ふたりきりの世界に足らない一夜

任務中に突如実家から連絡があり、どちらの仕事も終わらせてくたくたな身体で高専に戻れば既に日は沈んでいた。
この後報告書を書き上げて提出しなければならないのに、スケジュールに予定外の仕事をいきなり振られた事で蓄積した疲労と、抵抗された時についた刀による切り傷のじくじくとした痛みが原因で今日中に提出出来るか既に不安が付き纏った。
まずは硝子さんの所に寄りたかったが彼女は年中忙しい為、致命傷でもないのに彼女のお世話になるのは気が引けた。只でさえ普段から心配をかけさせてしまっているから尚更。
傷の数は多いが一つ一つは深くないからそこまで痛くないし出血も多くない。が、何より疲れた。校内の階段を上っている途中で踊り場に座り込む。さっさと報告書を提出したかったのだが少し休憩したい。項垂れて小休止しているとコツ、と背後から足音が聞こえた。

「律さん」

頭上から穏やかな声が降りかかる。顔を上げて振り返ろうとしたがその前に肩に手を置かれて制された。すぐ後ろで彼、乙骨くんが私と同じようにしゃがんだ気配が音でわかった。何をするつもりなのだろう。疑問に思いながらも彼の言う通り後ろは見なかった。

「あ、こっち向かなくて大丈夫です。お疲れのようですし」
「……乙骨くんはどうしてここに?」
「何となく、律さんが来ていそうだなぁって思って。そうしたら本当にいたのでびっくりしました」

そう言うが驚いている様子は微塵も感じられなかった。暫く沈黙が続いたが私は言葉を発する気力も今は残っていなかった。何を話せば良いのかもわからなかった。
誰かに話を聞いてもらいたいくらいの鬱憤が私にだって溜まる事はある。今日は家からの”仕事”、これが私に多大なストレスを与えていた。
けれど私の実家も、私だけに割り振られている仕事の内容も知っている人間はかなり少ない。内容も内容なだけにうっかり生徒に漏らす事は決してしてはならない事だった。
五条さんも硝子さんも忙しいから、もう今日はこのまま消化不良で終わるしかない。悶々とした気持ちを抱えたまま報告書を書くしかない。重たい溜息を思わず吐くと乙骨くんが心配そうな声色で発した。

「律さん、血が……」

そう言ってはっと小さく息を呑む音が聞こえた。私の服も彼と同じように上が白い為、汚れが付着するととても目立ちやすい。けれどこれは上着で中にシャツも着ているし傷も浅いものばかりで少し深い傷は応急処置も済ませている為、切り傷からの出血が表まで滲み出ている箇所は少なかった。しかし白い上着の正面にべっとりと染み込み変色した血は何の、誰のものなのか。
彼は何か言いたげな様子だったが暫く沈黙が続いた。すると何を思ったのか壊れ物を扱うような柔らかな手つきで私の手を掴み、労るように手の甲からぎゅ、と優しく握り込まれた。

「怪我はしてませんか?」
「……少しだけ。でもそんなに大層なものじゃないよ」
「家入先生の所には?」
「報告書書かなきゃいけないから……まだ」
「あ、そっか……お疲れ様です」

ぽつぽつと力無く返事をしても乙骨くんは会話を続けようとしたのか律儀に返してくれた。こうして蹲っている間も報告書の期限は近付いている。立ち上がろうと思っても身体が思うように動いてくれない。それに今更切られた箇所がじくりと痛んできた。血も滲み出ているかもしれない。
すると背後からほっ、と一息ついたような、安心したような吐息が聞こえた。

「でも良かった」
「……?」
「律さんが生きて帰って来てくれた」
「……ありがとう。乙骨くんは優しいね」
「こんなの普通ですよ。でも僕は、優しくなんかないです」

彼は入学当初は自分に自信が無い子だったからまた謙遜かな、とうつらうつらとしてきた頭で考えていると突然身体が淡い光に包まれた。驚いてぼんやりしていた意識が覚醒する。
これは、反転術式による治癒の光だ。身体中についた細かな傷が忽ち治っていく。薄暗い階段の踊り場で座り込むこの2人で私だけが柔らかな光に包まれ、その恩恵を享受している。

「こうして真っ先に律さんを見つけて、律さんの傷を治せるのは僕だけの特権だと思ってるような男ですから」

光が収まり驚いて振り返れば乙骨くんの優しげな瞳と目が合う。彼はにこりと微笑むと手を繋ぎ直しすっと立ち上がった。
突然の事でよろめきながらも乙骨くんに支えられながら立ち上がる。脚がまだ覚束ない。だが彼は階段の近くは危ないから、と私のペースに合わせて安全な場所へ優しく導いてくれた。何だか、お嬢様扱いでもされたかのような感じで気恥ずかしい。そんな少しの羞恥心を感じただけで頬に熱が集まるのがわかった。

「大丈夫ですか?」
「……うん。もう大丈夫」

頬の火照りは気の所為だと自己暗示をかけて必死に落ち着かせる。流石に身体にはまだ怠さは残っているが、これ以上は生徒の目の前で情けない所を見せられない。でも踏ん張る活力は湧いてきた気がする。もう少しだけ頑張ろう。逆に言えば今日する事は後は報告書を書く事だけなのだから。
乙骨くんのお陰だ。ありがとう、と感謝を述べてそっと手を離そうとしたが彼は離す素振りを見せなかった。

「乙骨くん……?」
「僕はまだ学生だし、あまり頼りにはならないかもしれないけれど」

手を取られたままぎゅ、と強く握り込まれる。痛くない、けれど私からは振り解けない強さで。

「律さんの為だけの休憩場所くらいにはなれますから」

いつでも来てください。そう言って笑った彼は先程までの強さが嘘のように力を緩めた。その拍子に咄嗟に手を引いたが、彼の手はどこか名残惜しそうに暫くそこに留まっていた。
今度こそ「ありがとう」と感謝の言葉を伝えて本来の目的を達成する為にその場を後にする。少し薄ら寒いと思うのは気の所為だとそう思い込んで。
「いえ、自分の為にやってるだけですから」去り際、私を見て緩く笑う彼の目に鈍い光が見えた気がした。

eclipsissimo