途端に、覚えのある石鹸の香りがふわりと漂う。
「──時と場所を考えたらどうですか。公共の場で、人の携帯を奪ってまで説教するアンタの方が、年長者としてみっともないと思いますよ」
「な、なにを」
「以前もこの辺りで女性を怒鳴りつけて、止めに来た駅員さんを殴って警察沙汰になってましたよね。俺そこに居合わせてたんで。あの時は逃げたみたいですけど、これ以上騒ぐつもりなら通報しますよ」
「……くそ!」
彼は携帯を片手に、ひやりとする視線で男性を見下ろした。その視線に私すら心臓を跳ねたが、"通報"──その言葉に身じろいだ男性は、彼に携帯を乱雑に渡しながら別の車両へと逃げていった。
「あ、あの、どうして……」
思ってもいなかった人物の登場に、私は言葉を詰まらせてしまった。そんな、どうして。視界が目まぐるしい速度で明滅するような感覚に襲われ、胸は高鳴り、口はあんぐりと開いたまま──自分の事ながら、随分と恥ずかしい。
茶髪、たれ目、青いシャツ、青いネクタイ。少し小さめだがしっかりした体つきをした浪漫学園の生徒。私がもう一度会いたいと思っていた人が今、目の前にいるではないか。同じ電車に乗っていたなんて、なんという偶然だろう。
じっと見ていた私の視線に気がつき、安心させるようにふわりと微笑むと、大きくて無骨な手がゆっくりと私の頭を撫でやった。ああ。この人の手はとても暖かい。そして、恐怖でいっぱいいっぱいだった心を一瞬で溶かしてくれた、私のヒーロー。
「もう大丈夫だ。怖くないからな」
「────は、はい……はい……!!」
その優しげな声が切っ掛けに、徐々に視界が水に呑まれたようにぐちゃぐちゃと色が交わっていく。怖かった、恐ろしかった。周囲にいた人々の"赤の他人"であるからこその冷たさも恐ろしくて、自分は臆病だからそれらを打破することはできなくて。でも、でも、この人は助けてくれた。
ぽたぽたと零れ落ちる涙は冷たいけれど、頭の上の熱は誰よりも柔らかな暖かさを感じたのは、きっと私だけでいい。
***
「あのおじいさんは前にもお客さんと口論になってね。その時も泥酔していたみたいで、止めに入った駅員さんを殴って──」
最寄り駅なのだが、見慣れずに入ったこともない駅員室。その一角で、私と先輩(明らかに歳上なのでそう呼ぶ事にした)で駆けつけた警察官の1人、横山さん──警戒しないように先に名乗ってくれたのだ──に事の顛末を詳細に話していた。結局、私を助けてくれた先輩はすぐさまに警察へ通報。この駅には交番が隣接しているという事もあり、怒鳴り散らしたおじいさんは逮捕された。その後私達は駅員さんに連れられ、冒頭のように駅員室で事情聴取となったのだ。
「学生証は見せてもらったけど、名前は瀬尾那月さんであってる?」
「……は、はい」
「怪我とかはないけど、お父さんとお母さんに連絡させてもらって、迎えに来てもらうようにするからね」
「は、い……」
しかし、恐怖が残っているのか横山さんからの質問に対しての返答が否が応でも口が震えてしまいうまく話せずにいる。頭の中ではきちんと文章を繋げるのだが、口を開けば思うように紡ぐことが出来ない。横山さんは慌てなくていいよ、と私のペースで話を聞いてくれたのだが、震える声でようやくはいと呟ける程度というのがもどかしく恥ずかしい。怒鳴られ竦み上がってしまった自分の弱さにも嫌気が差した。
「ありがとう。じゃあ次は君ね。学生証提示してくれるかな」隣で私と横山さんのやり取りを見ていた先輩は胸ポケットから取り出し、渡す。
「浪漫学園の2年生の、堀……政行さんでいいかな?」
「はい。合ってます」
