短編お姫様にしてよ!
「はぁ〜……」
或る晴れた日の昼下がり。
私は事務机に積まれた書類の山と、鳴り止まない電話、そして隣の席で優雅に紅茶を啜る包帯無駄遣い男―基い、太宰治を前に、それはもう盛大に溜息を吐いていた。
「ねェ、なまえちゃん。この報告書の数値、少しばかり書き直しては呉れないかい?私、どうにもこの細かい数字を見ると頭が痛くなって仕舞ってね……君の流麗な筆捌きならアッという間だろう?頼むよ、此の通り!」
「否、先刻まで自慢げに『この程度、朝飯前だよ』と仰っていたのは何方様でしたっけ?ちゃんと自分で終わらせてくださいね」
私は万年筆を握り直すと、努めて冷静に言い放つ。
幼い頃に憧れていた、物語の中のキラキラした女主人公。
王子様の隣で衣裳を纏い、華やかな舞踏会で踊る―そんな夢を見ていた少女時代。
あの頃は、大人になれば自然とそうなれるものだと思っていた。
だが、現実はどうだ。
気付けば私は、武闘派の可憐な社会人として、ヨコハマの街を駆けずり回っている。
御姫様どころか、泥臭い情報の海を泳ぎ、書類の山と格闘する日々。
優雅な朝御飯なんてモノを楽しむ余裕は勿論無い。
毎朝、二度寝防止機能の喧しい音に叩き起こされ、時には満員電車に揉まれる。
これが私―武装探偵社員、みょうじなまえの日常だった。
「一寸、そんなに冷たくしないで呉れ給えよ。御褒美に、あとで高い西洋菓子でも奢ってあげるから。ね?ほら、此処の数字、私には呪文のように思えてだね……」
太宰さんは顰め面をする私に対し、悪戯っぽい笑みを浮かべ乍ら、私の頭をポンと叩く。
包帯だらけの細い指先が髪に触れるだけで、心臓が跳ねるのを隠すのに必死になって仕舞う。
守って貰ってばかりは嫌だし、自立した女性でありたい。だって私は、強くて甘い、令和の御姫様を目指しているのだから。こんな事で一喜一憂しているだなんて知られたら、また此の人に揶揄われて仕舞う。
「莫迦な事を云っていないで、ちゃんと仕事をしてください。……あの、因みにその西洋菓子は当然、高級店のヤツですよね?」
「うふふ、勿論。なまえちゃんが望むなら、どんな高い西洋菓子だって用意するよ」
太宰さんは顎先に親指と人差し指を掛け、此方に向かってキメ顔を作って見せた。
屹度、心の中では、高級西洋菓子という名の餌に食いついた私を見て、「チョロいな」とでも思っているのだろう。
私だって、自分の事をチョロいとは思っているけれど、何時だって甘いモノは絶対的正義なのだ。こればかりは、釣られてしまっても仕方がないというもの。
こんな感じで、私は毎日彼に振り回されている。
昨日だって、私が書類を片付けている間に、彼は何時の間にか私の事務机の上にある筆立ての向きを変えて遊んでいた。
この前なんか、急に後ろから覗き込んで来て、「あ、そこに蜘蛛がいるから気をつけ給え」と飄々と嘘を吐いてみせたのだ。
「えっ、何処ですか!?」
「勿論嘘だよ」
「……もう!太宰さん!また騙しましたね!?」
「あはは、なまえちゃんは本当に表情が豊かだねェ。そんな可愛い顔でぷんすかしているのを見ると、もっと揶揄いたくなって仕舞うのだよ」
そんな小競り合いが日常茶飯事。
私が怒れば怒るほど、彼は楽しそうに目を細める。
太宰さんに敵わないのは解っている心算だけど、彼の掌の上で踊らされているだけの磁器人形になるのは一寸悔しい。
「おい、お前達!」
その時、雷のような怒号が社内に響き渡った。
声の主は、太宰さんの今の相棒―国木田さんである。
彼は手帳をバシリと閉じて、血管を浮き上がらせ乍ら此方へと歩み寄って来た。
「太宰!貴様、またなまえを捕まえて無駄話をしているのか!〆切まであと三時間だぞ!なまえ、お前もだ!此奴に構うなと言っているだろう!」
「いやぁ国木田君、今日も元気そうで何より。否、これはだね、なまえちゃんに人生の機微を説いていたところで……」
