19.
「……さん、爽さん!」
「!」
誰かの呼び声に、爽子はハッと目を覚ました。
「善かった……気が付きましたね」
彼女の顔を覗き込んでいた虎の少年、中島敦は、ほっと安堵の笑みを浮かべると、直ぐにその場から立ち上がった。
「爽さん、目が覚めて早々申し訳ないんですが、直ぐに此処から逃げなければならないんです。……立てますか?」
「う、うん。判った」
「すみません。事情は走りながら説明します!」
そう云い終るや否や、敦は走り出していた。
「爽さん、気を失っていましたよね。何処迄覚えてますか?」
「……フランシスさんに首を絞められた事迄は、はっきりと」
「じゃあ、その後、芥川が来た事は?」
「……知らない。え、芥川って、芥川龍之介君?」
何の脈絡も無く出てきたその名前を聞いて、爽子は思わずそう聞き返していた。
敦は彼女の問いに「はい、ポートマフィアの芥川です」と答える。
「彼奴、もうじき白鯨が街に墜落するっていうのに、態々僕を殺しに此処迄来たとか云ってて……本当に理解出来ない……!」
「……」
敦の言葉に、爽子は沈黙を返す事しか出来なかった。
彼女は4年前から太宰と中也と関わりがあるにも関わらず、一度も芥川龍之介という男と顔を合わせた事が無い。
でも、嘗て織田作之助や太宰の話を聞いていて、芥川という男が太宰治という存在に執着している事は何となく知っていた。
だから、芥川が今の太宰の部下である中島敦の事を疎ましく思うのは納得できる。
如何して、太宰は自分を認めて呉れないのか。
如何して、太宰は敦に一目置いているのか。
芥川は、敦に対してそんな爆発的な不満を抱いているのだろう。
だからと云って、如何して彼が異常な程に敦を忌み嫌うのかは、彼女には判らなかったが。
「……それで、敦君。芥川君が来てから如何なったの?フランシスさんは何処に行ったの?」
「ああ、そうでしたね」
爽子が然り気無く話を変えると、敦は直ぐにそれに応じて呉れた。
彼が云う事には、フランシスが敦の過去の話をした途端に芥川が笑い出し、芥川と敦、そして爽子の周りの床を異能で丸く抉り取って階下に落下させた事で、一先ずその場から逃げ出す事には成功したらしい。
運善く敦は爽子の傍に落下する事が出来たが、芥川とフランシスが自分達を追いかけて来るのは時間の問題だろう、と彼は云った。
その言葉に呼応するかのように、爽子と敦の背後から『何か』が伸びて来る。
それは敦の足首にぎゅっと絡み付き、進行を妨げた。
爽子が立ち止まって敦の方を振り返ると、昏い瞳の青年が此方に向かって足を進めている事に気が付く。
「……芥川、龍之介君」
爽子が名前を呼ぶと、虚ろな瞳のその青年は、そこで初めて彼女の方に顔を向けた。
「……貴女が、彼の人が認めたという有吉爽子か」
「……」
爽子が黙っていると、芥川は顔を顰めて思い切り彼女を睨みつけた。
「理解出来ぬ。如何して、彼の人は貴女のような脆弱な人間に一目置いていたのか。僕には到底理解出来ぬ……!」
「芥川君。私は彼の人に認められている訳じゃないよ。私は彼の只の友達。それ以上でもそれ以下でも無い」
「黙れ」
芥川はそう云って、鋭い刃へと変形させた羅生門を彼女の喉元に突き付けた。
爽子は掌に異能力を発動させ、彼の羅生門をそこで受け止める。
「……芥川君。貴方が私に対して何を思っていようと、私は今此処で貴方と闘う心算は無いよ。今はお互い、もっと他にやらなきゃいけない事があるでしょう?」
「……ほう。それは詰まり、僕が今此処で人虎を八つ裂きにしても構わぬ、と?」
次の瞬間、芥川は敦の背中に羅生門の刃を振り下ろしていた。
そして、彼は敦を持ち上げ乍ら、憎悪に満ちた表情で虎の少年に向かって話しかける。
敦が生きていい理由を他者に求めるような下らない輩だったとは、飛んだ期待外れだ、と。
此れでは何度敦を倒した処で、何の戦果にもならない。戦果が無い限り、太宰は決して自分の事を認めては呉れないだろう、と。
「……『太宰さん』?何故……そこで太宰さんの名前が出るんだ?」
敦は首を傾げてから、返答を求めるかのように背後にいる爽子を振り返る。
彼女がそれに答えようと口を開いた瞬間、派手な音を立てて壁が蹴破られ、そこからフィッツジェラルドが姿を現した。
「見つけた」
フィッツジェラルドは先ず爽子に狙いを定めると、一気に彼女に向かって距離を縮めて来た。
だが寸でのところで芥川がフィッツジェラルドの前に立ちはだかり、攻撃を食い止める。
