日暈

呪具を振るって残り一体の呪霊を祓う。呪霊は断末魔の叫びを上げると呆気なくその姿が消えた。
事前に補助監督から聞いていた情報で寂れた商店街に二級相当の呪霊が出現したとの話だったので一級の私が割り当てられ、同行者に伏黒くんが加わった。結果、大きな負傷も無く目当てらしき二級呪霊も祓う事ができ、離れた場所で他の呪霊を祓ってくれていた伏黒くんと合流する。

「伏黒くん、怪我は?」
「無いです。律さんの方は」
「私も大丈夫。気配も他に感じないし、今回はこれで終わりかな」

補助監督の待つ車へ戻る為、帳を上げる。万が一非術師の目に触れないよう呪具もしまって歩き出そうとしたその時だった。

「律さん!!」

伏黒くんが私の名を呼び終えるまでに呪具を再び抜いて振り向きざま呪具を振るう。帳を上げてしまったが先程祓った呪霊の強さから見るに残党もそこまでの強さは持っていないはず。一般人の目に触れる前に瞬殺出来るだろう、と慢心が生まれていたのがいけなかった。

「な……」

振り返った瞬間に見えた呪霊は思ったより口を大きく開けて私を待っていた。目の前が真っ黒で何も見えない。呪霊を斬るはずの呪具の切先が黒に呑まれていく。
切羽詰まった伏黒くんの声を背後にどぷん、と私も闇に呑まれて意識が途切れた。

◇◇◇

「───っ!」

意識が浮上したのと同時に身を起こし、呪具が手にある事を確認して構え直す。目に映ったのは最後に見たのと同じ、人気の無い商店街の景色だった。しかし、何だか違和感を感じる。
呪いを探り視線だけを動かして周囲を見渡す。二級、三級程度の呪霊数匹の気配を感じた。咄嗟に帳を下ろし直す。意識が落ちる前に見た大きな呪霊と伏黒くんの姿が見えない事が気になったが、まずは目の前の呪霊討伐が先だ。
暫く待っていれば金切声のような不快な声を上げながら呪霊が襲い掛かって来た。それらを全て呪具で斬り伏せ、残りがいないか注意深く気配を探る。他に呪いの気配は感じられなかった。
身体にはどこにも傷は無いし意識も明瞭だ。けれど何故か自分の置かれた場所に違和感を感じずにはいられなかった。つい先刻まで見ていた商店街が、より寂れているような。
気絶する前に見た商店街はまだお店の看板がいくつか残っているくらいの寂れ具合だったが、今見える景色はどこもシャッターが下りていて看板もボロボロ。文字も読めない程色褪せてかすれてしまっている。最早この商店街全体が解体寸前のようだった。
これはもしや幻覚だろうか。呪霊の術にかかってしまったかもしれない。元凶を絶つまで帳はこのままで先へ進んだ方が良さそうだ。油断した事を反省しながらひとまず呪具を握ったまま歩みを進めようとした、その時だった。

「アンタ……!こんな所で何やってんだ!!」

腕を強く引かれ、見知らぬ男性が鬼気迫る表情で至近距離で怒鳴り立ててきた。突然の事に驚きびくりと身体が跳ねるが男性はそんな事お構い無しに捲し立ててくる。
帳の中に一般人を入れたまま下ろしてしまった事に気付いて背筋が凍る思いがしたが、それ以上に不可解なのはこの男性が私を知っているようであるという事だった。私はこの人を知らない。けれど姿が、伏黒くんによく似ていた。

「す、すみません、誰……ですか?」
「はぁ……?何の冗談だ。それにその格好……。っ、呪具まで持ち出して何のつもりだ!!呪術師は辞めると、もう戦わないと約束しただろうが!!」
「えっ?あ、貴方、呪術師なんですか……!?」
「アイツら放ってここまで来たのか?こんな雑魚相手に?アンタが出るまでも無ければ戦力は俺で十分事足りる!自分が何してるのかわかってんのか!!」
「ま、待って、辞めるとか何の事か……!私は現役の呪術師です!人違いだと思います……!」
「そっちこそ何意味わかんねぇ事言ってやがる!俺が見間違う訳ねぇだろ!それにさっきから会話が噛み合って、な……」

そう言うと男性は先程までの勢いが嘘のように収まり、口を噤むと私の頭の天辺から足の爪先までじろじろと観察してきた。未だ掴まれた腕がギチギチと悲鳴を上げている。怒りは収まってくれたようだが視線が突き刺さってとても居た堪れない。何より痛い。
それよりもこの人、伏黒くんの親戚か何かだろうか。兄弟と言われても納得出来るくらいには男性は彼にそっくりだった。私の事を知っているのも伏黒くんから聞いたからだろうか?けれど伏黒くんに男兄弟がいるという話は聞いた事がないし、彼のそっくりさんだとしてもこんな人は知り合いにいない。
びくびくと怯える私に気付いたのか男性は気まずそうにそっと私の腕を掴んでいた手を離した。しかし視線は未だ注がれたまま。

