臆病は病

「真希さん、律さん何処に行ったか知りませんか」

伏黒は自販機でジュースを買っている真希に律の所在を尋ねようと声をかけた。丁度ボタンを押したタイミングだったのかガコン、と音がして缶ジュースが落ちたのと真希が振り向いたのはほぼ同時だった。
他にもこの場には真希含めた二年生と伏黒含めた一年生が揃っていた。真希も釘崎も律との仲は良好らしいので釘崎にも聞いてみたが、居所を知らないと言うので真希に尋ねた次第だ。
それを聞いていた虎杖が揶揄うように伏黒をつつく。

「伏黒ー、お前本当に律さん大好きかよ」
「ああ」
「おお……直球……」

一瞥もくれず即答した伏黒に虎杖はたじろいで軽率に揶揄いに行った事を少し後悔した。思わずちょっと後ずさってしまった。
真希は取り出し口から缶ジュースを拾うと逡巡して何かを思い出す素振りを見せると「あー」と胡乱げに声を発した。

「律?……今日はアレだな。多分アレに行った」
「アレ?」
「滝行」

虎杖と釘崎から「滝行ー!?」と仰天の声が上がる。声がでかい。伏黒もその返答には予想していなかったようで目を瞬かせた。

「うっそ、律さん滝行なんてしてんの!?」
「修行僧かよ……」
「ツナマヨ」
「いや、本当にそうかはわかんねーけど滝行する奴が着るやつあるだろ。あの白いやつ」
「行衣ですか?」
「多分ソレ。偶に持ってどっか行くんだよあの人。何してるかは知らねーけど」

そう言ってプルタブを開けて真希は缶ジュースを飲み始めた。律が本当に滝行なんてしているのかまではわからなかったが、高専内にいないのは確かなようだ。その話を聞いて何かを思い出したのか釘崎が「あ」と声を出した。

「そういえば偶に山に行ってるとか聞いた事あるわ。意外とアグレッシブな趣味持ってるわよねあの人」
「趣味……登山とか?」
「知らないわよ。でも無心になりたい時があるって言ってたから修行僧ガチ説あるわよ」
「律さん出家でもすんのかな……。そうなったら俺ちょっと寂しいな」
「何でそこまで話が飛躍すんのよ。流石に出家はないでしょ」

虎杖と釘崎がやいやい言い合っているのを他所に伏黒は律の行きそうな場所に予想を立てていた。
するとパンダが頬を掻きながら伏黒に尋ねる。

「そもそも恵は何で律に用があんだ?」
「大した用ではないんですが、この所調子が良くなさそうだったので何かあったのかと」
「そんな風に見えたかぁ?」
「おかか」
「俺も見えなかったけど。いつもの律さんだった」
「……おい何だよ釘崎その顔は」

パンダ、狗巻、虎杖が首を傾げる中、釘崎がドン引き、という程でもないが若干引いた表情で伏黒を見ていた。言葉にするなら「うわぁ……」だろうか。

「伏黒アンタさぁ……私達でも気付かないような律さんの変化に気付くってどんだけ見てるっつー話よ。いくら律さん好きだからって、そんな関係でもないのに彼氏面はやめな?あとストーカーにもなるんじゃないわよ。同級生がストして捕まったとか聞きたくないから」
「してねーしならねーよ!」

彼氏になれるものなら早くなりたいし出来るものならとうになっている。何ならその先の関係にもなりたい。片想い歴もうすぐ二桁を舐めないでほしい。しかし何故律の心配をしただけで引き気味にそんな事を言われなければならないのか。心外だ。真希は見慣れている様子で缶ジュースを飲みながら傍観していた。
彼女達の反応で伏黒が落ち込んでいるととられたのか、虎杖がポンと肩を叩いて笑顔でサムズアップしてきた。

