明けない夜はないと誰が決めた

「祈ったらまた怪我をして!何時になったら一緒に遊んでくれるの!?」

寝台に横たわって健診を受ける私の傍らでエリスちゃんがぷく、と頬を膨らませて怒りの表情を露わにしている。
その隣で首領ーーー今の私には人に近い姿をした何かにしか見えないがーーーがうぞうぞと動いて何かをしているのが見えた。彼の頭が、顔が、視線がこちらに向けられる。

「大分傷も塞がってきたし、もうすぐ遊べると思うよ」

非道い雑音に混じって首領の声が聞こえる。何時まで経っても慣れないその声に思わず顔を顰めそうになるが我慢して彼の声に耳を傾けた。
今の私には人が人でない何かに見え、その声も非道いノイズが混じって聞こえている。人だけじゃない、周りの景色も正常に見えていない。
こうなったのは異能力の暴走が影響しているらしい。今の私は異能の制御が出来ておらず、常にこのおかしな景色が見えている状態だ。
最初は触覚がおかしくなった。何かに触れても、触れられてもその感覚が殆どしなくなった。温度を感じる事も出来なくなって気付かないうちに火傷をしたりもした。直ぐに痛覚も機能しなくなって痛みを感じなくなった。知らないうちに怪我をするという事も増えた。
次に嗅覚や味覚が壊れた。匂いも味も感じなくなり、食事の時間が苦痛になった。
その次に聴覚が壊れた。人の声に雑音が混ざって聴こえるようになった。徐々にそれは非道くなり、最終的に注意深く耳を傾けないとその人が何を言っているのか判らないくらいになった。
最後に視覚が壊れた。今では人が人型の何かにしか見えなくなり、周りの景色も正常に認識出来なくなった。
それだけじゃない。私の異能は身体強化系でそれも超がつく程攻撃に特化したものでざっくり云うと自分が思った通りの強さに身体や感覚を強化できる、というものなのだが、今の私は常に異能が最大まで強化された状態で発動している状態らしい。
加えて私の異能には一定値を超えて強化し続けると自分の身体そのものが壊れ始めるというデメリットがある。要は機械を過度に使い続けていたら疾く壊れるのと同じだ。負荷が過剰にかかり始めて骨や内臓に支障を来すようになってしまう。現に今、私はこの前の任務で受けた傷と異能の暴走で負ってしまった傷の治療を受けている。
そんな状態の為、私は余程の事が無い限り外には出られない状態にある。許可を得れば外出も可能だが、そうなると必ず"あの人"が監視役として付いてくる。一人になりたい時もあるのに、此処の人達はそれを許してはくれない。

「本当?もうすぐってどれくらい?」
「うーん……動けるようになるまで2、3週間くらいかな?」
「全然もうすぐじゃない。リンタロウの嘘吐き。嫌い」
「エリスちゃん!?」

エリスちゃんの辛辣な言葉に首領があたふたとし始めた。エリスちゃんはくるくると巻かれた綺麗な金髪を揺らしてそっぽを向く。
人や物は正常に認識出来ないが、エリスちゃんや紅葉さんの金色夜叉のような異能生命体は普通に認識出来るらしい。この歪んだ景色の中で彼女達だけでも鮮明に見えている事は唯一の救いだった。
健診も一通り終わると首領は安静にしてるように、と云った後エリスちゃんを連れてこの部屋から出て行った。部屋を出る際にエリスちゃんから「安静にしてて!絶対よ!」と念を押された為、判りましたと答えて二人を見送った。彼らを送り出した後、誰も居なくなったこの部屋で一度深呼吸をする。
そういえば今日はあの人は此処には来ないのだろうか。暫く会っていないから仕事が忙しいのかもしれない。お蔭で外にも出れないからストレスが大分溜まっている。それに、早くこの歪んだ世界から私を解放して欲しい。
それから暫くぼーっとしていたが誰も訪ねてくる気配は無い。諦めて今日はもう寝てしまおうかと思っていた矢先、ガチャリと音を立てて入り口の扉が開かれた。

「やぁ祈。久しぶり」

ノックも無しに入ってきたその人ーーー太宰さんはこの部屋に踏み入るなりそう云った。

「……お久しぶりです」
「…相当参ってるみたいだね。ごめん、只の小競り合いだったんだけど連中が思いの外しぶとくて来るのが遅くなってしまった」

彼は私の寝台の傍まで近寄るのが判った。と思いきや急に太宰さんの手が私の視界を覆う。視界が暗闇に閉ざされたのと同時に目を瞑れば、ぽつ、と暗闇の向こうで太宰さんが呟いた。

「異能力『人間失格』」

彼の言葉と同時に徐々に身体が軽くなる感覚がする。身体に纏わり付いていた何かが剥がれ落ちるような、私を覆う膜が破れて急速に世界が広がるような不思議な感覚。
こうして太宰さんが私の異能を無効化するのは、彼が私の部屋に訪れる時の恒例だった。現状私の異能を抑える方法がこれしかない為、太宰さんにはわざわざ此処まで来て無効化して貰っている。
太宰さんは私の監視役だ。何時暴走するかも判らない人殺しの道具である私を鎮める唯一の手段を持っているから、私の監視役に彼が抜擢された。
だから私が行動する時には必ず彼がついていなくてはならない。逆に云えば、彼が居なければ私は何処にも行く事が出来ない。
しかも太宰さんの異能無効化の効果はずっと続く訳ではなく、一定時間経つとまた異能が暴走し出す(決して太宰さんの異能が優れていないという訳ではなく、私の異能が異常だからこうなっているだけだ)。だから彼は暇を見つけては私の処に通って異能無効化をしてくれる。
だがそれが彼の自由を奪っているようで、絶対に何処にも行かないから監視役は付けなくていい、と申し出た事があるのだが、その時の彼の返事はこうだった。

「私がしたくてしているだけだから、気にしなくていいんだよ」

何度も頼んだが彼の返答も決まって同じものだった。何を考えているんだろう、と思って首領に直接云った事もあったが「そのあたりの事は太宰君に任せている。彼も気にしなくていいと云っているのだからそのままで善いと思うのだけれど」と云われてしまった。それからその話題を出す事は諦めた。
異能が無効化されて瞼を覆っていた手がどかされた頃合いを見計らって目を開ける。見慣れた何の変哲も無い天井が目に入った。色彩のある空間に戻って来れた事に非道く安心感を覚える。
それからすぐに巻かれた手がひらひらと目の前で揺れた。

「終わったよ。どう?見えてる?」
「…………」
「祈ちゃーん見えてますかー?」
「………………」
「見えてる?というか聞こえてる?もしもーし祈ちゃーん返事してー」

声のした方向を見ればまず最初に蓬髪が目に入り、次に太宰さんと視線が合った。彼は一瞬きょとんとしたが、次第に私を安心させるように目が細められる。
殆ど光を宿さないその黒い瞳に非道く安心感を覚える。一瞬で鮮やかになった色彩の中、その黒だけに目を奪われていた。

eclipsissimo