Prologue

 キーブレードマスターとは、特に優れたキーブレード使いを指し、光と闇の均衡を見守る存在である。キーブレードの正しい知識と相応の技術や実力を修め、心身共に世界を守っていくに相応しいと自らの師匠に認められた者だけが名乗ることができる。

 闇の気配を感じて、荒野に降り立った少女は、そのキーブレードマスターであった。マスターというには幼い見た目をしているかもしれないが、彼女の実力は熟年のキーブレードマスターたちの目を引いた。少女は結われた髪と、王冠のピアス、腰に巻かれたセパレートを風に揺らして闇の気配を追っていく。
 その姿はまるで踊るように軽やかで、少女の目の前に現れた魔物たちは魔法のように消えていく。

 「あれは…?」

 少女が崖に飛び乗るように登ると、手で望遠鏡を作るようにして目元の前に持ってきて、覗き込む。目の前には見たことのある老人が、地面に横たわっていた弟子であろう少年にキーブレードを突き立てていた。少年の胸元から光が溢れ、そこから闇の塊が生まれ出た。塊は人の形を模していき、ヘルメットで顔を覆い、筋肉のようなスーツに身を包んでいた。体型から見て、少女とそう変わらない、少年であろう。
 少女は面白いものを見つけたように崖から飛び降りると、ウキウキした足取りで、老人と、闇から生まれた少年のもとに向かった。

「みーちゃった、みーちゃった」

 少女は子供のように、老人と闇から生まれた少年の目の前に現れた。老人は驚いたのか、少女を見て目を見開いたがすぐに不敵に微笑んだ。
 老人はぐったりとした少年を抱えて一体どこに向かうというのだろう。代わりに老人の隣にいる闇から生まれた少年を不思議そうにじっと見れば、その少年が「なんのようだ」と言いたげに首を傾げる。

「乙女か…」

 先に口を開いたのは老人で、乙女と呼んだ少女の全身を舐めるように見ると鼻で笑う。少女はそれが気に障ったのか、はたまたその呼び方が気に障ったのか、むっと頬を膨らませて腰に手を当てる。

「…その子を、捨てるつもり?随分と“マスター”が弟子に残酷なことするのね」
「…乙女よ、今は去れ。さもなくば…」
「はぁい。……もう、せっかく会いにきたのに……」

 少女とマスターの関係は、闇の少年にはわからない。
 側から見ればどこか親しげなのに、老人は少女に対してそっけない気もすれば、対等の立場であることは伺うことができるし、老人は少女の姿を通して違う“誰か“を見ている様にも見える。少女はそんな老人に残念そうにため息をつくが、老人の態度にはなんとも思ってないように微笑んでいる。———その姿を少年は美しいと思った

 老人は少女に一瞥すると地面に転がった弟子であった少年を抱え、荒野を少女より先に後にした。きっとまだ人の心はあるのか、弟子であった少年に眠りを与えようとどこか別の世界に向かったようだ
 老人──マスター・ゼアノートが去ったことで、荒野には闇の少年と少女二人っきりになる。

「ねぇ!」

 闇の少年———ヴァニタスは少女に声をかけられたことで意識が覚醒する。

「お願いがあるの、ヴァニタス」

 いつ、この女に先ほどマスターから付けられた名前を教えたのだろうか?いや、もしくはマスターとの会話を聞いていたのか?ますます彼は目の前の少女———予知書の乙女に不信感が増し、先ほどとは違う、大人びた言葉遣いと雰囲気に思わず身構えてしまう。しかし、その姿にも、乙女はただヴァニタスの全てを肯定するように微笑むだけだった。
 乙女はゆっくりと一歩、ヴァニタスに歩み寄り、彼の右手を取って両手で包み込む。その手はどこか暖かく心地よい。

「生まれたばかりで、まだ何もわからないでしょう。苦しいでしょう、悲しいでしょう…貴方は負の感情そのもの、私はそれを否定することも傷つけることもしない。でも、私は貴方に幸せになってほしい」
「何が言いたい」

 先ほどから意味がわからない。と小さく呟くヴァンイタスに、乙女は一瞬驚いたのか目を丸くしてから肩を振るわせる、ふふふ、と口元を抑え微笑む姿は大人びた雰囲気には似合わず年頃の少女そのものだ。

「あら、今ので伝わらなかったの?…十分な愛の言葉を言ったと思ったのに」
「…くだらないな」
「…わかったわ…。ちゃんと言うからよく聞いて…生まれてきてくれてありがとう…愛しているわ」

 その言葉の一言一言が、ヴァニタスの心に突き刺さる。まるで遠い昔、同じことを誰かに言われた気がしてならない。この女か?いや、確かアレは"人間の形"ではない。でも、たしかに、この声のはずだ。優しく透き通った声は、遠い昔、側に…それは 何時いつだっただろうか?

 仮面の内側で、ヴァニタスは混乱し発作のように息が苦しくなり、思わず仮面を地に投げ捨てる。まだ人間の顔を模してない素顔をがあらわになり、乙女の手が離れ、人でいう頬であろう場所を愛し気に撫でる。

「大丈夫よ。落ち着いて」
「っ…お前、何者だ」

 苦し気に心臓部を押さえ始めるヴァニタスに、乙女は目を伏せる。まるで慈悲を与える女神のようだが、混乱するヴァニタスにはもう彼女がただの美しい、年相応の少女には見えなくなっていた。

「…さっきもゼアノートが言っていたでしょう。私は予知書の乙女。御伽話の時代から伝わる予知書、そのものよ」

 その答えに、驚くこともできないまま、ヴァニタスの身体は乙女の手をすり抜けそのまま地に伏せる。ヴァニタスは今、自分がどんな状態なのか理解ができないでいる。これが先程この女の言っていた"苦しい"という感情なのだろうか?
 落ち着かないヴァニタスの様子を見ると、乙女はしゃがみ込み、彼の顔をエメラルドと同じ色をした瞳が覗き込む。

「こんな時にごめんなさい。でもどうしても貴方にお願いを聞いて欲しいの…あのね───」


 乙女の声がひとつひとつ、映画のストップモーションのようにヴァニタスの目には映る。乙女の"願い"を聞き届けると、また馬鹿馬鹿しいとヴァニタスは小さく呟くが、同時に意識を手放してしまう。

 ———一体、あの女は俺にとって何だと言うのだ。






 次に目を覚ました時、乙女の姿は荒野にはもう居らず、荒野にはヴァニタスだけが取り残された。

 ただ、砂埃が舞う風の中、どこか優しい子守唄がヴァニタスの耳を掠めた。




『次に会う時、"私"は貴方のことを忘れているけれど、貴方はどうか私の事を、忘れないで』


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