一瞬の煌めきを忘れるな

と云う訳で先日孤児院を追い出されてしまい、職無しになってしまった。
宛ては無いがとりあえず仕事を探そうと思い、横浜にやって来た。此処なら求人も多いだろうし、選り好みしなければ何とかまた仕事に就けるだろう。
と云う訳で就職活動中なのだが、孤児院での出来事に想像以上に精神的ダメージを受けてしまい、何もやる気が起きない。敦くんが今頃如何なっているのかも全く判らないし、きっとあの地獄は今も続いているのだろう。
此処を就職活動の拠点にする為一応宿は取っているのだが、部屋でじっとしている気分にはならず、今はある高層ビルの屋上の縁に座り、横浜の街を見下ろしている。少しでも下手に身体を動かせばビルから落ちてしまうが、異能力を持っている私にはあまり関係無い。
人を傷付ける事しか出来なかったこの異能が今度は誰かの役に立つと善いな、と思って闇の世界から抜け出した筈なのに全く役に立たない処か早速人を傷付けてしまった。しかも大切な人を。ショックがでかすぎて溜息ばかり出てしまう。
何をする訳でもなく、ビルの屋上で只風に吹かれている。これから如何しよう。人扶けに関する仕事に就きたい気持ちはまだある。けれど次も同じ事をしてしまったら、と思うと中々動き出せない。本日何度目か判らない溜息がまた口から零れ出た。

「おや?珍しい客人だ」

え、誰。背後から突然聞こえた声にバッと振り返る。
若しかしてこのビルの管理人とかだろうか。だとしたら悪い事をした。さっさと退散して宿に戻ろう、と思い立ち上がって振り返ると相手が近付いて来るのが見えた。
茶色がかった黒の蓬髪。砂色の外套。衣服の合間から覗く首と腕に巻かれた包帯。見覚えのある背格好に思わず目を見開く。

「やぁ。久し振りだね、祈」
「太宰さん…」

太宰治。其々の道に進む為、あの時別れたその人が目の前にいた。思いがけない人物の登場に驚いて声も出せない私とは対照的に太宰さんはつい昨日も逢っていたかのように話しかけて来る。
何してるんですかこんな処で、と思わず云うと夜の散歩、と返ってきた。こんなビルの屋上が散歩コース?と思ったが直ぐにある答えに辿り着いてああ、と声が出た。

「飛び降り自殺でもしに此処へ?」
「まぁ此処はそう云うのに最適なスポットだよね。でも飛び降りなんて絶対痛いし一寸なぁ」

詰り今日は飛び降りる為に此処へ来た訳ではない、と。私が首を傾げていると太宰さんは見慣れない人影が見えたから此処まで登って来たのだと云う。で、来たら私が居たと。
気になって来たは善いが、太宰さんは横浜に居る筈の無い私が此処に居るのが不思議な様だ。

「で、祈は何故此処に?てっきり何処かの孤児院にでも勤めているのかと思っていたのだけれど」
「それが実は……」

つい先日あった出来事を話す。現在そう云った理由で求職中なのだと告げれば成程ねぇ、と返ってきた。
私には人助けなんて向いてなかったみたいです、と自嘲する。いざ自分の置かれた状況を口に出すと現実感が増して益々悲しくなってきた。しかも私はこの道に進む、と宣言してきた相手が目の前に居るのだ。自分の足で歩いて行こうと思って太宰さんから離れた筈なのにこのザマとは。
太宰さんは私と違って確りその足で人助けの道を歩んでいるのだろう。対して私は何をしているんだろうか。情けなくてどんどん視線が下へ下がって行く。
一人落ち込んでいると視界の端に砂色がちらついた。太宰さんが私の隣に立っている。そういえば此処は屋上の端っこで、足を一歩踏み間違えれば地面へ真っ逆さまだと云うのに大丈夫だろうか。彼の横顔をちらりと覗き見る。彼は笑って横浜の街を見下ろしていた。

「こうして見ると此処からの景色も善いものだねぇ」
「…ですね」

正直今の私に夜景を楽しむ余裕は無いがそう答えておく。慥かに綺麗だ。もっと違う気持ちでこの景色を見下ろしていたら別の感想も浮かんだだろう。
あ、あの観覧車、乗りたいと思ってたやつだ。暫くお互い何も言わず目の前の景色を見ていたが、太宰さんが唐突に口を開いた。

