06-10
06
孤独 (こどく)
1 頼りになる人や心の通じあう人がなく,ひとりぼっちで,さびしい・こと(さま)。
2 寄るべなき身。
スーツのポケットに、今しがたコンビニエンスストアで買ったばかりの真新しい真っ白いハンカチを入れて、少し風合いの出てきた革靴を履いて、嗚咽を隠そうともしない女の隣に並んだ。
まだ坊主も来ていないというのに、もうマスカラが落ちるほどに泣いている。
親戚連中は小声で「アレは不幸を呼ぶ女だ」などと言っている、小声なのに聞こえよがしだ。ろくでなしかくありきといったふうな遺影の主は、おれの三番目の親父である。一と二はとっくに死んで、保険屋が怪しむほどに都合良く毎度病気だった。
中には「可哀想にね」なんて声も微か聞こえる。女の境遇を知っていれば、なんの違和感もなくするりと出る言葉だろうに、明け透けな得意顔が気に触る。優しさでも演じている気になっているのだろうか。だとしたらてんで馬鹿げている。
「…母さん」
可哀想、それはそうだ。
愛しては先立たれの繰り返し。この女の愛がどれだけ罪深いかわかる。無実のままで、置いていかれる。
「母さん」
大人げなくしゃくりあげる女の肩にそっと手を置く。ポケットに入れていたハンカチをそっと手に持たせてやると、マスカラの溶けた涙が染みて紫がかった黒がじんわりと浸食する。
「ごめんね、ごめんね」
「俺は別に、いいんだよ母さん」
この女の涙など、もう辟易するほどに見飽きていた。最初こそ、いつか幸せになって欲しいと思えていた。けれど女の愛も、俺の祈りもいつでも裏切られる。
俺の母親は”不幸を呼ぶ女”とかいう、そんなあまりにも俗っぽくカテゴライズできるような可愛いものじゃない。この女は呪われている。不幸に愛されているのだ。幸せを感じる瞬間は少しはある、けれどもすぐに見捨てられ、いつも同じような不幸に犯される。陰気な雰囲気などない、身内からしても華やかそうな女だが、その実、足元はいつも不幸に浸っていた。そして引きずられるのだ、その滲み出る不幸のにおいに、みんな引きずられて、そして去っていく。
「いつも、本当に、ごめんね」
「いいよ、謝らないで」
嗚咽が、聞こえる。
この場にいて、一番不幸に酔っているのは間違いなくこの女だ。喉から漏れる声にならない声は、もう散々だ。聞き飽きた。
呪われているこの女は、ずっと一人で生きていくべきなんだろう。
いっそ沈んでしまえば楽だろうに、可哀想な女だ。息子の俺からしても、そう、この女は紛うことなく可哀想な、不幸な女だ。
どれだけ幸せを夢見ても、足元の不幸を振り払えない。そうしてこの女が見送る側から見送られる側に移る頃、その不幸の沼はきっと、俺の足元にくるんだろう。だが俺は違う。この女とは違う。
この女を見送ったら、俺は一人で生きていく。
07
不感 (ふかん)
1 女性が性交の際に快感を得られない症状。冷感症。
2 感覚がにぶかったり慣れてしまったりして,普通なら感ずるはずの物事に,さして感じなくなること。
クラスメイトはあたしを、幽霊とか、お化けとか、そういう風に呼ぶ。
だからみんな、あたしに微笑むことはない。あたしに触れることもないし、愛することもない。あたしに向けられるのはニヤニヤ笑いの陰口ばかり。先生も見て見ぬ振りがお上手。
つまりね、いてもいなくても同じなんだって、あたしは。幽霊とか、お化けとか、いたっていなくたって変わらないものなんだって。
あたしは、自分の足で自転車を漕いで学校に来て、自分の手でカバンを持って教室まで行って、落書きだらけのあたしの席に座る。机には可愛らしいお化けの絵と一緒に「おまえはもう死んでるのになんでここにいるの?」って書かれてる。机には乱雑な字で「本当にユーレイになったら?」って書かれてる。
