運命へようこそ

友人が好意で貸してくれたその漫画は端的に言えば面白かった。
本屋に行けば話題作ということで棚の半分がその漫画と関連書籍で埋まるほど大々的に宣伝されていたし、単行本の帯を見ればTVアニメ化決定の文字が見えたから世間では流行っているということが漫画やアニメといったサブカルチャーに疎い与でも理解できた。漫画を貸してくれた友人と共通の話題で盛り上がるのは楽しかったし、その漫画の大ファンであるその友人が嬉しそうに語ったり与に感想を求めたりしてくるのが何より嬉しかった。
だが次、そのまた次と借りていくうちにハラハラするような展開が続き、与はこう思った。
この漫画、人死にすぎじゃない?
思えばタイトルからして「友情・努力・勝利」を全面に出すような正統派なバトルものではないことは容易に想像できたし、作中で何度も登場する「呪い」「死」というワードから嫌な予感は薄々していたのだ。すると、フラグ回収と言わんばかりにこの人は生きててほしいと思っていた人物がいとも簡単に次のページで死んでいる、なんてことはザラになるようになった。これには与の精神もゴリゴリに削られていった。だが面白かったので漫画は借り続けた。
その世間を賑わせた呪術廻戦の世界に今、自分がいると認識した与は目の前の男が重要な人物であるということはすぐさま理解できた。でもそれ以上のことは思い出せなかった。そして、なぜこの男───五条悟がイレギュラーどころか異分子である自分を知っているのかも理解できなかった。
そして何より、この男には"線"が見えなかったのも与を混乱させた。
この世界で十数年間生きてきて線が見えないものなどなかった。それは生物も非生物も、そしてあの化け物も例外なく赤黒く脈打つ"線"と"点"が見えたというのに、この男には見えなかった。つまり、この人は自分では"対処"できない。
それを理解した途端、線が見えることが常識になりつつあった与に得体の知れないものを目前にした時のような恐怖が襲った。

「恵、下がって」
「与……?」

恵を下がらせて、そろりとズボンのポケットに忍ばせていた「それ」に手を伸ばす。これは対化け物用で護身の為にこっそりと持ち歩いていたものだが、大事な弟に手を出そうとするなら相手が何であっても容赦はしない。前世の十数年とこっちの十数年を足せば自分は精神的にであるが相手より年上だし、知識を総動員すれば小学生の身体でも動けるはずだ。今の与にはそれに精一杯で、後ろで戸惑う弟の声は耳に入っていなかった。

「……へぇ。小学生がそんな物騒なもん持ち歩いてていいの?これってアレでしょ。銃刀法違反ってヤツ」
「……やられないようにするには、これしかなかったんだよ」

まだ小学生だというのに登校や下校中に何度もあの化け物達に襲われそうになったことがあった。黒い澱みのようにどろどろとして、中には形を保っているけど明らかに人間ではないそれが人の言葉を真似て喋ったりする様子は酷く気味が悪く、与はいつも走って逃げて家と学校の行き来をしていた。
しかし学校に着いてもそいつらは与を見てくるのだ。学校の教室の窓の外から、廊下の窓の外から、グラウンドの外から、赤黒い線を脈打たせながらどこまでも与を視線で追ってくる。
だから何度も襲われかけるようになってから与は護身用にバタフライナイフを持ち始めた。誰にも見られないように、大事な妹と弟にも知られないように、こっそりと。
はじめは文具用の鋏を持っていた。キャップを付けて持っていれば誰にも怪しまれなかったし、持ちやすかった。けれど襲い来る化け物を退治すると簡単に一発で壊れてしまった。けれどまさか包丁を持ち歩けるわけもないし、カッターもすぐ刃が折れてしまった経験から新しい鋏を何度も買い直して化け物を退治して命からがら登下校を繰り返していた。
そこでわかったのは、あの赤黒く脈打つ"線"に沿って切ったり、"点"を突くと化け物はあっさりと消滅するということだった。最初からそこに何もいなかったように。
力は要らない。強靭な筋力も、特別な手捌きも何も必要無かった。ただ文字の練習のように、ただその"線"をなぞっていけばあっさりと化け物はバラバラになって跡形もなく消滅する。そしてその線は道路や電柱、建物などの周りの景色にも、人にも見えることを思い出して与は強い恐怖心と頭痛に襲われて一瞬だけ気を失ったことがあった。
それから人の顔を、目を真面に見られなくなった。顔を上げることも難しくなった。なのに変わらず化け物は次々と与に襲いかかって来る。
憔悴しきって精神的にも摩耗していた与にも死にたくないという人並みの欲求はあった。死なない為に、化け物を撃退するためになけなしのお小遣いで買ったバタフライナイフを取り出して、恵を守る為に久しぶりに顔を上げて目の前の五条悟を睨んだ。
真っ黒なサングラス越しに視線が合った気がした。

