薄情さに定評のある神様

職員の方々も子供達も寝静まった夜。私は月を見ようと音を立てずにこっそり自室から抜け出した。
廊下の窓からは月明かりが差し込んでいる。夜空を見上げれば満月煌々と輝き辺りを照らしていた。星もよく見える。絶好の月見日和だ。
これなら孤児院の屋根の上がよく見えるかな、と少しわくわくしながら外に出る。登れる場所はないかなーとぐるりと孤児院の周りを回った処である違和感に気付いた。
この孤児院は食料確保の為広い畑と倉を有しているのだが、何か昼間と様子が違う。それを確かめようと畑に近づいてしゃがみ込むと、作物が荒らされているのが見えた。
強盗?と思ったが、中には何かに齧られたような痕が残っている作物も見つけた。動物の仕業だろうか。異能力を発動させてゴーグルを装着して周囲を見渡すと、同じ様に荒らされた畑と大きな足跡を見つけた。
形からして人間のものでは無い事が判る。しかし、随分大きい。熊などの大きな動物が思い浮かぶが、この辺りに熊が出没したと云う情報は無かった筈。動物園から逃げ出して来たとか?
もう既に皆眠ってしまっているだろうが朝まで待つ訳にもいかない。先ずは院長先生に伝えようと立ち上がった処で何かの気配がした。位置は…私の真後ろ?
気配が急速に自分に近付いているのを感じ、異能力を発動して咄嗟に横に回避する。相手が大きな音を立てながら着地した所為で舞い上がった土煙が止むのを待ち、相手の姿を確かめる。

「……虎?」

其処に居たのは白い毛並みを持った虎だった。虎は私の姿を視界に入れると低く唸って威嚇してきた。
真逆この虎が畑を荒らしたのだろうか。でも何故?この辺りに虎が出たなんて情報聞いてないけど…と逡巡していると虎がまた襲いかかってきた。
寸での処で回避し、虎と距離を取る。あの虎、随分力が強い。先程まで私が居た所の地面が抉れている。加えて素早く、考え事をさせてくれる暇も無い。
虎の攻撃を躱し続けていたのだが、相手のスピードの方が勝ったようで顔に爪が掠ってしまった。額の辺りに一瞬だけ強い痛みが走る。まずいと思って虎から大きく距離を取って痛む箇所を触れば血が出ていた。
気絶させて警察に突き出すか、と考えたが巧く気絶させられるだろうか。あの力の強さでは抑える事も難しいだろう。
最悪殺す事も念頭に入れて異能力で身体を更に強化する。院長先生には何と報告しよう、とこれからの事を考えながら襲いかかる虎の攻撃を避ける。
何度か避け続けた処で相手の攻撃パターンも判ってきた。鋭く襲いかかる爪を躱し、相手の隙を見つけてここだ、と思い打拳を打ち込もうとしたが、

「殺すな!!」

突如辺りに響いたその声を聞いて出来る限り力を弱めるが既に勢いがついてしまった打拳を止める事は出来ず、虎を思い切り吹っ飛ばしてしまう。威力を弱めたといえどだいぶ遠くまで飛ばされた虎は地面に叩きつけられた。
誰だ、と思い周囲を見渡すと、ある人影が目に入った。特徴的な髪にあの格好……この施設の院長先生だった。院長先生が私と虎を凝視していた。
殺すな、とは如何いう事だろう。この孤児院の大事な食糧が荒らされて尚虎を庇うとは。
突然の事態に如何する事も出来ずにいると呆然と院長先生が虎に駆け寄っていく。先刻の攻撃で気絶しただろうが、いつ目を覚ますかも判らない。危ない、と思って彼らに近付くと、光に包まれながら虎の姿が変わっていくのが見えた。
それに驚きながら光が止んだ処を見計らって虎を見る。其処に居たのは私がよく知る人物だった。

「敦くん…?」

虎が倒れていた処に彼が横たわっている。それにあの光。敦くんが虎に化けたのは、恐らく異能の力に依るものだ。
敦くんは完全に気を失っているようでピクリとも動かない。目の前の光景が信じられず只驚く事しか出来ない。
段々と状況が掴めてきた途端、サッと自分の顔色が青褪めていくのが判った。先程まで自分が襲われていた事も忘れ、呆然と敦くんを見つめる。
私は彼に何と云う事をしてしまったのだろう。加減出来なかったから痛かったに違いない。彼が目を覚ますのが恐ろしくて堪らない。如何しよう、如何しよう。その言葉ばかりが思考を埋め尽くす。
院長先生が敦くんを抱える。何も出来ずに敦くんが横たわっていた地面を意味も無く眺めたままでいると院長先生から声を掛けられた。

