『結月ったら相変わらず適当だ……』
「本当に危なかったですね。千代ちゃん先輩に電話してよかったです」
『そんなそんな。それに、那月ちゃんにも春到来だね!』
「な、何言ってるんですか先輩!」

 くすくす笑う先輩の声と私の立つ駅のホームの音の違いに多少の違和感を抱いた。
 駅まで向かう帰り道がてら、お姉ちゃんに思い切って電話を掛け、先程の"あの人"の特徴を伝えて見たことがあるかと聞いてみた。結局、電話口でお姉ちゃんが言っていた人物は、私が遭遇した"あの人"ではなく、浪漫学園事務局の山田さん(ちなみにもう少しで定年だそうだ)ということが発覚した。共通点は青いシャツ─というかそれしかないというのにどうして山田さんに繋がったのだろうか。ちなみに情報は千代ちゃん先輩からだ。お姉ちゃんの情報は基本的に何パーセントか嘘が混じっている可能性か高い(適当なことを言ってしまう所もあるから)。念のため電話し確認を取っておいてよかった、もしかしたら一生勘違いしていたかも知れない。

「私、べつに……!」
『でも結月や私に連絡取るぐらいだもん、気になってるよね?』
「え、ああ、その……」

 そう言われると何も言い返せなくなってしまう。途端に黙りこくった電話越しの私の反応に千代ちゃん先輩は苦笑しながら、素直じゃないなあと呟いた。確かにさっきからあの人の事が脳裏から離れないのは事実だ。名前くらい聞いておけばよかったのだろうか──せめてもの救いは、お姉ちゃんや千代ちゃん先輩と同じ学校だということだ。これは恋なのかが自分でも中々理解出来ずにいる。ただ頭の中にあの人の走り去る後ろ姿がずっとずっと居座っているのだけは分かるのだけれど。

『確か、青いシャツを着た茶髪でタレ目、少し小柄な人……だっけ?もし見かけたら教えるね』
「わ、いいんですか?でもその人と仲良くなっても私の事は何も言わないでくださいね!」
『あはは、別に言わないって』
「──あ、電車着たので一旦切りますね。ありがとうございます、千代ちゃん先輩!」
『うん、またね!』

 画面上に現れた赤いマークを押せば、ぷつりと音は途切れて消える。代わりに、微かに聞こえていた喧騒と電車の到着を告げるクラクションが反響した。
 ふわりと前髪が浮き、時計を見る。5時12分──日曜だからか、多くの家族連れやカップルが笑顔で私とすれ違う。中に入っても横一列のシートはほぼ埋まっていたが、丁度私が乗り込んだ右側の端(電車でいう特等席?)が空いていたので、滑り込むように座った。唯一のお隣のお姉さんは頭を定期的に揺らして夢の中だ。銀色の手すりに金色の髪が写る。

『発車致します』

というアナウンスを合図に、電車は小さく揺れながら運行を開始した。駆け抜けていく景色がうつる向かい窓には、ビルに反射したややオレンジがかった青空が広がっている。日が長くなってきた、夏がそろそろ訪れる。

「(ちょっと眠くなってきたな……)」

 景色から目を外す。周囲も背もたれに身体を預け、寝ている人ばかりだ。こういう状況になるとついこちらも釣られてしまうのは何故なのだろうか、人間だからか──少し目蓋が重く感じる。
 なんだかふわふわして心地よい。このまま眠気に預けて──

「んだよ、こっちの電車も、人がいっぱいで座れねーな」
「!」

 突如列車内に響いた無遠慮でガサツな大声。こっくりこっくり船を漕いでいた私も、耳に入ってきたそれに驚いて目が覚めてしまった。さりげなく左右を目線だけで確認し、声の主を探す。

「これじゃあ、床に座るしかねぇなあ。そう思うよな、そこの姉ちゃん!ははははは!」

 ──正直、やはり厄日なのだと思い直した。酔っ払い。私が座っている席から右側の、列車同士を繋げた出入り口付近の床に座り込む男性のことである。所々が解れ、泥で汚れた黒色のジャージを身にまとい、片手には空になったカップ酒が握り締めている。白髪交じりの顎鬚と髪の毛からすると60代、70代であろうか。しかし、まだ夕方といっても5時を過ぎた所、酒を飲んで―─ましてや泥酔をするなど端から見てもよろしくない。
 周囲の迷惑そうな顔には目もくれず、男性は至極幸福そうな赤い顔で立ち上がり、覚束ない足取りでこちらへと歩を進めてきた。時折、スマホを弄る女性や本を読む中年男性に、訳のわからないことを一方的に捲くし立て、相手を困らせていた。じわりと近づく距離に、厄日特有の勘が働いた。嫌な予感がする。