「うわあ。やっぱその歳からロクでもないもん持ってたんだね。普通の人間なら発狂レベルもんじゃん」

そう軽口を叩く五条にやはり"線"は見えない。それどころか"点"も見えない。
違う。非常に薄くだが点も見えるし線も見える。そこを狙えば、或いは。
点と線をよく見ようと目を凝らし、それらを注視した瞬間。

「っい゙、あ……ッ!?」

酷い頭痛が襲い、立つことすら難しくなった与はその場に崩れ落ちた。カラン、と刃の出されることの無かったバタフライナイフが五条の足元に投げ出される。五条はそれを拾い上げた。

「普通でも発狂レベルの代物なのに、出力を引き上げようとするとそうなるに決まってるでしょ。というか、今すぐにでも脳がやられてもおかしくないんだからね、ソレ」
「おい、与!与……ッ!!」

痛みにのたうつ与に恵が駆け寄る。必死に呼びかけるが与の耳にはその声は届いても脳に届いていなかった。
脳が今すぐにでも焼き切れそうに加熱している。それと連動するように眼球が熱い。痛い。吐き気がする。今にでも血管がはち切れそうにどくどくと血管が脈打っている。脈打つ度に血管が破れるのではないかという恐怖が与を襲う。身体中の血管が沸騰しているようだ。
そして遂に、痛みと恐怖に耐えられなくなった与は意識を失った。バタフライナイフをポケットにしまった五条が、ひょいと軽い荷物を運ぶように与を肩に担ぎ上げた。無論、それを黙って見ていられない恵が抗議する。

「おい……ッ!与に何をするつもりだ!」
「何って、今まで受けたダメージを治してもらうんだよ。君もとっくに気付いてたんじゃないの?与の状態にさ」
「……っ」

聡い恵は与が日を増すごとに憔悴していくことに幼い頃から気付いていた。そして最近は自分達の目も、顔すらもちゃんと見てくれないことに。そしてそれはきっと津美紀だって気付いている。
けれど与がいつも言うのだ。「大丈夫」「心配しないで」と。口封じのように念入りに。自分のことだけ考えていてと。親もいない、頼れる身寄りもいない、お金も無い。そんな自分達を与が必死に支えてくれているのを知っていた。けれど与よりも非力な自分達では与を支えることもできなかった。そして、与の内面で燻る問題は今すぐどうにかできるものではないことも理解しているから、恵は歯噛みした。

「……与を、治せるのか?」
「勿論、治せるとも。それどころか前より元気に強くなって君達の所に帰してあげられるよ。時間はかかるけど」
「……」

恵は幼いながらも賢い頭脳で熟考した。五条の言うことに嘘を感じられなかった。この男に任せておけば与は必ず元気になることもわかった。
けれど与と離れたくないのも本音だった。元気になる。わかった、嬉しい。時間はかかる。わかった。でも、それはどのくらいなのか。いつまで離れられなければならないのか。与の問題はたった数日で解決できるものではないと恵にはわかってしまった。与を預けた方が良いという脳内で導き出された答えと、寂しい、離れたくないという幼心が恵の中で競り合っていた。
結論、自分ではどうにもできないという答えに辿り着いてしまって悔しさで拳を握る。数十秒か、数分後か。その重たい口を開いた。

「……与を、頼む」

与がこれまで自分達のことを第一に考えてくれていたのなら、今度は自分が与の為に与のことを第一に考えて、与の為になることをすべきだ。彼を救うには自分の力ではどうしようもないことに悔しさを感じずにはいられなかった。
俯く恵の頭に大きな掌が乗せられる。

「オッケー。後は任せなさい」

◇◇◇

「……という訳で、これからビシバシ鍛えていくからよろしく」
「何が『という訳で』かわかんない……」

次に与が目を覚ました時には学校にある保健室とそっくりのな部屋のベッドの上だった。否、そこは確かに保健室だった。だが与の通う小学校のものではない。
そして与が相対していたはずの五条悟が椅子に腰をかけてこっちを見下ろしていた。柄が悪そうに背もたれを肘掛けにして。何が何だか状況が掴めない与は薄目のまま五条を見上げる。相変わらず彼だけ風景から切り抜かれたように"点"も"線"も見えなかった。

「君の状態なんだけど硝子曰く、もうすぐで脳が焼け爛れるところだったんだって。いやぁ、ギリギリセーフ。間に合って良かったよ」
「……はぁ……」
「にしてもロクでもないねぇ、その眼。いつから視えてんの?」
「……生まれた時、から」
「うっわぁ、御愁傷様。よく正気保ててたね、偉い偉い」
「……」

徐々に思い出せてきた。下校中、もうすぐアパートというところで恵とこの人が話しているのが見えて割り込んで、撃退しようとして酷い頭痛に襲われて気を失った。そして目の前の男、五条悟。そして自分の弟や妹も漫画の中の人物であり、ここはその漫画───呪術廻戦の世界であるということを。
どうやら誰かが回復してくれたらしいが、与には何もやる気どころか起きる気力すら湧かず、ぼーっと五条を見上げていた。