「貴様の機微など聞く価値もない!とっとと報告書を終わらせんか!」
「ちぇー……」
国木田さんの怒声に私は素直にぺこりと頭を下げ、一方の太宰さんは飄々とした態度で肩を竦めた。
しかし、国木田さんが少し離れた隙を見計らい、太宰さんはすかさず私の背後に回り込む。
気が付けば、逃げ場を塞ぐように身体の両脇に手を置かれ―そこから一歩も動けない体勢となっていた。
太宰さんはその体勢の儘、私の耳元でこっそりと囁く。
「ねェ、見た?国木田君の顔、今日も真っ赤っかだったね。まるで熟れたトマトみたいだ」
「否、国木田さんを怒らせたのは貴方でしょう?好い加減仕事に戻ってください」
太宰さんは私の小声の反論を綺麗に聞き流し、ぐっと距離を詰めてきた。
そして、何の躊躇いも無く私の前髪を掻き上げ―その額に自分の唇をそっと押し当てる。
「へぁッ!?」
頭が真っ白になる。
社内の喧騒が遠のき、太宰さんの体温だけが額に焼き付く。
数秒の密着の後、彼は名残惜しそうに唇を離し、私の目を見つめてニヤリと笑った。
「……却説、私は仕事に戻ろうかな。今日も確り励むんだよ、御姫様?」
完全に思考が停止した私を置いて、彼は優雅に書類の山へと向き直った。
顔が熱い。
今の私、絶対に、先刻の国木田さんよりも顔が赤いと思う。
私は火照った顔を周りの同僚達に見られないように、額を抑えて俯く事しか出来なかった。
(……とは言え、偶に考えちゃうんだよな)
此処が若し舞踏会の会場で、今のこの会話が物語の一幕なのだとしたら。
この場面は、王子様からグッと近づいてきて『よーいスタート!』の合図で恋が始まるの。
……解っている。こんなものは唯の現実逃避でしかない。
私は大袈裟に溜息を吐き、態と太宰さんの紅茶のカップを少し遠くへと押し遣った。
「おや、中々にいじらしい事をしてくれるね、なまえちゃん。若しや、私に恋でもして仕舞ったのかな?」
「な!?し、してませんしてません断じてしてません調子に乗りすぎですよ太宰さん早く仕事に戻ってください」
片手で顔を覆い隠し乍らそう叫ぶ私を見て、彼は楽しげに喉を鳴らしている。
太宰さんは私の事務机の縁に手をかけ、顔を覗き込んで……って近い近い近い!
ふわり、と、彼が何時も身体に塗っている薬剤の香りが鼻先を掠めた。
「なまえちゃんは何時も忙しなく駆け回っているけれど、偶にはその歩みを止めて、心の中を全部預けてみてもいいんだよ?例えば……そう、私に存分に甘えてみる、とか」
耳元で囁くようなその声に、全身の毛が逆立つ。
嗚呼、もう!
如何してこの人は、こうも簡単に私の心拍数を上げるんだろう。
「負けてたまるか」というよりも、何か一矢報いたいという衝動に駆られた。
私は深く考えず、くるりと椅子を回転させて太宰さんの正面に向き直る。
「太宰さんこそ、御姫様を口説く王子様の台詞が、それっぽっちしか出てこないんですか?」
「……おや?」
太宰さんは、私の言葉に少しだけ目を見開く。
私は椅子から立ち上がって彼の胸元に手を置くと、敢えて彼が何時もやるような余裕の笑みを浮かべてみせた。
「もっとこう……『私の白馬に乗って、一緒にヨコハマの街を駆け巡ろう』とか、『毒林檎を食べて眠った君を、私が迎えに行くよ』とか言えないんですか!?」
自分でも何を言っているのか分からない。
唯、彼にペースを乱されるばかりなのが悔しくて、精一杯の強がりを言っただけだった。
私の暴走を目の当たりにした太宰さんは、流石に不意打ちを喰らったようで、完全に固まって仕舞っている。
「……えっ、と。なまえちゃん?今、なんて?」
「すみません何でも無いです忘れてください」
やばい。完全に引かれている。
我に返った私は、羞恥に駆られてその場から逃げ出そうとした。
彼はというと、口を半開きにして、耳の端まで顔を赤く染め上げている。
予想外のその反応に、今度は私が目を見開く番だった。
……あれ? 若しかしてコレ、私の勝ちでは?
