7.

中也と2人で喫茶店に行ってから1週間が経過した。
あれから彼には未だ一度も会っていない。

―会いたいけど会うのが怖い。

其れが、今爽子の脳内を占める感情だった。

憂鬱な気持ちの儘何時も通り働いていると、ガラリと戸が開いて中に人が入って来た。


「あ……太宰さん。いらっしゃいませ」

「今晩は、爽。入っても善いかい?」

「ええ、どうぞ」


太宰が此の店に来るのは珍しい。
彼は基本的に別の酒場に足を運ぶ事が多いからだ。


「今日は何をお呑みになりますか?」

「じゃあ、冷酒で。其れと、此れと此れも貰えるかな?」

「畏まりました」


数分後、爽子が注文の品を持って太宰の元までやって来ると、「一寸付き合って呉れ給えよ」と言って御猪口に酒を注ぎ始める。


「否、でも私、仕事が―」

「親父さんに許可貰ってあるから大丈夫」


太宰はパチリと片眼を瞑ってみせてからそう云うと、何時の間にか用意してあったもう1つの御猪口に酒を注いだ。


「……恋患いかい?」

「え?」


唐突に呟かれた其の言葉に心臓が跳ねる。


「いやね、此の前会った時と比べると、随分綺麗になっていたから、若しかして恋でもしているのではないかと思ったのだよ」

「……」


爽子は太宰から御猪口を受け取ると、何処か遠くを見つめながら口を開いた。


「私、判らないんです。自分の気持ちが」

「……と云うと?」

「此の店で働かせて貰ってから直ぐに親しくなったお客さんが1人いらっしゃるんですけど、一度彼に恋人のフリをして欲しい、とお願いした事があって。
彼は其れを快く引き受けて呉れて、寧ろ私をリードしてくれたんです。
今、其れを全然『嫌じゃない』と思って仕舞っている自分に、一寸戸惑ってます」

「成程。要するに君は、其の彼に恋愛感情を抱いているか否か、判らないって事だね」

「……其れは少し大袈裟ですけど、まァ平たく云えばそんな感じです」


太宰の問いに爽子がそう答えると、彼は指を組んでじっと彼女を見つめた。


「ねェ爽、人を『好き』になるって、如何いう事だと思う?」

「え?」


唐突に尋ねられた爽子は、怪訝な顔つきで太宰を見つめた。


「私には判らない……否、屹度判りたくても理解出来ないんだ。私は……心が貧しい人間だからね」


太宰はそう云って小さく笑う。
その笑顔が少し哀しげに見えて、爽子は一瞬何と声を掛けるべきなのか言葉に詰まった。

でも、と彼女は思う。


「……そういうの、良くないんじゃないですか」


爽子はそう云って太宰を真正面から見据えた。


「『心が貧しい』?そンなの此れから如何にだってなります。太宰さん未だ18歳ですよ未成年ですよ人生此れからじゃないですか。沢山の可能性を秘めているのに、そンな哀しい事云わないで下さいよ……」

「……」


突然の説教染みた言葉に、太宰は何度も眼をぱちぱちとさせて爽子を見つめる。

―拙い、一寸云い過ぎた。

爽子が恐る恐る相手の反応を伺っていると、太宰は俯いたまま肩を震わせ始める。

―え、怒らせた?

爽子が更に様子を伺っていると、


「くくっ……あはははっ!」


顔を上げた太宰は、可笑しくて堪らないとでも云いたげな様子で笑っていた。
其れでも始めは口許を押さえて笑っていたのだが、彼は次第に腹を抱えて爆笑し始める。


「えーっと……太宰さん?」

「あはは、御免御免。私に正面からぶつかって呉れる人なんて滅多に居ないものでね。ついつい嬉しくなってしまったのだよ」

「はぁ……」


其れにしても笑い過ぎではないか、と彼女は思ったのだが、口に出すのは控えておく。
暫くして漸く落ち着いた太宰は、目尻に浮かんだ涙を拭ってから爽子の頭にポンと手を乗せた。


「有難う爽。本題からは大分逸れて仕舞ったけれど、久し振りに心にグサリと刺さる言葉が聞けて嬉しかったよ」

「……善く判りませんが、太宰さんの力になれたなら善かったです」

「うん。爽の悩み事は、また別の機会に聞く事にするよ」


仕事中に悪かったね、と云って太宰は席を立つ。


「ねェ、爽」


去り際に、彼は此方を振り返った。


「……若しかしたら、『生きる』っていうのも、少しは善い事なのかも知れないね」


そう呟く太宰の顔は、少しだけ嬉しそうに見えて。

―私も、最近は生きているのが楽しい……のかもしれない。

太宰の後ろ姿を見ながら、爽子はふとそう思ったのだった。


ALICE+