だけどね、幽霊でも、お化けでもない、あたしは。有象無象のうちのひとつかもしれないけど、それでもあたしは幽霊じゃない。生きているの、あたし、生きてる。死んでない、何も捨ててない、諦めてない、なのにどうして。
みんな幽霊なんて呼ぶから、あたしが生きてるんだって忘れているんでしょう。だから何を言ってもしても大丈夫だと思ってる。もう死んでると思ってるから、あたしが何も捨ててないって知らないんでしょう。だからどういう風に扱っても大丈夫だと思ってる。お化けなんて呼ぶから、あたしが何一つ諦めてないって分からないんでしょう。だからどんなに追い詰めても大丈夫だと思ってる。
ふざけんなよ。
あたし、死んでない。だから幽霊って呼ばれたら嫌、陰口ばかり言われるのも、ケタケタ笑いで追い詰められて「本当にユーレイになったら?」なんて言われるのも、嫌。
みんな怖いんでしょ、知ってる。だからユーレイ役のつらさを知ってるはずの前のユーレイ役の子まで、あたしを幽霊だって言うの。みんなユーレイになるの怖いんでしょ、嫌なんでしょ。知ってる。
でもね、ふざけんなよ。
怖いのが自分だけなんて思わないでよ。幽霊って呼ばないで。そんな感じなくなった死体と一緒にしないで。心臓すら動いてない、ただ忘れられるものと一緒にしないで。傷付かなかったら、それはもう本当に死んでるんだよ。
あたしの首にロープの痕でも見えるなら、そんな目くり抜いてあげるから言って。あたしの心臓の音が聞こえないなら、そんな耳もぎ取ってあげるから言って。あたしにとどめを刺すなら、そんな口縫い付けてあげるから言って。あたしを幽霊と思うなら、そんな心引きちぎってあげるから言ってよ、ねえ、言って、言え、ほら、ねえ、言えってば、言ってみろよ、ねえ。
08
死 (し)
1 死ぬこと。生物の生命活動が終止すること。
2 死罪。
やっと死ねるんだな、このままこのまま目を覚まさずに、こわいかな、いたいかな、ああ、やさしいひともいたのにな、でもだめだったな、うつくしいひともいたのにな、でもむだだったな、かなしいひと、ああ、ああ、みんなにあいたいな、あいたくない、もうにどとあいたくない、ああ、かなしい、死にたくないな
09
嚥下 (えんげ)
食物を飲み下すこと。
泣いてるんだなって、わかった。
涙は見えないし、嗚咽も聞こえない。表情なんてわからない。けれどわかった。泣いているんだってわかった。
泣いてるんだなってわかったのは、君を見ていると僕もどうしようもなく泣きたくなったから。
ねえ、僕らさ、それでも生きるしかないんだよ。
僕は泣きたかったんだって、やっとわかった。
どこにぶつけていいのかわからなかった怒りも、身を焦がすような絶望も、雨みたいな悲しみも、密室の中に閉じ込めた切なさも、全て僕がどうにか繕った形容だったんだろう。
君を見ていると、僕もどうしようもなく泣きたくなる。だからわかった。僕は本当はずっと泣いてしまいたかったんだってわかった。
泣きたかったのは、君を愛していたから。
ねえ、その後悔もわかるよ、でももう遅いんだ。
同じだったんだなって、わかった。
僕らは決して同じ場所に立っていないし、同じ気持ちも抱けない。僕らは決して同じ人にはなれないし、同じ言葉も話せない。僕らは決して同じ夢は見られないし、同じ絶望も味わえない。でもわかった。同じだったんだってわかった。
僕らは、全く別のことで同じように苦しんで、全く別のことを同じように喜んでいた。僕らの場所も気持ちも言葉も夢も絶望も違っているけど、苦しいのは同じだったんだよ。つらいのも、悲しいのも、腹がたつのも、嬉しいのも、笑いたいのも、泣きたいのも、同じ。
ねえ、僕らさ、寄り添うには十分だと思うんだよ。
真実じゃなかったんだって、わかった。