「何をしている。ついて来い」



大人しく院長先生に着いて行った先は院長室だった。院長先生は敦くんを何処かへ運んだ後、私は院長室で簡易的な手当てを施される。額の辺りから流れていた血はとりあえず止まってくれた。傷も浅かったから直ぐに治るだろう。
それより敦くんは無事だろうか。加減はほぼ出来なかったから傷や痣は残ってしまうだろう。若しかしたら骨が折れていたりするかもしれない。
ぐるぐると脳内を巡る最悪の事態に他の事が何も考えられなくなる。目の前に院長先生が立っている。先程から気になっていた事を訊こうと思って絞り出した声は少しだけ掠れていた。

「あ…あの、敦くんは無事なんですか…?」
「貴様が気にする事ではない」

抑揚の無い冷たい声音でぴしゃりと突き返されてしまった。これでは敦くんが無事なのかすら判らない。
以前から厳しい冷たい人だとは思っていたが…。何も言い返す気力が湧かず、不安ばかりが募ってつい俯いてしまう。
これから如何しよう。先ずは敦くんに謝らなくては。これからの事を考えていると頭上から冷え切った声が掛けられた。

「貴様は今日限りで馘首だ」

くび…………………クビ?
突然の通知に思考が完全に停止する。言葉を反芻しその意味をやっと理解するとばっと顔を上げて院長先生を見た。動揺を隠せない私とは対照的に院長先生は動じず此方を冷ややかに見下ろしていた。

「な、何故馘首なんですか」
「貴様の様な異能力者を置いて置くわけにはいかぬ。あの化け物染みた力で何時他の孤児達に危害を加えるかも判らん」
「なっ…!?そんな事しません!!」

心外だ、と云わんばかりに院長先生に詰め寄る。
昔と違って異能力は制御出来るし暴走だってしない。それに彼と同じように孤児達を救いたいと思ってこの孤児院にやって来たと云うのに、どんな理由であれ子供達を傷付けたいと思う筈が無かった。
拳を握って怒りを必死に抑えながら院長先生を睨め上げる。だがそこではっとある事に気付いて怒りが急速に静まっていく。
子供達を傷付ける訳ない。けれど先刻私は何をした?暴走していたとは云え、私は敦くんを、異能で強化したこの手で殴った。
しかもあの時私は、自分では抑えられないからと彼を、敦くんを殺す事も慥かに考えていた。
急速に頭が冷えて拳を握る手に力が入らなくなっていく。院長先生は狼狽える私を表情一つ変えず静かに見下ろしていた。

「今の内に荷物を纏めろ。明日から何処にでも行って好きな様に生きると善い」

この孤児院に於いて一番強い権限を持つのはこの院長先生だ。一端の、それもまだ職歴の浅い職員の私は彼の決定に従うしかない。
如何する事も出来ず只悔しさが込み上げる。ぐっと歯を食いしばって院長先生の顔を見ずに一礼し、院長室を後にして荷物を纏めるべく自室へ向かった。
大きな足音を立てない様静かに、だが足早に部屋に向かう。自室に着いて扉を閉め、そのままずるずると扉を背にしゃがみ込む。
院長先生の云う事は最もだ。いくら制御出来るとは云え、何時子供達を傷付けるか判らない異能力を持った私をこのまま孤児院に置くのは危険だ。本人の意思など関係無い。現に私は敦くんを異能で傷付けてしまった。
では院長先生や他の職員は?子供達は?普段から得点稼ぎと称して子供達から職員への告げ口だったり、体罰や虐めが当たり前に行われているこの孤児院は何なのだろう。院長先生だって敦くんの懲罰隔離を止めようともしない。寧ろそれを推し進める張本人だ。
私は子供達を救いたいと、何か手助けになる事がしたいと思ってこの孤児院に入った。でもこの孤児院で普段行われている事は非人道的だ。毎日が地獄だ。なのに地獄を生み出した院長先生は私が子供達を傷付けるからと私を追い出す。
人々を扶けるというのは如何いう事なのだろう。正解って何なのだろう。私のちっぽけな脳みそでは答えなんて出やしない。彼なら、その答えを知っているだろうか。
作之助さん、と皆が寝静まった真夜中、それも自室で周りなんて誰もいやしないのに誰にも聞かれたくなくて小さくその人の名前を呟く。貴方の云われた通りに、貴方と同じ様に誰かを扶けてみたくてやってみたけど、私では駄目なのかもしれない。貴方なら、この状況で如何するのかな。もう二度と逢えないその人の名前を誰もいない部屋で何度も呟く。
逢いたい、な。

翌朝、少ない荷物を纏めた私は孤児院を後にした。敦くんが如何なったか、もうその孤児院の関係者では無い私はその事を知る由も無い。

eclipsissimo