「成金背広。貴様は如何して、彼の女に拘る?」
「君には関係の無い事だ。……と云いたい処だが、佳いだろう、教えて遣ろう。俺にとって爽は、娘も同然の存在だからだ」
「……下らぬ。そんな理由で、貴様はアレに執着していると?」
「下らないとは失敬だな。俺は失ったものを取り返そうとしているだけだ」
芥川とフィッツジェラルドが戦闘をしている隙に、爽子はすかさず辺りに眼を遣る。
すると、向こう側の壁際に貨物用の昇降機があるのが見て取れた。
―此れに乗ったら最後、もう此れ以上は逃げられなくなるけど……仕方が無い。
「敦君、あれに乗って!」
彼女は敦に向かってそう呼び掛けてから、フィッツジェラルドの方に向き直った。
「爽子さんは?乗らないんですか?」
「私は此処に残る」
「そんな!如何してです!?」
「……私も、ちゃんと向き合わなきゃって思ったから」
そう呟く彼女の声は心無しか少し震えている。
「敦君は、もう知ってるでしょう?私が元組合の一員で、此の4年余りずっとフランシスさんから逃げて来た事。……もう、終りにしたいんだ」
爽子は無理矢理口角を上げて笑顔を作ると、敦を貨物用の昇降機目掛けて突き飛ばした。
「行って!早く!」
爽子の覚悟に気圧された敦は、彼女の言葉に小さく頷くと、昇降機目掛けて一目散に走って行く。
敦が昇降機の釦を押すと、爽子の脇をすり抜けて芥川も昇降機の中に転がり込んだ。
「おやおや、困った迷い犬達だ」
フランシスは眉尻を下げて呆れたようにそう呟くと、その場に残った爽子に向き直った。
「嗚呼、爽……。漸く、俺の下に来て呉れる気になったのか?」
彼は両手を広げ乍ら、爽子に向かって近付いて行く。
「フランシスさん。もう止めましょう、こんな事」
爽子はその場から足を動かす事無く、毅然とした態度で彼にそう呼び掛けた。
「私は貴方の娘じゃない。娘の代わりになってあげる事も出来ない。私は、このヨコハマの一警察官、有吉爽子です。もう、そちらに戻る気はありません」
「お前が何を言おうと関係無い。有吉爽子は俺の所有物だ。だから、俺は自分の物であるお前の事を守り抜く必要がある。……こんな処で、爽を失いたくは無いんだよ」
「私は!誰の所有物でも無い!」
フランシスの言葉を聞いた途端、爽子はそう叫んでいた。
「私は貴方から解放されたくて、もう人を殺すのが厭で組合を抜け出した。此の地に流れ着いたのは偶々だったけれど、私は此処に来てから自分が本当に遣りたい事を見つけられたんです。だから、私は此処で生きていきます。大好きな人達と、大好きな此の街を守り抜く為に」
「……やれやれ、埒が明かないな」
フランシスは大袈裟に溜息を吐き乍ら困ったように呟いた。
「如何して判って呉れないんだ?俺は、組合の中の誰よりも爽の事を可愛がってきた心算だ。お前が幼い頃からずっと、俺はお前を見守って来た。その代償が此れか?お前は、俺の善意を仇で返すのか?」
「フランシスさんこそ、如何して判って呉れないんですか?如何して、私を自由にして呉れないんですか?如何して、そんなに私に拘るんですか?」
「愛しているからだよ」
彼の言葉に、爽子は思わず息を止めた。
「俺は、自分の家族同然に君の事を愛している。だから、自分の此の手で、爽を守りたいんだ」
「ッ……」
そんなに苦しそうな顔をしないで欲しい。
そんな顔をされたら、如何したら佳いのか判らなくなって仕舞う。
彼女はフランシスの表情から目を背けるように、一度目を閉じて深く息を吸い込んだ。
それから直ぐに目を開けると、自分の想いを全て吐き出すかのように言葉を紡ぎ始める。
「……フランシスさんには本当に感謝しています。異国の地で1人途方に暮れていた幼い私を拾って呉れた。私に沢山の事を教えて呉れた。でも……御免なさい。私は、これからは自分の足で自分の人生を歩いて行きたいんです」
「……その選択が、自分の命を縮める結果になったとしても、か?」
フランシスは、囁くような口調でそう尋ねた。
「フランシスさん。私はこんな処で死ぬ心算はありません。絶対にヨコハマの街を守り抜きますし、自分も此処から生き残ってみせます」
「……ふん、そうか」
彼は呆れたように鼻で嗤うと、「来い」と云ってやや乱暴に爽子の腕を掴む。
「其処迄意地を張るのなら、見せて遣る。俺の矜持、そして覚悟と―お前が選んだヨコハマという街が、俺の手に依って壊滅していく様子をな」
フランシスはそう云ってにやりと笑うと、彼女を連れて大股に歩き始めるのだった。