「伏黒、俺は応援してるからな!」
「うるせぇ黙れ」

◇◇◇

釘崎と真希の情報を頼りに律を探しに行く事にしたのだが情報が少ない。しかし恐らく山にいるという事は確実なので近隣の山を調べる事にした。
呪術高専自体が都心からだいぶ離れた自然の多い場所なのでここから一番近い山といえば…と推測して目星をつけた山に向かう事にした。
何故伏黒がここまで律を心配するのか。そこには恋慕の情が根底にあるのは確かだったが、時折彼女は任務や出張等の長期不在からの帰宅時、浮かない顔をしてふらふらになりながら高専に戻ってくる事があった。見かけた時に心配になって声をかけたが返って来たのは覇気のない笑顔と返事だった。
恐らく以前五条が断片的ながらも教えてくれた律、ひいては九石家の“仕事”が関わっていると睨んでいる。普段は優しく穏やかな律が一等表情を曇らせる程の出来事とは何なのだろう。五条も詳しい事は知らないようだったが(それすらも怪しいが)、伏黒はあの男よりも早く律の内面に触れたいと思った。
いきなり全てを話してくれるとは思っていない。でも彼女の心の拠り所に少しでもなれたら、ほんの少しでも肩を預けてくれたら、という下心に似た想いから伏黒は律探しに奔走した。


山の中を歩いて暫くした頃。登山で体力を奪われた事による気怠さと伝う汗や疲れを少々感じながらも伏黒は山道を進む。
もしここに律はいなくて自分のしている事が徒労だったら、と思ったが伏黒はそれでも構わなかった。もしそうだとしても今度は別の所を探せば良い。そこでも見つからなければまた同じように探して、探して、探して。
律の事をもっと知りたい。その心も、身体も全てを暴いて欲しい。律が抱えるものがどんなものであろうと、それから守る事は出来なくても支える事は出来るはずだ。俺は律さんの隣にいたい。立ちたい。離れ離れにならぬよう手を繋いで同じ道を歩んでいきたい。
今の伏黒の原動力は全て律にあった。律の為なら何千里。例え火の中水の中草の中森の中…は少々大袈裟ではあるが律を見つける為ならそこを突き進む男、それが伏黒恵だった。
だいぶ山奥に入ってきたんじゃないか、という所で水の流れる涼やかな音が聞こえた。つまり近くに水源がある?そこに滝があればもしかしたらそこにいるかもしれない。
伏黒は逸る気持ちを抑えて水音の出所を探った。山道を見渡せば小さな溝から上流から流れてきたであろう水がさらさらと流れ落ちている。ここを登ればきっと水源があるはずだ。きっとそこに律も───。
目的地に辿り着いても伏黒はそこから動けなかった。視線がそれに釘付けになっていた。
滝が流れ落ちている。だがそれは修行をするには物足りなく、お遊び程度にしかならない程度の小さな滝だった。
その下には思いの外広い滝壺があり、水は底が見える程澄み切っている。底は案外浅いらしい。殆ど誰の手も加えられていない自然の神秘に思わず溜息が溢れそうだったが、本題はそちらではなかった。
その滝壺で行衣に着替えた律が目を瞑り、全身を弛緩させて静かに水面に揺蕩っている。滝壺に落ちる水流で揺蕩っていた律の行衣が、髪が揺れる。そしてこの滝の上にはどうやら花が咲く樹があるらしく、その花は時折降ってきては、律の顔や身体の近くに音もなく落ちて静かに波紋を広げていった。白い花弁が律を飾るように周囲を漂う。本人は自分の世界に集中しているのか、伏黒に気付く素振りすら見せない。
これは聖域だ。迂闊に踏み入る事を許されない不可侵の場所だ。ロマンチストではないというのに柄にも無くそう思ってしまうくらいこの光景は伏黒にとって神秘的だった。
しかし、伏黒は気付く。あの状態で今の彼女は息をしているのか?もしそうでなければ……。そう考えた途端、これまでの恍惚に近い感情は消え去り肝を冷やす番となった。

「律さん!」

遠くから呼びかけたが反応は無い。まさか、もしかして。嫌な予感が過ぎった伏黒は急いで滝壺へ向かう。なるべく彼女の耳に届くようにと呼びかけたがこれも無反応だった。
伏黒はなりふり構わず滝壺の中に足を踏み入れた。まるで彼女の聖域を汚すようで少々罪悪感が湧いたが、今は律が生きているか、それを確かめなければ。

「律さん!……律さん!」

水をかき分け、律の傍に寄る。万が一にも彼女が溺れたりしないようお姫様抱っこの要領で彼女の身体を支える。そこでも伏黒は律の名を呼び続けた

「律さん……律さん、起きて」

水中で律の身体を抱き寄せてそう言えばようやっと律の目が開いた。その所作すらどこかこの世のものとは思えなくて伏黒は思わず小さく息を吐いた。

「ん……あれ……?何で伏黒くんがここに……?」
「驚いたのはこっちです!このままだと溺れます。上がりましょう」
「んー……うん……」

律は煮え切らない返事でこくこくと頷いた。この寝惚けた感じ、まさか寝ていたというのか?……あの状況で?
伏黒は大きな溜息をつくと律の身体を労るようにそっと抱え上げて滝壺から救い出して陸地に立たせた。本当に心臓に悪い。


