肝試しをしに行く計画を立てたのだった。
「でも、小学生の中で流行ってるだけの噂ですよ。マジで曰くとかなくて、廃墟ってだけで盛り上がってるだけって感じで」
その家は警戒区域の外にあるけれど、警戒区域内の放棄された家とよく似ていた。人が住まなくなった家は同じ様な朽ち方をするのだろう。荷物が残ったままの家は、障子や壁紙が中途半端に剥がれ、部屋の中にもザラザラとした土埃が積もり土足で無いと足も踏み入れられない様な状態だった。
「床も少し腐ってたかもしれません。なんかぼよぼよしてたんで。唯我がこんな所で呼吸したら病気になるって騒ぐので、早々に帰るつもりだったんですけど」
ひとりで廊下の奥まで入った米屋がきょとんとした表情で立ち止まっているのを見て、何してるんだろうと思った。それで彼の隣まで行って視線の先を自分の目で見る事にしたのだ。一人になるのが嫌だと駄々を捏ねる唯我も一緒に。
「そこはリビングだったんですけど、あ、扉が外れてて何もしなくても、廊下から部屋の中が見えたんですよ。まあ、ただのソファーとテーブルとテレビがある普通の居間が見えるだけだったんですけど。
勿論そこも埃だらけでした。ソファーなんか破れて綿みたいの出てましたし。絶対に誰も住んでないし埃の積もった白っぽい床に足跡とかも無かったのに、テーブルに氷の入ったグラスが三つあったんです。
それで、え?って思って」
偶然なのかおれ達の為に用意されたものなのか分からないが、それは丁度人数分並べられていた。どうして良いのか分からないおれと唯我は無言で立ち竦んでいたのだが、恐怖心がバグっているのか米屋はテーブルに近づいてそのコップに手を伸ばした。
その時、リリリリリーンと高くてけたたましい音が部屋を慄わすように響いた。
「電話が鳴ったんです。おれ達の携帯じゃなくて、家の電話です。いや、流石にびびったんで三人とも走ってその家から飛び出しましたよ。
それから帰り道にめっちゃ怖くね?って話してたら唯我のやつが居間にあった電話は線が抜かれてて束ねてあったって言うんですよ。鳴るはずがないって」
 何故そんな事を言うのか、出水には理解出来なかった。鳴ったのあいつも聞いてるはずなのに。そこだけが肝試しで納得出来なかった事だ。
 話し終えたのに黙ったままの二人を前に、ようやく出水は自身が良くない状況にあるのに気がついた。
「ヤバイ時どうしたら良いか、今さん知らないですかね?」
心なしかファミレスの照明が一段暗くなったように感じる。それから今更だが、まだ何も注文していなかったのを思い出した。一旦話を中断しようと思ったのだが、国近が携帯を取り出してどこかへ電話を掛けた。
「ふむ。電話してあげようじゃないか。ここまで聞いちゃったしね〜」
柚宇さんが携帯をテーブルの上に置いてスピーカーモードにする。数コールの後くぐもった声で『もしもし?』と反応がある。
「あ、今ちゃん〜?聞きたい事があるんだけどいい〜?」
妙にガサガサとしたひび割れた音がスピーカーから流れる。聞いた事のある今さんの声とは似ても似つかない声に居心地の悪さの様なものを感じた。
「……、あんたどこにいるの?……が、うるさくて 聞こえ、、だけど」
 店内はBGMと各テーブルの話し声はするものの、騒がしいというほどではない。三人で顔を見合わせるものの、向こうの声は聞こえてもこちらの声は騒音にかき消されるらしい。国近はスピーカーモードから通常の通話に切り替えて耳に端末を押し当てた。
「え?うんうん」
先程の調子だと会話するのは難しいと思ったのに、目の前で柚宇さんは楽しそうに会話をする。顰められていた眉も元の場所に戻り、後輩の肝試しの話をしているとは思えない様な晴れやかな表情で盛り上がる彼女をただぼうっと眺める。たまに挟まる弾んだ声の相槌以外は、喧噪となって言葉としては脳に届かない。
「そっかそっか、なるほどね〜」
うんうんと何度も頷いた彼女が出水を正面から見る。結論が分かったのかもしれない。
柚宇さんの口元に意識を戻すと、彼女は出水の顔を見てにっこり笑うと一言だけ口にした。

「死んじゃうと喉がすっごく乾くんだって」

 騒めいていた店内は突然無音になり、手を付けずにテーブルの奥へと追いやった四つ目のグラスの水は、テーブルに水滴を残して空になっていた。
出水はゆっくりと窓の方へ向く。黒く塗りつぶされた窓ガラスには、顔のない彼の姿が、ただひとり歪に歪んだ状態で映っている。
                                                                    かわくのど/了