短編
モラトリアム

 春が来るよ、と青空が告げた。
 窓の外、武装探偵社の窓から見える街路樹の桜は、未だ硬い蕾を付けた儘、その時をじっと待っている。
 期待通りに花開き、街を淡い紅色に染め上げる日も近いのだろう。
 季節は廻り、流行りも、世の中の価値観だって移ろってゆく。けれど、私の内に住み着いた臆病な澱は、『此処に居て』と泣いた儘、一歩だって動こうとはしなかった。
 そうやって私は、何年もの間、この脆い場所で立ち止まっている。
 『 』の手前という、出口のない迷路の中で。
 ふと、事務机の端に置かれた書類の山に視線を落とした。
 人の体温なんて、私にはよく分からない。
 それは、嘗てポートマフィアにいた頃、冷たい死体ばかりを踏み付けて来た代償なのかも知れない。
 それでも、『彼女』が探偵社の扉を開けて入って来る度に、細い艶髪の隙間から零れ落ちるあの甘い香りだけは、私の感覚の奥深くに刻み込まれていた。


「おはよう、太宰。朝から難しい顔して如何したの?」


 突如、頭上から降ってきた柔らかい声。
 その声に、私は弾かれたように顔を上げる。
 其処には、何時ものように穏やかな笑みを浮かべた彼女―なまえさんが立っていた。
 ふわり、と、春風に長い黒髪が少し揺れて、またあの香りが私の鼻先を掠める。


「おはようございます、なまえさん。少し、考え事をしていただけですよ」

「……若しかして何か悩んでる?それなら、私で良ければ話を聞こうか?」

「否、大した悩みではないので大丈夫ですよ。新しい自殺方法について思考を巡らせていただけなので」

「もう、またそんなこと考えてたの?程々にしなさいよ」


 なまえさんは呆れたように笑い乍ら肩から鞄を下ろし、私の向かいの席に腰掛けた。
 彼女の左手の薬指に光る銀色の指輪が、朝日に反射して小さく煌めく。
 そう、なまえさんには、将来を誓った恋人が居るのだ。
 彼女は狡い。そうやって、私を歌劇の舞台にすら上げず、安全な観客席に縛り付けておくのだから。
 
 出社時刻を迎え、社員全員が揃った探偵社は、相も変わらず騒がしい。
 隣の席では国木田くんが「太宰!また仕事が溜まっているではないか!」と怒鳴り声を上げ、奥の座椅子ソファでは乱歩さんが菓子を摘みながら何事かに興じている。
 武装探偵社は、私のような人間でも『人間』として居られる、唯一の光に満ちた場所だ。
 けれど、その温かな光の輪の中に、私だけが何処か違う影を落としているような感覚に陥る事が有る。
 なまえさんと話していると、特にそれを強く感じてしまうのだ。


「そういえばね、太宰。この前太宰が教えて呉れた、珈琲が有名な喫茶処カッフェ、あるじゃない?そこに、今度彼と行ってみることにしたの」


 なまえさんは私の劣等感など露知らず、手元の書類に目を通し乍ら、弾んだ声で此方に話し掛けてきた。
 『彼』いうのは、勿論彼女の恋人の事だ。
 喉の奥が、ぎゅっと掴まれたように熱くなる。
 それを隠す為に、私は態とらしく上擦った声を上げた。


「へェ、それは良かったですね。なまえさんが喜ぶ顔が目に浮かびますよ。呉々も、店員さんに変な絡み方をしないようにとお伝えくださいね」

「あはは、彼はそんなことしないよ。太宰じゃあるまいし」


 なまえさんは楽しそうに笑った。
 彼女は、私が彼女を想っているだなんて夢にも思っていない。少し面倒な後輩として(私は自分が面倒な性格で有ることを自負している)、或いは職場の同僚として、慈愛に満ちた視線を向けて呉れる。
 彼女にとっての私は、その程度の認識でしかないのだ。


「あ、それと。例の依頼の件は如何なったの?あの後ちゃんと片付いた?」

「嗚呼、其れについては、結局国木田くんが報告書まで完璧に仕上げて呉れましたよ。彼は本当に仕事が早いよねえ」


 他愛のない話。そんな言葉の一つ一つが、今の私には酷く重い。
 
 昨日も、今日も、明日も、その先も。
 私は心の中で泣いている。
 誰にも悟られないように飄々とした仮面を貼り付けて、込み上げてくる感情を喉の奥に閉じ込めている。
いっそ、此の感情を、全部切り捨てて仕舞えたら。
 そう願い、爪を立てて心の壁を引っ掻いた跡が、気が付けば情けないことに『 』という名の傷と化して残って仕舞っていた。
 若しも私の胸の内に渦巻く此の気持ちを歌にしろと云われたら、屹度それは誰が聴いても悲しい歌になるのだろう。
 ハッピーエンドなど何処にも存在しない、泥濘の中を彷徨うだけの、悲しい恋歌ラヴ・ソングに。


*


 昼過ぎ、私は気分転換を口実に、探偵社をふらりと抜け出した。
 駅へと向かう人混みの中、何処へ向かうでもなく、下を向いて歩いてゆく。
 この胸に溜まった憂鬱は、彼女がいれば晴れるのだろうか。
 ……否、彼女がいるからこそ、私の心には雨が降り止まないのかも知れない。
 無意識の内に辿り着いた山下公園の散策路プロムナードから、ヨコハマの街並みを見下ろす。
 そこから見る街の景色は、何故だか非道く冷たく見えた。
 若しも此の先、彼女が深い寂しさに襲われる日が来たとして、その夜、日記に綴る名前が私では無いのならば。
 その頁を、夜空のような濃紺の洋墨インクで塗り潰して仕舞えたら、どんなに良いだろう。