「呪霊……じゃねぇよな」
「ち、違います……!神に誓ってもいいです呪霊じゃないです」
「それはわかってる。……名前は」
「え?」
「名前。言え」
「律、です」
「苗字も」
「……九石」
「九石……。ついでに聞いておくが、何しにここに来た」
「それは勿論、任務で呪霊を祓いに……」

私の解答を聞いて男性は暫し考え込む素振りを見せると「……そういう事か」と納得したように独り言ちて大きな溜息をはいた。男性はこの状況を理解したようだが私には何が何だかさっぱりなので勝手に納得しないでほしい。恐る恐る彼の素性を尋ねる。

「あの、結局貴方は誰なんですか?同じ呪術師なら名前くらいは……」
「……伏黒恵」
「……へ?」
「伏黒恵だ。……最もアンタの知る"伏黒恵"とは違うが」

暫しの沈黙の後、驚きのあまり今までに出した事のないくらいの大声が口から出てしまった。

◇◇◇

伏黒恵、と私のよく知る彼と同じ名を名乗った男性は私を車の後部座席に乗せて隣に座ると運転手に指示を出し、とある場所へ連れて行かれた。その場所は私のよく知るようで知らない雰囲気を纏った呪術高専だった。
彼はソファへ私を座らせ、何処かに行ったかと思えば救急箱を持って戻って来た。「腕、出せ」と催促されたがその意味がわからず首を傾げた。

「強く掴んじまっただろ。痕が残ったらどうすんだ」
「あ……ああ!でもこのくらいなら大丈夫です」
「俺が気にする。だから早く腕出せ」
「本当にこのくらいなら平気」
「出せ」
「はい……」

おとなしく袖を捲って腕を差し出す。するとくっきりと手の痕が残っているのが見えた。
それに彼は眉を顰めるとあれこれ救急箱から取り出そうとしたので、湿布で大丈夫ですと強く制すれば(彼も中々譲ろうとしなかった)、少々居心地が悪そうに湿布を用意してくれた。
彼は確かに伏黒くんによく似ている。それどころか彼が成長したらこんな風になるんだろうなという程瓜二つと言っても過言ではなかった。しかし今目の前にいるこの人が伏黒くんとはとても信じられなかった。自分の身に何が起こったのかも。私が言い淀んでいる事に気付いたのか、彼は手当てを進めながら徐に口を開く。

「……まだ信じられねぇって顔してるな」
「まぁ、色々と……はい」
「気絶する直前にあの商店街で呪霊と戦わなかったか」
「え?あ、戦いました。二級の呪霊に」
「……そうか」
「えっと、それが何か……?」
「アンタからしたら突拍子も無い事を言うが、多分俺の憶測は合ってるはずだ。それを承知の上で聞いてほしい」
「は、はい」
「アンタが直前に戦ったあれは呑み込んだ対象を異なる時間軸の世界へ飛ばす力を持つ呪霊だったんだ。それ以上の詳しい事は知らない。
結論から言えば、アンタはそれに襲われて未来に飛ばされた。ここはアンタが知る2018年の東京じゃない。そこからずっと未来の世界だ」

彼から告げられた内容に絶句する。彼の言う事が真実なら呪霊を退治していた商店街が急速に寂れて見えていた事にも説明がつく。正確には見えていた、のではなくあの場所は時間の経過により本当に寂れてしまったのだ。
ここが2018年より未来の世界だから。

「だとしたら今は何年になるんですか?それに戻る方法は……」
「敬語」
「え?」
「俺に敬語は要らない。普段のままでいい」

彼はそう言い、救急箱を片付けると私の隣に静かに腰掛けた。
あからさまにじろじろと見るのは良くないかな、と思いつつ彼の様子を横目で眺める。伏黒くん、成長するとこんな風になるのか。元々容姿が整っているとは思っていたが年月を経るとそこに大人の余裕が加わるというか、妙な色気を感じて戸惑ってしまう。そもそも彼は今の私から見て伏黒"くん"なのだろうか。もしかしたら伏黒"さん"かもしれない。

「西暦については……そうだな。今は俺の方が年上になるのか」
「んえ!?じゃあやっぱり伏黒くんじゃなくて伏黒さん……」
「は?それはアンタも……。……いや、違うか」
「?」
「迷ってるならいつもの呼び方でいい。俺は気にしない」
「じゃ、じゃあ……恐縮ですが、伏黒くんと呼ばせていただきます……」
「だから敬語」
「は……じゃないですね!わ、わかった」

じろりと視線を向けられ無理矢理口調を元に戻す。どうしよう、とてつもなく調子が狂う。年上の伏黒くんが目の前にいるというこの状況だけで頭が混乱するというのに、年上の伏黒くんをくん呼びする事で更に訳がわからなくなってきた。
彼の方が今の私より年上という事は、ここは元いた世界より少なくとも13年は時が経過しているという事になる。この世界での私は何をしているのだろう。それに五条さんや虎杖くん達も。何だか途方も無い話になってきた。
それにどうやったら元の世界に戻れるのか。あの商店街に私を呑み込んだ呪霊はいなかった。つまり元凶を祓えないからこの能力がいつ解かれるのかもわからないし、解けないかもしれない。そうなってしまったら私はどうすれば良いのだろうか。この世界には私の知っているようで知らない人しかいない。
不安が渦巻いて両手を握りながら俯く。すると安心させるようにそっと手の上に私のよりずっと大きな手が乗せられた。

