よくそんな言葉を言えたもんだ

探偵社事務員夢主
「ずっとまえに訊いたきり」から派生



この処彼女の様子が変だ。
それに気付いたのは彼女が他の探偵社員――特に男性――に話しかけられている所を目撃した時だった。与謝野女医や鏡花に話しかけられている時は普段通りの様子を見せるが、敦や国木田等の男性陣に話しかけられると彼女は一瞬びくりと肩を震わせ、戸惑う様子を見せてから対応していた。その後の受け答えはいつも通りなのだが様子がおかしいのは明白だった。その対応はまるで何かに怯えているように見えた。
数日彼女を観察していて判ったが、彼女は明らかに「男性」に怯えている。それは周りが見ても判る程に。一瞬の事なので皆は深く追求しないが、彼女が普通でない事は彼女から普段通りの対応をされている女性陣から見ても怪訝に思う程だった。
近寄り彼女の名を呼ぶ。案の定彼女はびく、と肩を震わせた後、振り返ってこちらを見た。「えっ、あ……太宰、さん……?」と恐る恐る見上げてきた瞳には怯えがありありと現れている。これは只事ではないと思い、神妙な面持ちで彼女に問いかけた。

「いつもと様子が違うみたいだけど、何かあった?気分が優れないのかい?」
「あ……っ、いえ、何も無いんです。ごめんなさい、心配かけてしまったみたいで……」

あはは、と笑う彼女の表情は何処かぎこちない。隠し事はあまり得意ではないようだ。ここは踏み込むべきか、と言葉を続ける。

「そうかい?あまり顔色が善くないから心配になってね。何も無いのなら、それで善いのだけれど」

徐に手を伸ばし指の背で顔色が善いとは云えない彼女の頬を撫でる。すると「ひ、」と明らかに引き攣った声をあげ、彼女は後退り太宰から距離を取った。尋常でない彼女の様相に太宰は驚き些か目を見開く。

「あ、あ……ごめんなさい、本当に、何も無いんです……本当に、本当に何も……」

そう云う彼女の体はかたかたと震え始め、怯えた様子で太宰を見つめている。声も徐々に小さくなっていき遂には顔を俯せてしまった。彼女は無意識なのか自分の身を守るように自らの体を抱き締めており、ぎゅっと衣服を掴む手は小さく震えていた。
彼女に何があったかは知らない。だが彼女の心を深く傷付けて、怯えさせてしまう程には彼女は恐ろしい出来事に遭ったようだ。彼女を傷付けた原因に対し憎悪の念が沸々と湧き立つ。だが今はそれよりも彼女の事が心配で堪らなかった。

「場所を変えよう。……詳しく聞かせてくれるかい」

***

太宰は彼女を連れ、横浜市内のとある公園を訪れていた。ベンチに座った彼女は暗い表情で自分の手元を見つめている。ベンチの目の前には海が広がっており、太陽光が反射してきらきらと輝いている。彼女から人一人分開けた箇所に座りながら太宰はそれを眺めていた。
人の居ない所であれば或は、と思い彼女をこの公園に連れて来たが、幸い人はまばらで雑音も少なく話をするにはうってつけの雰囲気となっていた。それが功を奏したのか、ぽつぽつと彼女はつい先日自分の身に起こった事を太宰に話してくれた。

「……成る程。それは怖かったね。他に何処か怪我などはしていないかい」
「怪我、はしてません……大丈夫です」

外傷は加えられていない事を知り内心ほっと安堵の溜息を吐く。もしこれで彼女の体に傷などが残っていようものなら今すぐにでも殺してやる勢いで犯人を血眼で探す所だった。
未だに心の傷が癒えていないらしい彼女に極力優しく言葉を投げかける。そうすると彼女も太宰になら話して善いと思ったのかゆっくりと胸中を打ち明けてくれるようになった。

「あんな事が起こってから家に帰る際、つい考えてしまうんです。またあの夜と同じ事が起こるんじゃないかって、そう思うと帰り道が怖くて、怖くて」

彼女は社員寮ではなく市内の物件を借りてそこで生活していた。これまで帰宅途中で何も起こらなかった為、事件に遭遇したその日も何も危惧する事なく帰路に就いていたらしい。だがそんな中で事は起こってしまった。たった一夜の、数十分にも満たない出来事だがそれは彼女の心に深く爪痕を残した。その事実に太宰は歯噛みする。

