彼と彼女のハッピーエンド
太宰さん、扶けて。
今日も私は、来る筈の無い扶けを求めて心の中でそう叫んでいる。
あの日、背後から狙撃されて気を失って仕舞った私は、目が覚めたら全く見知らぬ部屋の中にいた。
此処は、何処?
ゆっくりと躰を起こし、壁に手をつきながらふらふらと部屋の中を歩き回る。
生活に必要なものは一通り揃っているように見えたが、テレビやパソコンなど、外部の情報を取得できる物は何一つ置かれていなかった。
そして、この部屋に唯一と思われる扉の前に立ってみると、
「おや、御目覚めですか」
唐突に向こう側から扉が開かれたと思うと、聞きたくも無い声と共に、青白い顔をした露西亜人の男が姿を現す。
私が一歩後退ると、魔人は大きく前に足を踏み出して、より一層距離を縮めて来た。
そのまま冷たい両手に頬を挟まれ、ぐっ、と上を向かされる。
―また、奪われる?
そう思った私は、反射的にぎゅっと目を瞑った。
「……余り顔色が善くありませんね。直ぐに食事を用意させましょう」
だが、次に聞こえて来た魔人の一言は余りにも予想外で、私は彼を見上げてぱちぱちと目を瞬かせた。
私の頬から手を離したその男は、黒い外套を翻して颯爽と部屋を立ち去ろうとする。
「あ、あの」
華奢な背中に、私は思わず声を掛けた。
立ち止まって此方を振り向いた彼は、魂の抜けたような双眸でじっと私を見つめている。
「……『帰りたい』って云っても、帰しては呉れないんですよね」
半ば諦めたようにそう問いかけると、魔人は尚も無表情のまま口を開いた。
「帰りたいのでしたら、帰って頂いても構いませんよ。……まァ、余りお勧めは出来ませんが」
「外に出るまでに、厳重な警備を潜り抜けなければならないから?」
「警備?否、そんなものは有りませんよ。此処から出て行きたいというのであれば、ご自由にどうぞ。僕は止めません」
「え……で、でも、太宰さんを出し抜きたいから、私を攫って来た筈で―」
「その通り。ですが、貴女を攫ったのは、我々がほんの少しの時間稼ぎをする為、という理由に過ぎません。彼との勝負ともなると、使える手札は全て使っていかなければなりませんから」
「詰まり、私はもう用済みって事?」
「ええ、まァ、そういう事です」
「じゃあ、如何して私を殺さないの?」
「僕は無駄な殺生は好みませんから」
魔人は私の質問に対して淡々と答えを返して来る。
それが逆に罠に思えて仕方無くて、私は負けじと再び口を開いた。
「で、でも……此の部屋の扉は、暗証番号を入力しないと開かないんでしょう?それって詰まり、私を逃がす心算は無い、って事ですよね?」
「嗚呼、そんな事ですか。佳いですよ、お教えしましょう」
「……は?」
「貴女は此の扉の暗証番号が知りたいんでしょう?教えて差し上げる、と云っているんです」
「な……何で?そんなもの、信じられる訳ないでしょう?」
「信じるか如何かは貴女次第ですが、僕が此の部屋に暗証番号を取り付けたのは、君を『逃がさない』為ではなく、君を『守る』為です。僕の言葉がそんなに信用ならないのでしたら、貴女の目の前で暗証番号を打ち込んでも構いませんよ」
魔人はそう云うや否や扉の前に立ち、暗証番号を打ち込むパネルに指を置く。
―此の人、一体何を考えているの?