「先刻はああ云ったけれど偶にはこういうのも善いかもしれないね」
「え?」

何を突然、と思って隣を見たら太宰さんが消えていた。え?と思って屋上を見渡したが居ない。真逆、と思って屋上から下を覗き込むと太宰さんが現在進行形で落ちていた。どんどん彼の姿が遠ざかる。
すかさず私も彼を追うように飛び降り、重力に従って落ちて行く。だがこのままでは彼に追いつけない為、異能力を発動して脚を強化する。
ビルの壁に足を着け、その瞬間を逃さず壁を思い切り蹴って加速する。重力に従って落ちる彼に一気に近付く。地面に叩きつけられる前に助けようと真っ逆さまに落ちる彼の投げ出された腕に手を伸ばした瞬間、太宰さんと目が合った。
彼の包帯に巻かれた腕を掴み、思い切り自分に引き寄せる。お互いの距離が縮まったそのタイミングで彼を抱え、その状態でビルの壁を先程の比にならないくらい強く蹴って地面との衝突を免れる為移動する。
異能力を発動している今なら成人男性一人を抱えて移動するなんて容易い。太宰さんを抱えたまま別の建物の屋上に着地する。彼を降ろして異能力を解除する。

「いやぁ相変わらず凄い異能力だねぇ。ふふ、ジェットコースターのようで楽しかったよ」
「はぁ…はぁ…もう、何考えてるんですか!」

目の前で飛び降りておいて何がジェットコースターだ。私はアトラクションでも無ければ貴方を楽しませる為にこうした訳じゃ無いと云うのに。
荒くなった息を整える私とは対照的に太宰さんは楽しそうにしている。
突然こういう事をするのは本当に心臓に悪いから止めてほしい。と云っても聞かないんだろうな。それなりに付き合いの長い私にはわかる。孤児院でのダメージが抜けきっていないうちにこういう事をしてしまった所為かどっと疲れてしまった。主に精神的に。

「先刻君は自分が人助けに向いていないと云ったけれど」

ぐったりしていると太宰さんからそう声を掛けられた。荒かった呼吸が一瞬だけ止まる。
そうだ。私は誰かを扶けるなんて出来ない。孤児院での一件や過去の出来事がそう告げている。
でも誰かを扶けたい。誰かの役に立ちたい。気持ちだけは一丁前で実際何も出来ない役立たずだ。この異能も誰かを傷付ける事しか出来ない。
そう、思っていたけれど。

「こうして私を扶けてくれたじゃないか」

先刻の落下中に視線が合った時の太宰さんの表情。あと数秒もしたら地面へ衝突すると云うのに彼は笑っていたのだ。私との追い駆けっこを楽しむかのような楽しげな表情。
この人は私がこうする事を判っていてわざと飛び降りたのだ。
彼を追って飛び降りたのは完全に無意識だった。危ないとか扶けたいとか、そんな事を考える前に身体が動き出していた。
そして、彼の思惑通り異能を使って私は彼を扶けた。異能が無かったら彼も私もとっくにぺしゃんこになっている。
先程まで沈んでいた気持ちが太宰さんの言葉を聞いて少しずつ浮上して行く。顔を上げると太宰さんと目が合った。

「そんな君にぴったりの職場がある」

誰かを傷付け、命を奪う事しか出来なかった私でも出来る事。否、異能を持つ私だから出来る事。

「『武装探偵社』って云うんだけど、」

如何だろう、興味は無い?と彼が私に問う。
恐らく其処が、人を救う側になる為に太宰さんが選んだ場所なのだろう。風の噂で聞いていた。軍警や市警でも解決出来ない厄介事を引き受け解決する、昼の世界と夜の世界、その間を取り仕切る薄暮の武装集団がある事を。
こんな私でもまだ好機はあるのだろうか。まだやり直せるだろうか。救えるのだろうか。目の前に立つ彼だけではない、見知らぬ誰かを。
不安と希望が入り混じり、縋るように太宰さんを見つめながらこくりと頷く。
それを見てまるで私の答えなど聞く前から判りきっていたように太宰さんは笑った。

eclipsissimo