そんな予感が脳裏を過ったのも束の間。
彼が素早く私の腕を掴んだ。
「ッ!?」
太宰さんは、先ほどまでの照れ臭そうな表情を完全に消し去り、代わりに獲物を狙う獣のような、而して甘く蕩けるような笑みを浮かべている。
「ふうん……なまえちゃん、随分と大胆になったねェ」
彼は私の腕を引いて、自分の懐へと閉じ込めた。
先刻までの私の強気な姿勢なんて、彼には通用しない。
逃げ場のない狭い空間で、彼の肌から伝わる微かな温もりが、私の熱を静かに奪っていく。
「君がそンな風に私を試すのなら、仕返しをしなきゃいけないね。そうだなァ……次はどんな御姫様ごっこをしようか?」
彼はゆっくりと私の髪を耳に掛け、そのまま耳朶を指先で擦った。
痺れるような感覚に、足の力が抜けそうになる。
「さァ、なまえちゃん。先刻の続きといこうか」
―もう、白馬に乗った王子様なんて待たなくて善いよ。
―今此処で、私が全部教えてあげるから。
その言葉の響きは、甘い毒のように私の思考を溶かしていく。
先刻の続き―それは、さっき不意打ちで額に施された口付けの事ではなかろうか。
私は喉の奥がキュッとなるのを感じた。
「ち、違っ……そういうつもりじゃ……!」
余りにも近過ぎる距離。
彼と私の吐息が混ざる度に、心臓が狂ったような調子を刻んでいる。
太宰さんは私の顎を軽く掴むと、向かい合わせになるように私の顔の向きを変えた。
「嘘を吐いても無駄だよ。君の顔を見れば分かる。先刻、私が額にちゅーした時……一瞬期待した顔をしただろう?」
「そ……んな、事は、」
無きにしも非ずだけど、真逆言い返せる訳も無く。
否定し乍らも真っ赤になって震える私を見て、太宰さんは弓形に目を細めた。
その鳶色の双眸は、私のことだけを真っ直ぐに射抜いていて。
「……も、もう無理!限界!此れ以上揶揄わないで下さい!」
「揶揄ってなんかいないさ。本心だよ、なまえちゃん」
そう言って、彼は態とらしく、今度は私の鼻先に自分の鼻をすっと寄せてみせた。
触れそうで触れない距離。
余りの破壊力に、私は膝から崩れ落ちそうになる。
太宰さんはそんな私を抱き留め、耳元で「可愛いね」とだけ囁いた。
……やられた。完敗だ。
私は顔を覆い、そのまま事務机に突っ伏した。
彼はK.O.を喰らった私を横目に、大層御機嫌な様子で鼻歌を歌い乍ら、また何事もなかったかのようにパソコンに向かっている。
そんな私達の様子を、遠くの席から敦くんが呆れたように眺めていたそうだが―その時の私にはそんな事を知る由もなかった。
*
漸く長い一日が終わり、日が暮れたヨコハマの街に出る。
約束通り、太宰さんは私を高級な西洋菓子店へと連れ出して呉れた。
陳列棚並ぶ宝石達を前に、私は先ほどまでの動揺を隠すように、敢えて明るい声で西洋菓子を注文する。
「此処、本当に全部美味しいんですよ、太宰さん。私に感謝してくださいね」
「嗚呼、君のオススメなら、間違いはないだろうね」
店員さんの案内で私達が席に着くと、太宰さんは私の目の前に腰掛けた。
店内は落ち着いた照明で、なんだか舞踏会の片隅にいるかのような錯覚を覚える。
運ばれてきたクリームパスタと、食後のモンブラン。
私はモンブランを一口食べて、思わず頬を緩めた。
「ん……美味しい」
「それは良かった。君の表情を見ているだけで、私まで満足して仕舞いそうだよ」
太宰さんは自分の前に置かれたアップルパイには目もくれず、じっと私を見つめている。
その視線がこそばゆくて、私は慌てて視線を逸らした。
「食べないんですか?冷めちゃいますよ」
「善いンだよ。なまえちゃんの幸せそうな表情を見る事こそが、今日一番の御褒美なのだからね」
彼は再び、甘ったるい台詞を平然と言ってのける。
私の心臓が、また変な調子を刻み始めた。
帰り道、街灯が優しく照らす道を二人で歩く。
私はふと、昼間の探偵社での出来事を思い出して、自分から太宰さんの外套の袖を少しだけ掴んだ。
「……あの、太宰さん」
「なぁに?」
「先刻は、此れ以上揶揄わないでって言いましたけど」
「……うん」
「……偶にだったら、善いですよ、私」
「……え?」
小声で呟いた私の言葉を聞き逃す筈もなく、太宰さんは立ち止まった。
そして、私の手をきゅっと握り締める。
その瞳には、何処か愉快そうで……それでいて、不思議と優しい光が宿っていた。
「……それは、これからも沢山揶揄って欲しいと云う意味かな?」
「ち、違ッ!そういう意味じゃ、」
私が慌てて手を離そうとすると、太宰さんは私の指先を優しく包み込んだ儘、悪戯っぽく笑った。
「うふふ、否定すればするほど、君の表情は雄弁になるね。……まァ善いや。今日のところは見逃してあげる」
―でもね、なまえちゃん。
彼は私の指先にちゅ、と口付け、言葉を続ける。
「こう見えて、私は諦めが悪いンだ。だから……君が素直な善い子になれる迄、何度でも迎えに行くよ。覚悟しておいてね」
そうして、太宰さんは、軽やかな足取りで先を歩き出す。
「……え?一寸、太宰さん!?」
今、飛んでも無い爆弾が投下されたような気がするんですが!?
彼の背中を追いかけ乍ら、私は自分の顔が未だに熱を持っている事に気が付いて、思わず口元を覆い隠す。
結局の処、今日もずっと、私は彼の掌の上で転がされてばかりだ。
そして此の先も屹度、彼に振り回され乍ら生きていく事になるのだろう。
夜の冷たい空気の中で、太宰さんが歩く先だけが、少しだけ明るく見える。
私にとっては、あの頃の私が夢見ていた舞踏会よりも、今の此の場所の方がずっと特別だった。
二人の影が、ヨコハマの夜に長く伸びていく。
何時か屹度、白馬に乗って……否、そんな非現実的な事じゃなくて、隣を歩いて呉れるであろう此の人と、ただ穏やかな朝を迎えたい。
そんな未来を夢に見て、私は彼に追いつくように、駆け足で夜の街を歩き出した。