1.

あれから4年経った。

太宰と中也は双黒を解散し、それぞれ別の道を歩き始めた。
太宰は今は亡き友人の教え通り、光の当たる世界で他者を救う人間になるべく奔走している。
中也は4年前と変わらず、首領への絶対的忠誠を誓って今日も夜の闇を駆けている。

そして彼女は−。


◇◆◇


太宰は一人歩いていた。
今日は絶好の自殺日和だ。鶴見川に飛び込むには丁度善い。
フンフンと機嫌良く鼻歌を歌い乍ら角を曲がると、小柄な男性とぶつかりそうになった。


「おっと」

「あ………えっと、御免なさいっ!」


男は存外可愛らしい声で謝ると、太宰には見向きもせずに走ってその場を離れてしまった。
すれ違った際にふわりと香った匂いに、太宰は小さく首を傾げる。

−此の匂い、何処かで……


「あ」


男にしては小柄な体型。
誤魔化しきれていない高い声。
そして、独特な女物の香水の香り。


「……爽!?」


太宰は次の瞬間走り出していた。



爽子は逃げていた。
考えもしなかったのだ。
何時も黒外套ばかりを身に付けていた太宰が、あんなに明るい色の外套を着て外を出歩いているだなんて。

−如何いう事?
−若しかして抜け出した?ポートマフィアから?

それとも何かの潜入任務だったのだろうか。

行き成り太宰が目の前に飛び出てきた時は心臓が飛び出るかと思ったが、幸い此方も或る事情で男装していたので、何とかその場では太宰に気付かれずに退散する事が出来た。
疚しい事が有る訳では無い為、別に太宰に自分の存在を知られても問題は無いのだが、あんな形で彼の元を離れた以上、何と無く顔を合わせ辛いのだ。

−折角、4年間もバレずに生きて来られたのに……!

チラリ、と背後を見遣る。
其処に太宰の姿は無く、嗚呼矢張り彼には気付かれなかったのだと、爽子はホッと息を吐いた。


「爽」


だが視線を戻す寸前、ボスリ、と正面から何かに身体を抱き止められる。

(……え?)

恐る恐る見上げると、赤みがかった茶色の瞳が此方を見下ろしている。
ざんばらの蓮髪に、憎らしいほど鼻筋の通った綺麗な顔。


「だ……。誰?」


太宰さん、と云いそうになるのを抑え、爽子は彼にそう訊ねた。
太宰は其の問いに答える代わりに柔和な笑みを浮かべると、爽子の背中に手を回す。


「お帰り、爽」


そして彼は、爽子の頭に顎を乗せてぎゅっと彼女を抱き締めた。


「……お久し振りです、太宰さん」


此れはもう逃げられない。

そう悟った爽子は、何処か諦めたような、安堵したかのような口調でそう呟いた。


◇◆◇


「それで?」


喫茶処、『うずまき』。
注文をし終えてから、太宰は早速口を開く。


「色々と聞きたい事があるのだけど。先ず、此の4年間、爽は何処で何してたの?」

「……太宰さんこそ、如何したんですか、その格好」

「私の話は後。先に爽の話を聞かせて呉れ給えよ」


きっぱりと云い切る太宰を目前にして、爽子は頷く事しか出来なかった。


「2年前迄は、色々な処を転々としていました。東京、名古屋、大阪、仙台……。一般的には知られてないような地名の処にも行きました」


流石に本州以外には行けませんでしたが、と彼女は肩を竦める。


「色々な処を見て、外の世界の善さも悪さも少しだけ知ってから、私は此の横浜に戻って来ました」

「如何して戻って来たんだい?此処にいれば、私に逢う可能性も、中也に逢う可能性も高くなって仕舞うのに」

「突然出ていったので会うのが気拙いなとは思いましたけど、別に太宰さん達に会いたくなくて此処を出ていった訳じゃありませんから。其れに、矢っ張り此処は居心地が善いんです」