「ごめん……いつもならちょっと水浴びしたらすぐ帰るんだけどいつの間にか寝てて……。わざわざ探させてしまったみたいで、ごめんね」
「いえ、無事なら良かったです。あの状態で寝ているのは驚きましたけど……。さっきも言った通り溺れる可能性高いので絶対に二度としないでください」
「はい……仰る通りです……」
「あと何ですか。その格好……は……」

しゅん、と困ったように笑う律を見た伏黒は途中で言葉を失った。
水気で肌に張り付いた艶やかな髪。行衣の下には何も纏ってなかったのか───彼女の身体のラインがわかるくらいに水気を含んだ行衣が彼女の肌にぴったりと張り付いていた。
そして、水面で揺蕩っている際に乱れたのか、行衣が全体的に着崩れている事で露わになった首、胸元、脚。何もかもが伏黒の目には猛毒でしかなかった。
伏黒は咄嗟に着ていた制服の上着を脱ぐと律に投げつけて背を向けた。「わぷっ」と律の間抜けな驚く声が聞こえたがそちらを見ている余裕は今は無かった。

「え!?な、何、何!?」
「それでも羽織っていてください。風邪でも引いたら大変でしょ」
「あ、ありがとう。でも着替えがすぐそこにあるから私は大丈……」
「なら早く着替えてください!」
「ひゃ、はいっ!」

どこか苛立った様子の伏黒に律は大人しく彼の言う事に従った。何が彼を怒らせてしまったのだろうか、不安に思いながら服を着替える。
対する伏黒は強く言い過ぎた事を後悔しながらも律の無防備さに少し苛立っているのも確かだった。後ろを向いているのでわからないが背後から着替えの布擦れの音がする。聞きたくなくても耳が逐一音を拾ってしまい悶々とよろしくない感情が湧き上がりそうになるのを堪える。伏黒恵、15歳。彼も健全な男子高校生だった。
暫くすると髪だけ少し濡れたまま着替え終わった律が伏黒に問いかけた。濡れた髪が何となくまだ艶かしいがそれを極力見ないようにして伏黒は律に向き直った。

「伏黒くんは何で私を探しに来たの?」
「……それは、律さんがいつも以上に落ち込んでいるように見えたので、それが気になって」
「その為にわざわざここまで!?……は、ははっ、伏黒くんは心配性だなぁ」
「貴方が自分の事に無頓着なだけでは」
「えー、そう……そうかなぁ?」
「そうですよ」

今の律の表情には暗い影が差してはおらず、いつものように笑顔を見せてくれた。それを見た伏黒は安堵したが、ここで時々彼女の表情を曇らせる原因は何なのか問い質したかった。

「律さん」
「ん?」
「その。……」

口を開いてはみたが何て切り出せば良いかわからなかった。原因は恐らく彼女の生家に関係している。
しかし流れてくる九石家の噂や情報は極端に少なく知っている人も少ない。という事は何かしらの理由があって厳密に情報が管理されているか、安易に触れてはいけないかのどちらか、恐らくは両方だと踏んでいる。
それを問いかけたとしても律の口から直接拒絶される事が何よりも怖かった。言い淀む伏黒が何を考えているのか見透かしたように律は小さく笑った。

「……あのね、時々実家から任務とは違う仕事が振られて、それで時々実家に戻ってるんだ。その仕事がちょっと……ストレスで。仕事の前後はつい落ち込んじゃうんだ。ごめん、心配かけて」
「……いえ。寧ろ教えてくれてありがとうございます」
「伏黒くんにまで心配かけるなんてまだまだだな、私。もう良い大人なのにね」

そう言って力なく笑う律に伏黒は胸が痛んだ。その言葉と表情に安易に触れてくれるなという予防線のようなものが見えた気がした。
まだ、駄目か。伏黒は自分の力不足を痛感して拳を握った。そろそろ帰ろう、と言ってゆっくり歩き出した律の背中を追う。
伏黒が後ろを着いて来ている事をわかった律はこの位置を利用して彼に聞こえないよう呟いた。

「この事を君が知ったら、君は私をきっと軽蔑する。だから言えない。……ごめんね」

eclipsissimo