「なら、私の処に来ると善い」

気付けばそう口に出していた。間を空けて隣に座る彼女は驚いた表情で太宰の横顔を見つめている。
顔を横に向け、太宰は彼女の視線を真っ直ぐ見つめ返した。その瞳も表情も至って真剣そのもので彼女は思わずたじろいだ。

「その男は君の名前を知っているのだろう?帰路で起こった出来事で、しかも相手はポートマフィアとなれば君の住所なども簡単に割り出せる。また被害に遭わないとも限らない。だからこのまま今の物件に住み続けるのは、正直お勧めはしないかな。ここは一つ思い切って別の場所……若し君が善ければ、なのだけれど、私の処に身を寄せてはみないかい」
「……えっ……で、でもそれは……太宰さんに迷惑なのでは、」
「迷惑ではないさ。君にまたもしもの事があったら、そちらの方が心配だ。それに、何か起こったとしても私が傍に居れば君を守る事が出来る」

じっ、と戸惑いながら見上げてくる彼女の瞳を見つめ、真剣な面持ちで太宰は問いかけた。彼女の瞳はどうするべきかとゆらゆらと揺らいでいる。
まぁ、そう易々と決められる事でも無いだろう。いかに彼女が先日の出来事で恐怖の記憶を植え付けられてしまったとしても、この選択を受け入れてしまったらこれまでの生活とはがらりと変わる訳なのだから彼女が断る可能性だって十分に有り得る。
然し彼女の答えは。

「……な、なら……あの……お世話になっても善いですか……太宰さんの所で」

意外だった。真逆彼女がこの提案に乗ってくるとは。断られる方向を想定していただけに太宰は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていた。それを見た彼女は神妙な面持ちから一転、顔を綻ばせてくすくすと小さく笑い出した。

「……あー、云い出した私が云うのも何だけれど、本当に善いのかい?君は女性で、私は男で、君はそんな処に来る訳だけれど」
「善いですよ。太宰さんなら何もしないと信じていますから」

「太宰さんなら、善いです」

彼女から全幅の信頼を寄せられ、今度は太宰が平常心を乱される事になった。その言葉は反則だろう…、と太宰は内心頭を抱えた。この言葉を聞いたのが自分で本当に善かった。他の男だったらすかさず半殺しにして問答無用で太平洋に投げ捨てている。
彼女からの言葉に幸福と喜びを感じながら、それとは別の処で太宰のどろどろとした独占欲と執着心が顔を覗かせ始めていた。
自分の提案に乗るという事は、彼女は相当怖い思いをしたらしい。然し真逆、こんな形で好機が巡ってくるとは。
表には微塵も出さないが、太宰は彼女を閉じ込め、そして自分だけを見つめて欲しい、ゆくゆくは愛して欲しいという歪な恋心と願望を心の奥底に抱いていた。彼女含め同じ探偵社員には気付かれてはいないようだが、その黒く澱み切った欲求は確かに今も太宰の心に棲み着いていた。否、もしかしたら名探偵には疾っくに気付かれているかもしれない。
そんな中で彼女が事件に遭い、その恐怖に耐えきれなくなり自分の所に身を寄せるという決断を下してくれた。これを好機と云わずに何と云う。
だが彼女の「太宰さんなら善い」という言葉にそれ以上の意味は無いだろう。彼女は太宰が信頼出来るから、只それだけの理由で太宰の提案に乗ったのだ。
そこに多少不満が無い訳ではないが、まぁ構わない。ここから少しずつ、彼女を堕として、自分だけを見てくれるようにしていけば善い。
唇から這い出た狂気は少しずつ、だが着実に彼女を取り巻いて雁字搦めにしていく。そうなっていく様を想像しながら、太宰は彼女に気付かれないように恍惚の笑みを浮かべた。

自分のしている事が道徳や倫理から外れているとか、そんな事は微塵も気にならない。
彼女は只自分の身を守る為、私の檻の中で囚われる事を選んだのだ。だがその中に居る間は私は他の輩から彼女に指一本触れさせないし、私の傍を離れる事も許さない。
可哀想な人。そこが二度と出られない檻だとも知らず、自ら入りに来るなんて。私がどんな想いで彼女を見ていたかなんて露程も知らないで。だがそこに居てくれる限り、私は何においてでも彼女を守り、慈しみ、手中へ堕ちた暁には最期まで愛し尽くすと誓おう。
この想いは歪んでいるのだろうか。だがそんな事は些かも気に留めてはいない。私は只、お伽話のように彼女と結ばれて幸せな結末を迎えたい。これはその始まりに過ぎないだけだ。