堀、政行──すとんと言葉が胸に落ちてくる。あの人の名前は、堀政行、ほりまさゆき──じわじわと胸を焦がしていく嬉しさと僅かな罪悪感。彼をみるとどうにも私らしくいられない。何をしていてもその姿はきらきらと輝いているように見えてしまう。きっと、会ったばかりの私からこんな風に思われているなんて、想像もしていない事だろう。
「ありがとう。瀬尾さんにも聞いたけど、君からも事件の流れを聞いていいかな」
「はい。俺も彼女と同じ車両にいました。元々、ショッピングモールのフードコートでお互いにぶつかってたんです。それで見た事あるなって思ってたら、隣の車両からあのじいさんが──」 ちらりとのぞき見た堀先輩の顔はやけに凛々しく、目が離せなかった。
***
ちりん、と風鈴が鳴いた。室内の一角に置かれた扇風機が、私の髪の毛を攫う。
先程、横山さんは駅員さんに伝えたいことがあるから一言残し、此処を出ていった。必然的に堀先輩と私だけの空間になった部屋はやけに冷房が効いていて、首元がやけに冷えていた。時計はもうすぐ6時半を指す頃──あと五分しない内に両親が迎えに来るだろう。
周囲を見渡すふりをしながら、近くの椅子に腰かけている先輩を見やる(私は何度盗み見すれば気が済むんだろうか)。先輩は何食わぬ様子でスマホを操作している。そうだ。元々、私と先輩は今日が初対面であって、知り合いという訳ではない。故に今もお互いに無言。話題を知らないが為に発生しているこの静けさがやけに悲しかった。
でも、話したい、先輩と話したい──我儘な感情がこの身を支配する。
「あの、堀……先輩。今更ですが、助けてくれてありがとうございました」緊張で震える声を必死に押さえつけ、話しかける。気付かれてはいないだろうか。
「ん?ああ、別にいいって。怪我とかなくて安心したし。しっかし、俺も驚いたんだぜ?ぶつかった奴と再会するなんてな」
「わ、私もです!でも、私も、わたしも……わっわたしはせ、せせ……」
堀先輩に出会えてよかったとそう伝えたかった。しかし口だけは動いたが、肝心の声は恥ずかしさと共に外へ出る前に消え失せた。それに、会うのが初めてなのにそんな事言って引かれたら困るだろう。私がもし言われたら嬉しくてどうかなってしまうけど!と脳内で葛藤をしていると、目の前の先輩が肩を震わせ何かを我慢している姿が見えた。
「っはは、お前……流石にどもりすぎだろ。ふ、何言ってるか全然分かんなかったわ……!とりあえず、落ち着け……くく」
「ええ、先輩そこで笑うんですか?!」
先輩が笑っている。先輩が私と話して笑顔になってくれている──それが瞳に焼き付いて離れない。もどかしくもどうにもならない胸の痛みが少しだけ辛い。もっと、もっと、もっと!先輩と距離を縮めたい、話したい、仲良くなりたい。先輩に私という存在を見てほしい。そうすればきっと私の胸の痛みは治る──
「(認めます、千代ちゃん先輩)」
私は堀先輩に一目惚れをして、助けてもらって更に先輩を好きになってしまったのです。じわじわ身体中に拡がる暖かさは先輩に対する気持ちなのだと、そう感じられる。
ならば、私は──先輩に忘れられないように。
「先輩」
「ん?」
「あの、私……まだ中学3年生で、先輩から見ればまだまだお子様です。子どもです。でも、今日あったことは忘れないし、必ずお礼させてください……!」
「だから、別に──」
「私が嫌なんです!ここでただ普通にさよならしたら、先輩は私のことを忘れちゃうから、そんなの嫌だから……」驚いた先輩の顔が見える「私、絶対に浪漫学園に入学します。だから、私のことを覚えていてください!」
待っていてください、という言葉は烏滸がましい。でも、この気持ちが恋じゃないなら、きっと世界に恋はないから。私は貴方の青い背中を追いかけて行く。