爽子はそう云ってにこりと笑った。


「横浜に戻ってきた私は、或る仕事に就く為に1年間学校に通いました。そして私は其の学校を卒業し、今は念願叶って、人を扶ける職業に就いています」

「……其の職業って?」


太宰の質問を受けて、爽子は懐から何かを取り出す。


「警察官です」


差し出された桜の刻印の付いた手帳。
其処には、彼女が神奈川県警横浜中央署の刑事課に所属する刑事である事が示されていた。


「……警察官、かぁ」


太宰は驚きつつも、何処か腑に落ちた様子で呟いた。
今回爽子が男装をしていたのも、潜入捜査か何かだったのだろうな、と彼は推測する。

『殺戮に特化した此の力を、今度は人を扶ける為に使いたい』

そして太宰は爽子の手紙に残されていた言葉を思い出した。
確かに警察官は人を扶ける職業だ。彼女が此の仕事を選んだのも理解は出来る。

だが−


「……爽は、異能力を使わない道を選んだ、って事かい?」


彼女は云っていた筈だ。
自分が異能力者であるという現実からは逃れられない、と。
そんな彼女が、異能力とは関わりの無い職業を選んだのが、少し意外だったのだ。


「……実は私の存在は、警察内部でもごく一部の人にしか公開されていなくて。公式ホームページでは勿論、私の情報は形あるものとしては一切残されていないんです。
私が、『警察官として』異能力を使う為に」


曰く、彼女の上司は幸いにも異能力の類に理解を示す人物で、爽子が異能持ちと知り乍らも、自分の下で働く事、そして万が一の事態に陥った時は異能力を使う事を許可して呉れたのだと云う。
刑事課の仕事以外にも、時々要人警護のような職務に駆り出される事があるようだ。


「成程ねェ。安心したよ。爽がちゃんと前に進んでいる姿を見て」

「はい。今、私はとても幸せです」


爽子はそう云って花が咲いたような笑みを浮かべた。


「太宰さんは今は何をしているンですか?其の格好、若しかして任務で?」

「厭、そうじゃない」


太宰はそう云うと小さく息を吐いた。


「ポートマフィアはもう抜けた。今は武装探偵社の一員だよ」


太宰の言葉に、爽子は目を見開いた。
其れから彼女は、自分が横浜を離れた後の出来事を、太宰の口から知らされる事になる。

「ミミック」という集団との抗争で、織田作之助が命を落とした事。
織田作が亡くなる際、太宰に「人を救う側になれ」と言い残した事。
太宰は其の言葉の通りにポートマフィアを離れ、2年前に武装探偵社の仲間入りを果たした事。

織田作之助が死んだ話を耳にした時は、爽子の目から涙が零れ落ちていた。
織田作と爽子が逢ったのは一度だけだったが、彼は自分の命を二度も救ってくれた命の恩人だったのだ。
四年の時を経て悲しみに暮れる爽子の掌を、太宰は何も云わずに握っていた。


「……太宰さん。私、生きたい」


暫くして顔を上げた爽子の瞳には、強い光が宿っていて。


「織田作さんが救って呉れた此の命を無駄にしたくない。生きて、苦しんでいる人達を扶けたい」


毅然とした其の態度は、先程迄泣いていた者の其れとは思えない。


「……出来るよ、爽なら」


だって、君は誰よりも光の世界に生きているから。

太宰は爽子の頭をクシャリと撫でる。
思わず見蕩れて仕舞いそうな笑みを浮かべる彼を見て心臓が跳ねた爽子は、自分の動揺を誤魔化すかのように慌ただしく席を立った。


「あの、私、もう行かなきゃなので」


失礼します、と云って、爽子は太宰に頭を下げる。


「あ」


くるりと躯の向きを変えた処で、彼女は何かを思い出したかのように口を開いた。


「そう云えば太宰さん、人喰い虎って知ってます?」


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