私は困惑を隠し切れないまま魔人の隣に立ち、彼が優雅に番号を打ち込んでいく様を眺めていた。
彼が全ての数字を登録した瞬間、浮かび上がった『OK』の二文字と共に扉が開かれる。
「ほら、此れで扉は開きました。善かったですね、此れで貴女は何時でも此処から出る事が出来る」
「な、何で?貴方、頭おかしいんじゃないの?」
「僕は至って正常ですよ」
それでは、後はご自由にどうぞ。
魔人はそう云い残すと、今度こそ部屋を立ち去って行く。
私はというと、彼の余りにも不可解過ぎる言動に理解が及ばなくて、その場で茫然と彼の背中を見送る事しか出来なかった。
今日であの魔人に連れ去られてから1週間が経つ。
この1週間、彼が部屋に来る度に動向を注意深く観察していた心算なのだが、彼は私に危害を加える事も無く、ただ少し雑談をして部屋を去って行くだけだった。
あれから何度か魔人に教わった番号を打ち込んでみたが、その度に正常に扉は開いていて、彼が嘘を吐いていない事も分かった。
となれば、私が何時迄も此処に留まる理由は無い。
私は今直ぐにでも、此処から逃げ出す事を決めた。
もう何度となく打ち込んでいる暗証番号を入力し、先ずは一歩、部屋の外へと足を踏み出してみる。
若し
また一歩、一歩と、慎重に足を進めて行く。
道中に罠が張ってあったり見張りがいたりするのかと思ったが、それすらも全く見受けられなくて、私は驚く程簡単に外に繋がると思しき扉の目の前まで辿り着いて仕舞った。
此処まで来たと言うのに、安堵よりも不安の方が勝っている。
あの魔人の意図が解らない。怖い。
でも、私は早く探偵社に……太宰さんの処に帰りたい。
私はぎゅっと唇を噛みしめると、両手で大きな観音扉を押し出した。
「え」
愕然。放心。絶句。
外に広がる景色を見て、私は絶望に打ちひしがれた。
視界を覆い尽くす真っ白な景色と、遥か彼方、下方に広がる街の灯し火。
私があの魔人に連れて来られたのは、雪で覆われた
「逃げ……られ、ない?」
そう口に出した瞬間、私は魔人の言葉を思い出す。
『帰りたいのでしたら、帰って頂いても構いませんよ』
『まァ、余りお勧めは出来ませんが』
彼は判っていたのだ。
私が何をしようと、此処からは逃げ出せないという事を。
生気の無い冷たい瞳で薄ら笑う魔人の表情が目に浮かんで、私の背筋に悪寒が走る。
『守る』だなんて飛んでも無い。
あの男は、
「……それじゃあ、私は、」
ずっと、あの男の傍で生きていく羽目になる?
もう、太宰さんに会えなくなる?
そんなの。
そんなの。
「絶っ対に、厭だ……!」
私は一歩、雪の中に足を踏み入れた。
冬用の衣服も履物も無い今の私にとって、砦の外は拷問に値する程の環境である。
それでも、あそこであの儘魔人に飼い殺しにされるよりかはマシだと思った。
一歩でも遠く、あの男から離れた処に行かなければ。
それだけを強く自分に云い聞かせ、縺れる足を叱咤して前に進む。
余りの寒さに唇の色は直ぐに変色し、全身がガタガタと小刻みに震えた。
更に時間が経つと手足の先と耳が冷たく痺れ、段々と感覚を失い始める。
チラリ、と掌に眼を遣ると、皮膚が白く変色し、所々に水膨れと発疹が出ているのが判った。
「はは……凍死自殺は、嫌だなァ……」
何処ぞの元恋人に想いを馳せて、私は自嘲気味にそう呟く。
逢いたい。死にたくない。
でも、魔人の下には戻りたくない。
とうとう頭の中がぼうっと霞んで来た私は、枯れ木の幹に背を預けて座り込んだ。
「……すけ、て……ざい、さ……」
あいたい。
こわい。
たすけて。
一瞬だけ意識がとんだ瞬間に、もうどうでもいいよ、と脳内でべつの自分がささやいた。
いくらここでたすけを待ったところで、
わたしを救いだしてくれるおうじさまはもういない。
わたしはここでひとり、だれにもみとられることなくしんでいくうんめいなのだ。
「おやおや、こんなところにいたんですか」
まぶたをとじようとしたそのときにきこえてきたこえに、わたしはゆっくりとかおをあげた。
しろいけがわのぼうしをかぶったそのひとは、だんだんとわたしのほうにちかづいてくる。
「だから云ったでしょう?『余りお勧めは出来ない』と」
このひとは、だれ?