死にたい、生きたい、惨め、つらい、怒り、かえりたい、かえりたくない、喜び、たのしい、幸せ、見てよ、見ないで、憎しみ、いとしい、悲しみ、戻りたい、進みたい、疲れた、さびしい、やめたい、いさせて、悲しみ、諦め、嬉しい、ひとり、ふたり、切ない、大切、むなしい。
全部、君が言ってた。諦めたいのも、やめたいのも、かえりたいのも、わかるよ。そう思うくらいには苦しかったんだろう。でも、でもね、それらが本心だったとしても、本当に死にたいわけがない。本当に本当の本心から死にたいなんて、そんなこと思う人いるわけないんだよ。そんなことを思う生き物なんかいるはずがないんだよ。
だって僕らは生きているから。どれだけ疲れても、むなしくても、苦しくても、悲しくても、大切な何かを失くしたとしても、本当に死にたいわけない。生きているから、だからね、僕ら、寄り添うには十分だったと思うんだよ。生きているから、だからさ、どんなに道が見えなくても生きるしか道はない。後悔も逡巡も愛惜も、わかるよ、でもね遅いんだ、もう遅いんだ。
わかった。それは真実じゃなかったんだってわかった。
気付いてやれなかったなんて、上から目線な物言いはしない。気付けなかったなんて、頭の悪い自責もしない。
ただ僕は、言って欲しかった。助けて、とか、苦しい、とか、なんでも。本当に本当の本心から、言って欲しかったんだ。一緒に死んでってさ、そのくらいのことは言って欲しかったんだよ。
ねえ、僕らさ、二度と会えないなんて、悲しいと思わないか。
泣いてたんだなって、わかった。
涙は見えないし、嗚咽も聞こえない。表情なんてもうわからない。けれどわかった。泣いていたんだってわかった。
泣いてたんだなってわかったのは、君を見ていると僕もどうしようもなく泣きたくなったから。
泣いてたんだなってわかったのは、君にどうしようもなく会いたくなったから。
ねえ、僕はさ、墓前で手を合わせたって、君はもうどこにもいないんだって、知ってしまったんだよ。
いくら君の名前を呼んだって、二度と君には会えないんだって、気付いてしまったんだよ。
墓石にキスしたって、絶対に君の唇には届かないって、わかっちゃったんだよ。
10
忘却 (ぼうきゃく)
忘れ去ること。忘れてしまうこと。
親友だった奴が死んだと聞いて、久しぶりに故郷に帰った。葬儀ではあまり泣いてる人はいなくて、どうにも作業のような、面倒臭そうな人が多かった。嫌われていたというわけじゃないんだろう、でも好かれていたわけでもない。中にも泣いてる人もいたが、本当に少なかった。
自殺したと聞いた。首を吊って死んだと。そう答えてくれた誰かは、聞いてもいないのにどんなに凄惨な現場だったかも教えてくれた。迷惑そうな口調が隠せていない分、啜り泣いてる奴より好感がもてる。
「あの子より苦しんでる子なんていっぱいいるのに、なんて自分勝手、わがままな子ね」
「かわいそうねえ」
「いい子だったのに」
人の死というものは重厚であるはずなのに、この場のなにもかもが軽薄だった。香と花の香り、坊主の低い声、黒ばっかの人だまり。全部。
他人同士の苦しみを比べるなんてナンセンスだ。自殺した奴をかわいそうなんて聞いてあきれる。勝手に死んでいった奴をいい子なんて表現するのも馬鹿げてる。
迷惑そうにつぶやくのも、いい人面してうそぶくのも、理解者面して嘆いてるのも、軽薄だ。ここは式場なら、ただ故人を悼んでいればいいのだ。
ましてや、誰かの中で生き続けるなんて薄ら寒いうわごとも不要だ。誰かの中で生き続けるなんて、それじゃあいつまで経っても報われないだろ。
ちゃんと殺してやれよ。死にたかったんだから。
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