「……えっと、名前、なんでしたっけ」
「あれ、言ってなかったっけ。五条悟」
「……俺は」
「知ってるよ。伏黒与でしょ」
「……何で、知ってるんですか」

そこが不可解だった。自分は漫画を読んでいたから五条悟のことも、伏黒恵のことも、そしてこの世界の主人公の存在のことも。けれど与の読んだ漫画の中に「伏黒与」という人物は存在していない。伏黒恵と伏黒津美紀に兄は存在しない。伏黒甚爾に恵以外の息子は存在しない。そのはずなのに自分は伏黒甚爾の息子として、伏黒恵の兄として生まれている。
そして与は五条悟とはあの時が初対面だ。五条が何かしらの手段を使って自分のことを調べていたのなら話は別かもしれないが、なぜ自分は五条悟にここに連れて来られたのだろう。

「……んー、まぁ、それは追々」

一番知りたいことをはぐらかされた。視線で抗議するようにジト目で睨んでいれば「おー、コワイコワイ」と笑われた。ムカつく。

「それよりいつまで僕のこと見つめてくんの?何?好きになっちゃった?」
「なるわけねーよスカポンタン。……あんたを見ているのが、一番楽だから」

この"線"だらけの世界で五条だけ線も点もほとんど見えないのが唯一の救いだった。これが本当の当たり前だったんだ。前世では普通だったことが、この世界に生まれ落ちてから普通ではなくなっていた。毎日毎日、精神を擦り減らして生きて、化け物を退けて、登下校すら命懸け。忘れていた当たり前に思わず視界が滲んでいった。

「……結構参ってたみたいだね。ま、そりゃそうか。そんなもん持って生まれてきたらねぇ」
「……?もしかして"線"のこと、知ってる……んですか?」

思わず涙も引っ込んで縋り付く思いで五条に尋ねた。
世界中に見える"点"や"線"のこと。その線をなぞればいとも簡単にあの化け物を倒せること。そして、なぜそれらが与に見えるのかを。

「……いや、残念だけど僕にはその"線"とやらは視えない。でもその"線"が視える君の眼については多少教えられることはできる」
「……!」

その言葉にハッと目が覚めた。同時にがばりと気力が瞬時に戻ったようにベッドから起き上がる。藁にも縋る思いだった。

「教えて、ください……!」

◇◇◇

五条曰く、あの赤黒く脈打つ線は"死"なのだという。
正確には死にやすい線。与の眼は、生物や非生物問わずその死期を視覚情報として捉えることができるのだという。そしてそれは眼と脳がセットになって初めて視えるものだということも。だから脳がやられるだの、焼け爛れるなど言われていたのだ。小学生の肉体となった与でも化け物を退治できたのは、死が視えていたから。五条が「発狂レベルもの」だとしつこく言っていたが、まさにその通りだと思う。
そして、与の行く先々で遠目から与を眺めていたり、襲ってきたりしていた化け物。あれが呪いだった。形をもったものは呪霊と呼ぶらしい。五条がついでに説明してくれたが、そういえば漫画にそういう説明があったな、と与は五条の話を聞く傍ら徐々に記憶を取り戻していた。
以前から気持ち悪いと思っていたが、呪いならば納得だ。漫画、もとい紙面で見るより断然気持ち悪かった。あんなものが実在してる世界になんで転生してしまったのかと頭を抱えた。
"この漫画、人死にすぎじゃない?"
前世で漫画を読んでいた時の感想が今になって思い出される。どうせ転生できるならもっと平和なところが良かった、と思ったが生まれ落ちてしまったものは仕方ない。
でも、記憶を忘れていた時も思い出した後も、死にたくないという気持ちは変わらない。そして、恵と津美紀を守りたいという思いも変わらない。
自分の眼と脳のことはわかった。でも、その後のことはどうすれば良い?このままでは以前と何も変わらない生活が待っている。与は不安げながらも真摯に尋ねれば、五条はにんまりと笑った。

「だから言ったでしょ。『これからビシバシ鍛えていくから』って。与が生きられるように、色々教えてあげる」

つまり自分の死にたくないという願いも、弟と妹を守りたいという願いも叶えられる強さが手に入るかもしれないということだ。与の眼のことはどうしようもないらしいが、対処する術も教えてくれると五条は言った。ただ、厳しい修行になるとも。
子どものようないい加減な態度も目立つが、この人は強い。その人柄を前世で読んだ漫画というズルとも取れる知識で知っている与は、素直に五条の言葉を受け入れた。

「……!はい、頑張ります!」

五条はもう「最強」に近い存在になれているから、与が忌み嫌う"線"が見えなかったのだ。久しぶりに人の顔も、姿も真面に見れたことが嬉しくて思わず泣いてしまいそうだ。早く当たり前を取り戻したい。そして胸を張って家族のもとに帰りたい。
だからこの人について行こう。どんなに苦しくて厳しい修行にも耐え抜いてみせよう。そう意気込んで与は精一杯返事をした。

「あっ、そうそう。代わりに下手したら多分10年近く弟妹に会えないと思うから。そこんとこもよろしく」
「えっ?」

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