おもいだせないけど、ひとつだけ―これだけはおもいだせる。
このおとこは、きけんだ。
にげ、なきゃ。
あたまではそうわかっているのに、わたしのからだはもうげんかいをむかえていた。
わたしはちかづいてくるそのおとこをめのまえにしても、しろいいきをはきだしてかれをみあげることしかできない。
「嗚呼、可哀想に。全身から血の気が失せている。このままでは死んで仕舞いますよ?」
「……ぃ、や……し、に……く、な……」
「そうですね。誰だって、死の淵に立たされた時には恐怖を感じるモノです」
おとこはそういってからわたしのめのまえにしゃがみこむ。
「僕は此の儘貴女を見捨てて立ち去る事も出来る。ですが、『彼』に対して憎らしい程に健気で真摯なその態度に免じて、今回は貴女に選択肢を差し上げましょう」
そうささやいたかれは、わたしのあごをもちあげてからふたたびくちをひらいた。
「此処は雪国の山の中。防寒対策をしていない貴女は、放っておけば此の儘死んで仕舞う。そんな貴女を救えるのは、他の誰でも無く、今此処にいる僕だけです。……却説、どうしますか?僕の手を取るという事であるならば、愛らしく縋ってみせて下さい」
「……」
わたしはゆっくりとくびをよこにふった。
このおとこはきけんだ。ちかづいちゃだめ。
じぶんでもよくわからないけれど、あたまのなかでだれかがそうさけんでいる。
「……そうですか。残念です」
おとこはためいきをついてからたちあがると、わたしにせをむけてそのばをたちさろうとした。
「ゃ……い、かな……で……!」
じわり、とめになみだがうかぶ。
わたしはかんまんなうごきでかれにりょううでをのばし、ちからのはいらないゆびさきでおとこのがいとうのすそをつかんだ。
「……躾のなっていない方ですね。貴女はつい先程、僕の申し出を断った筈では?」
「ぅ……で、も……」
「云い訳は求めていませんよ。貴女は唯、
「ぁ……」
「真逆とは思いますが、『彼』が自分を扶けに来て呉れる……なんて、都合の佳い幻想を思い描いている訳では有りませんよね?」
「か、れ……?」
「……嗚呼、もう思い出せなくなっているのですね。それならそれで好都合ですが」
おとこのことばに、わたしはくびをかしげることしかできない。
かれはちいさくためいきをはきだすと、わたしのりょうかたにてをおいてさとすようなくちょうではなしをはじめた。
「善いですか、名前さん。貴女はね、『彼等』に見捨てられたんですよ」
「かれ、ら……?み、す……てる?」
「だってそうでしょう?貴女がこんなにも苦しくて痛い思いをしているのに、貴女を扶けに来て呉れる筈の探偵社の仲間達は誰も手を差し伸べて呉れない。結局人間というのは、自分の身が一番可愛い生き物なのですよ」
「ぅあ……ち、が……ゃ、だ……たす……て……ひ、とり、に……なぃ、で……!」
「僕なら、貴女を独りぼっちになんかさせません」
あまくとろけるようなそのことばが、わたしののうないをぐるぐるとおかす。
「何時如何なる時でも、貴女を手放しません。病める時も健やかなる時も、どんな貴女だったとしても、大切に可愛がって慈しんで寵愛する事を誓います。……貴女は如何です?」
「ゎ……た、し、は……わた……し……たす……けて……そば、に……て、くだ、さ……」
「ええ、勿論その心算です」
名前さんは善い子ですね、といって、そのおとこはをわたしのひたいになんどもなんどもくちびるをおとす。
ざんこくなほどにやさしくしつこいそのくちづけは、わたしのなかにわずかながらにのこっていたたいせつな『なにか』をどろどろにとかしてけしさってしまったようなきがした。
でも、いまはもう、そんなことはどうでもいい。
わたしは、このひとさえいてくれれば、それでいいのだ。
「……名前さん、僕の名前を呼んでください」
貴女、一度も呼んで呉れた事はなかったでしょう?
おとこはわたしにそうささやくと、みみもとでそっとじぶんのなまえをつげる。
「……ふぇーじゃ、さん」
「もう一度」
「ふぇーじゃ、さん」
「もう一度」
「……ふぇーじゃ、さん、ふぇーじゃさん、フェージャさん……!」
子供のようにわんわんと泣き出してしまった私を、フェージャさんは優しく抱き締めて呉れた。
私は彼の華奢な背中にしがみつき、ぎゅう、と
「さァ、名前さん。帰りましょう、僕達の家に」
彼のその言葉に、私はふにゃりと微笑んで小さく頷いた。
―そういえば、如何して私は、
「名前さん?如何かしたんですか?」
一瞬頭の中に過った疑問は、誰よりも愛おしい人の声で直ぐに掻き消えた。
「何でもありません。行きましょう」
まァ、もう今更、そんな些細な事は―
「如何でも佳いや」
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