「心配しなくても必ず戻れる。だから、そんな顔はしなくていい」
「あ……ありがとう」

私より年上とだけあって彼の手は大きくて、何より温かった。ただ乗せられているだけなのに、まるで包み込まれているかのように酷く安心する。私の知らない伏黒くんなのに。

「もしかして伏黒、くんは元の場所に戻れる方法を知ってる?」
「ああ、知ってる」
「なら、それを教えてほしい。いつまでもここにいる訳にはいかないから」
「いや、多分その必要は……」

彼が最後まで言葉を紡ぐ前に、私の手が透けている事に気付き、驚きで素っ頓狂な声を上げ咄嗟に立ち上がった。突然、透明の欠片となって息をつく暇も無く私の身体が手や足先から崩れて消えていく。思わず伏黒くんの方を見れば彼は特段驚きもせずただ私の事を見つめていた。

「……思ったより早かったな」
「何……これ?どういう事?」
「だから言ったろ。必ず戻れるって」
「え、え、でもこれ本当に大丈夫なやつなの?実はこれから天に召されますなんて事は」
「無い。だから早く戻って安心させてくれ」

誰を、と声を発する前に私の視界も同じように崩れていく。世界に罅が入り破片が花びらのように風に乗って消える。音も崩れる。別れの挨拶はちゃんと言いたくて口を開きたかったが開かなかった。というより、既に身体の半分以上が消えていた私には自分の身体何もかもを自由に動かせなかった。そういえば手当てのお礼も言えていないのに。
懸命に言葉を紡ごうとする私を見下ろすように伏黒くんは立ち上がる。彼は穏やかに、静かに小さく笑った。

「───ふ、し───く───」
「多分"俺"は首長くして待ってると思うんで、約束は必ず守ってください。そうすれば」

最後の破片が風に運ばれるのと同時に意識が急速に薄れていく。
その言葉の続きにどんな意味が含まれていたのか。無駄だとわかっていても自分でも見えなくなった手を彼に伸ばした。果たして彼がその手を取ろうとしてくれたのか、それもわからないまま私の姿も意識もこの世界から消えた。


透明な欠片のような花びらがひらひらと風に運ばれて世界の色と同化するように姿を次々と消していく。律の姿が完全に消えた後、ブブ、とポケットに入れていたスマートフォンが振動する。手に取れば画面には大切な人の名前が表示されていた。
先程あった出来事を彼女に話してみようか。10年以上前の出来事が今に繋がっている事、今日がその日だったという事。ああ、でも彼女は確か。表情に喜色を滲ませて伏黒は通話ボタンを押す。
その薬指に嵌められた輪が仄かに光を反射した。

◇◇◇

「───さん!律さん!」

呼びかける声に呼応するように意識が浮上する。未だ朦朧としたまま瞼を開ければ見慣れた姿が視界に映った。

「あ……伏黒、くん」

名を呼べば、彼は酷く安心したように震えた息を吐いた。全身が何だか温かいと思っていれば抱きかかえられていた。重いだろうに、ずっと私が目を覚ますまで待っていてくれたのだろうか。

「あの呪霊は……?」
「俺が祓いました。そんな事より急いで家入さんの所に」
「あ、えっと、そこまでじゃないしもう歩けるよ。ありがとう」
「そう、ですか」

そっと彼の手を借りて立ち上がる。彼は未だに心配そうにこちらを見ていて、本当に大丈夫なのかと視線が訴えている。お姉さんの事もあるから余計に心配なのかもしれない。
他に怪我が無い事、問題無く歩ける事などを確認する。呪具も折れたり欠けたりはしていないようだ。しかし二級に不覚を取られてしまうとは一級として情けない。なんて報告しよう、と溜息を吐くと腕に違和感を感じた。
何かと思い服の上から触ってみれば布のような、何かが腕に貼られている事に気付く。ひんやりとしたこれは……湿布?
恐る恐るその上から肌を押してみたが痛みは無い。自分で貼った覚えも無い。記憶を探りながら不思議に思いつつ腕を摩るも、ここ暫く怪我をした記憶も無かった。
こちらを気遣いつつ少し前を歩く伏黒くんの背中を追って補助監督の待つ車へ向かい高専へ戻った。伏黒くんと別れた後にそっと袖を捲って腕を見れば、確かに湿布が貼られていた。やはり覚えが無い。意識を失っている間にまさか伏黒くんが、とも思ったが私に黙ってわざわざこんな事をするだろうか。
湿布を剥がしてみるも腕には何の痕も無かった。ますます首を傾げる。
やはり伏黒くんの言う通り一応硝子さんに診てもらった方が良いのかもしれない。先程別れたばかりの彼の姿を思い出すと、見た事のないはずの誰かの姿が一瞬視界に映った。今のは、と目を瞬かせた間に私の記憶からその出来事があった事すら消えた。

eclipsissimo