「……莫迦みたいだ」


 ―そんな都合の良い妄想が、叶う訳も無いというのに。

 独りごちた声は、雑踏の喧騒に掻き消された。
 此の世界で、誰よりも―屹度、彼女の想い人よりも、私は彼女を知っている。
 ハーブティーが少し苦手な事、雨の日は気圧で偏頭痛に悩まされている事、誰に対しても分け隔てなく優しい事。
 そして、私のこの薄っぺらい笑みの裏側にある切実な胸の痛みに、彼女が全く気付いていないという事さえも。
 なまえさんという存在は、何時の間にか、私の心の土壌に深く深く根を張っていた。彼女が撒いた薄紅色の種は、私の中で静かに芽吹き、ひっそりと花を咲かせたようだ。そして、折角咲いたその花は、春風という名の現実を前に、誰にも気付かれる事なく儚く散って仕舞った。
 私は嘘吐きだ。彼女に対しても、自分自身に対しても。
『憧れ』という言葉で色を暈し、何度も心のキャンバスに絵の具を塗り重ねた結果、元が何色だったのかすら分からなくなって仕舞っている。


「……知りたかったな」


 ポツリ、と、消え入るような声でそっと呟いた。
 若し、彼女と私が混ざり合ったら、私達はどんな色になっていたのだろう。
 幸福な温かさを持てたのだろうか。
 それとも、私という暗闇がなまえさんという名の光を喰い潰して、泥のような色になっていたのだろうか。
 その答えを知りたくても、私がそれを知る事はもう無い。
 答えを見ることも出来ない。
 この先も、ずっと。
 

*


 午後六時、探偵社に戻ると、夕陽が窓から長く差し込んでいた。
 なまえさんは未だ残業中らしく、事務机に腰掛けて画面と睨めっこをしている。
 その横顔の輪郭が、夕闇に溶けそうなほど淡く染まっていた。
 私は自分の事務机に座り、キーボードを叩くフリをして密かに彼女を観察する。
 困った時に眉毛を寄せる癖、細い絹髪を耳に掛ける華奢な指先。
 その全てが、私の心を騒めかせた。


「太宰、またぼーっとして。何かあった?」


 その声に我に返ると、何時の間にか、なまえさんが身を乗り出して、心配そうに此方を覗き込んでいた。
 その瞳の奥には、混じり気の無い友情の色しか見えない。
 本心を誤魔化し、見て見ぬフリを積み重ねて、自分の心に蓋をして来た。
 でも、それももう、限界が近いのかも知れない。


「……御免ね、なまえさん」


 ―『彼』を想う貴女の事を、勝手に好きになって仕舞って。

 口元まで出掛かったその言葉は、言葉にならずに喉奥へと飲み込まれていった。
 なまえさんは、ただ一言、私から発せられた謝罪の言葉に対し、訳が分からないと言わんばかりに目を瞬かせている。
 その顔を見て我に返った私は、ひくり、と引き攣ったような笑みを浮かべた。


「……すみません、混乱させて仕舞いましたね。大したことではないので、余り気にしないで下さい」

「否、そんな事云われても―」

「却説、私はそろそろ帰ろうかな。またね、なまえさん」


 不満そうな彼女を置いて、逃げるように探偵社を去る。
 大通りに出たところで、私はやっと足を止めた。
 此の気持ちを想い出として昇華出来るようになるまでには、未だ暫く時間が掛かりそうだ。
 屹度私はその間、暗く寂しい夜を只管に繰り返していくことになるのだろう。
 そんな日々の中で、矢ッ張り貴女だけが、私を照らす唯一の光なのだ。
 
 だからどうか。
 幸せでいてね、なまえさん。

 そう心の中で独りごちて、自嘲するように小さく笑った。
 
 その夜、私は机に突っ伏したまま、窓の外に広がる星空を見上げていた。
 春の匂いがする。もうすぐ桜が咲くのだろう。
 私の心の中にある蕾は、永遠に開くことは無いというのに。
 彼女は今頃、誰といるのだろうか。
 その左手の薬指の指輪は、今日も星空の下で輝いているのだろうか。
 私は、彼女が知らない内に咲かせてしまった私の心の奥底の花弁を、そっと掌で覆い隠した。
 誰にも見えないように。
 私でさえも、無かった事に出来るように。
 明日になれば、また私の名を呼ぶ彼女の声が聞こえる。
 私は屹度、昨日と同じように、精一杯の笑みを貼り付けて、彼女の呼び声に応じるのだろう。
 春風が吹き抜けていく。
 何一つ形にならなかった私の『 』が、冬の終わりを告げる名残雪と共に、夜の闇に溶けていった。


「……さようなら、最愛の人」


誰にも届かないその言葉を、最後にもう一度だけそっと呟く。
 
モラトリアム、それは、猶予期間。
私の『 』が終わるまでの、終わりの無い道のり。
 
静かな夜が、また私を包み込む。
季節は巡る。桜は咲き、そして散る。
私の心の中で散っていったのは、彼女への想いなのか、それとも、私自身なのか。
 星を散りばめた夜空は、明日になればまた突き抜けるような青空へと変わり、そして今日と同じように、春の始まりを告げるのだろう。
 私は、その春を一人で待つ。
 永遠に訪れることの無い、彼女とのハッピーエンドを夢見ながら。
 
 もうすぐ春が来る。

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