あくまで正気です

前世の記憶だとか転生とかそんなオカルトチックな話を信じている人は少ないと思う。
かくいう与だってそんなもの信じていなかったし、生まれ変わってもそれはもう別人で自分は自分でしかないのだから、今の人生を謳歌するだけだとしか考えていなかった。だから今を目一杯生きよう、自分にとって楽しいことばかりやっていようと考えていたことに気付いて神様が怒ったのだろうか。
授業も部活も終わり、日もとっぷり暮れた夜。部活仲間と別れて自宅に向かっている際に与は知らない人物に突然刺された。無論、武装も何もしておらず、護身術だって身に付けていない一介の男子高校生でしかない与は防御も何もできずただ刺されるしかなかった。包丁らしき刃はずぶずぶと与の身体に沈んでいき、柄まで辿り着いた瞬間にその人物の手は離れた。そいつが誰だったのか顔を視認するまでもなく与は崩れ落ち、猛烈な痛みの元凶の包丁の柄に手をかければ頭上から声が聞こえた。

「ふ…ひ、ひひっ…気付いてくれない与くんが悪いんだ…ずっと、ずっと見てたのに…与くんが…」

男性とも女性とも取れるような中性的な声だったし、暗がりだったから結局自分を刺した相手が男か女かもわからなかった。それ以上に傷口からの痛みが酷くて変な汗もかき始めて正気を保つどころの話じゃなかった。
あれ。でもこういう場合って凶器は抜かない方が良いんだっけ。そんなことをぐるぐると考えていれば自分を刺した人物はどこかへ逃げ去ってしまった。とりあえずスマホを、とポケットを漁り取り出してみたが指がうまく動かない。しかもこの時に限って指紋認証が上手くいかず、パスワードの入力を求められた。
最悪だ。緊急連絡しかないと思って、緊急連絡先の家族へ電話をかけようとするが、指がもう動かなかった。刺された箇所からはどくどくと血が溢れているし、起き上がる力なんて残っちゃいない。おまけにここは田舎で、人通りも少ないから誰かが通りがかってくれるのも望み薄だった。
そうしているうちに、まるで眠りに誘われるように瞼が落ちていく。このまま眠ったら取り返しのつかないことになると理解しているというのに、微睡みのような心地よさで意思とは反して瞼が落ちる。
電話のコールがかかったところで、与の意識は完全に落ちてしまった。

◇◇◇

次に目覚めた時には与は知らない女性に抱きかかえられていた。
まるで赤子をあやすようにゆらゆらと揺れる彼女の腕はまるで揺り籠のよう。しかし自分は男子高校生で、どんなに体格の良い女性でもそんなことができるはずがない。
そう思って自分の手を見てみれば、ふっくらとした小さな紅葉のような手をしていた。
まさかと思い声を発してみれば「あ」とか「う」としか声が出ない。というか言葉にならない。それに女性は柔らかく微笑んで何事かを喋っていたが、赤子となっていた与にはそれが聞き取れなかった。
しかし、それ以上に気になったのは"線"だった。
与が見渡せる限りのあちこちに歪な形の線が書かれている。子どもが落書きしたかのように真っ直ぐに引かれていない線は、よく目を凝らすと赤くて時々脈打っていた。それは物だけでなく自分を抱く女性にも見えてしまい、与は感情のコントロールができず泣き出してしまった。女性は困ったようにあやしてくれたが、何度見ても線は消えてくれない。
与にはそれが気味が悪くて仕方なかった。
成長して幼稚園に通うようになると、与は自分の世界に見える"線"のことを母親は買い物に出掛けていて不在だったので父親に打ち明けた。父親はそのことを聞くと珍しく驚いた顔で「…そうか」と一言だけ言うと与の頭をぐしゃりとひと撫でして煙草を吸いに外に出てしまった。
小学校にもうすぐ上がれるという頃、与に弟が出来た。名前は恵。弟の誕生に大喜びしたのも束の間、母親が天へ旅立ってしまった。それが切欠になったのか定かではないが父親が荒れてしまい、家を空けることも増えて恵の世話をほとんど与がすることになった。幼い弟にも見える線に与はいつも泣きそうだしてしまいそうだった。
すると今度は父親が知らない女性を連れて来て再婚し婿に入ると言い出した。合わせて与と恵の苗字も変わり、伏黒となった。
新しく母親となった女性には連れ子がおり、名前を津美紀と言った。恵よりも年上で与よりも年下のその女の子は与の妹になった。津美紀は急激な環境や家族構成の変化にもめげず優しい子でありながら芯もあり、与にもすぐ懐いて良い妹になった。当然、与は恵と同じくらいの愛情を津美紀にも注いだ。可愛い妹にもやはり線は消えてくれなかった。
もうすぐ中学生だという頃に、今度は人間ではないものが見え始めた。それは人の負の感情を寄せ集めたように気味の悪い出立ちをして、意味のわからない言葉を喋った。小さい奴らだと与を見つけると大抵は怯えるように逃げてしまうが、それよりも大きいものはじっと与を見つめてくる。
通学中にも見かけるようになり、景色も人も線だらけで与は相当精神的にも限界が近かった。これが外の世界だけならまだしも、家の中や妹や弟にまで見えるのだ。明らかに憔悴していく与に津美紀と恵は心配したが、与は何でもないといつものように笑ってみせた。最早呪われてるんじゃないかと与は自暴自棄になりかけていた。
そうしていよいよ中学生間近。父親が再婚相手を連れて蒸発した。アパートの中には与と津美紀と恵と両親が残した少ないお金だけが取り残された。まだ小学生の弟と妹を働かせる訳にはいかず、与は中学生に上がったら勉学にも打ち込んで奨学金を貰って、年齢を偽ってでもバイトしよう。そう決めて下校した矢先に恵に訪問者が現れた。
誰もが目を引く長身に、銀髪と真っ黒のサングラスが印象的な男だった。制服を着ているからまだ学生なのだろう。少なくとも与の知り合いにあんな奴はいない。与は慌てて長躯の男と恵の間に割り入った。

「どっ、どな、どなたですかっ」

急いで来たので声がどもってしまったが、まだ小学生の弟に用があるなんて普通じゃない。恵を庇うように男の前に立てば、男はぽかんと口を開けた。

「あ。君、もしかして伏黒与くん?」

何で名前を知ってるんだ。そう思った瞬間、与の脳内ではカチリと様々なピースが嵌まるように大量の情報が駆け巡った。
蒸発した父親の名前。甚爾。禪院。伏黒。恵。津美紀。呪い。銀髪。サングラス。渦巻のような独特のデザインのボタン。真っ黒の制服。
この世界に生まれ変わる前に見かけたことがあった。正確には"読んでいたことがある"が正しい。周囲はその話題で盛り上がっていたが、与はあまり漫画やアニメというものに興味が無く、友人が楽しそうに話しているのを見れるだけで充分だったが、友人が好意で貸してくれた漫画があったのだ。
そしてその漫画の最新巻を借りたあの日に、与は刺された。どくどくと心臓が嫌な音を立てている。

「君の弟くんに用があったんだけど、君にもあるんだよね。用」

1秒にも満たない速度でパズルが組み上がっていくような錯覚。
与はまさか、と引き攣る表情で冷や汗を垂らした。

「君さ、視える人間でしょ」

ここ、もしかして呪術廻戦の世界じゃね。

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