「(どんどん近づいてきた……お願いだからこっち来ないで!絡まれたくない!)」

 早鐘を打つ心臓とずれる足音(あ、眠ったふりをすれば素通りするかも……!)。思いつき途端、きゅっと両目を固く瞑り、太ももの横に置いていたバッグをさり気なく膝の上に置き、両腕で握り締めるような体制をとった。
 ぺたり、ぺたりと足を引きずる音が徐々に大きくはっきりと鮮明になり始める。

「そこの目ェ瞑ってる嬢ちゃん」明らかに私に向けた問い。諦めて目を開けると。酔っ払いは私と向かい合うように地べたにあぐらをかいている。にやっと笑っているが、所々欠けている歯が恐怖を仰いだ「ちょうどいいや、俺ンとこのせがれの孫がよ。今嬢ちゃんと同じなんだけどな……」

 なんということか、話が始まってしまった。予想ではあるが、軽い相槌や返事をしてしまえば、興味を持っているというサインへと繋がり上機嫌で話を進めてくるに違いない。かといって目の前にいる相手に対して無視を決め込める程、冷たくはないし神経も図太くはない。
 良い対策を練れなかった私は、口元が引きつりながら、あはは……と愛想笑いを浮かべることしかできなかった。
 それが仇となったようで、

「──おい!俺が話してんだぞ、返事の一つくらいしたらどうなんだ!?」私の反応に激怒した男性は、細く骨ばった右手を勢いよく床に叩きつけ立ち上がる。
「えっ……あ、すみません……」
「挨拶も返事もできない。情けねェ。最近の若い奴らは、人の話を聞かない奴しかいねえのか!!」
「え、あ……っ、止めてください!返してください!」
「そういうときにしか声を出せないのか?まさか、年長者をこけにしてるのか!!?」
「違います、思ってません!」

 酔いで垂れていた両瞳をこれでもかというほど大きく開き、男性は私の持っていたスマートフォンをもぎ取るように奪い去った。嘘でしょ、頭の中は真っ白で何も考えられない。まさか奪われるなんて。私の講義の声も無視し、男性は奪い取ったそれを左手に握り締めながら、至近距離で烈火の如く怒鳴り散らす。じわじわと、恥ずかしさと些細なことで怒り狂いはじめた男性への恐怖心が湧き上がる。このまま殴られるのではないか、スマホも叩きつけられて壊されてしまったら……、どうして私なのか──今日の運の無さを恨みたい。それに私の耳と頭は爆発寸前だ。じわりと潤む目。
 誰か助けてはくれないだろうか──ちらりと周囲をうかがうと、皆心底安心したような顔つきをしていた。厄介者が標的を絞りはじめたことに対しての安心だろう。おもてなしやら奉仕精神がとテレビでやっているが、いざというときには見てみぬ振りを平気でやる冷たい国なのか、と私は心の中で名も知らぬ人々を罵った。

『次は──駅、次は──────』

 そこで流れる聞きなれたアナウンス―私の降りる駅だ。
 (どうしよう……)豪快かつ一方的に話を進める男性にちらりと目をやる。最寄り駅には降りられない可能性がある。私は長い膝下のワンピースだからよいものの、膝小僧の数十センチ向こう側にはもう真っ赤な顔がある。左は壁、右はこの騒ぎの中未だに夢の中にいるお姉さん。電車が混雑しているからか、お姉さんと肩と二の腕が触れるほどぎゅうぎゅうに詰めて座っている為、目前に居座る男性が退いてくれない限り立つことすらも出来ないのだ。しかし自分から「降りる」そう言えば、更にヒートアップして怒鳴ってくる可能性もゼロではない。
 そうこうする内にゆっくりとスピードを落としていく列車。ああ、どうすれば……!

「なにやってんだ」

- いざ、物語の始まりを


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