闇の回廊が開く気配に、コールは本を捲る手を止める。
ヴァニタスがこの小屋を訪れるときは殆ど玄関の扉を使う事はなく、毎回回廊を使い飲食料やたまには娯楽品を届けにくる。今はもうコールはこの部屋から出ることができるため、その頻度は減ってしまったが、こうして彼が小屋に訪れることコールは何よりも楽しみにしていた。
闇の力と匂いが部屋中に充満するもう彼女には慣れっこで、なんなら椅子が倒れるくらい勢いよく立ち上がって小走りで回廊が出現した方向へと向かう。
「ヴァニちゃん! おかえりなさい! って、え?!」
コールは回廊から出てきたヴァニタスの顔を見るやいなや、動揺を隠せなかった。
今のヴァニタスの顔は仮面を取っており、素顔なのだが、いつもよく青白く、身体もボロボロで明らかに体調が良くなさそうだ。それに、回廊から彼自身まで、彼を心配するようにアンヴァースたちが列をなしている。
ヴァニタスはコールに身体を預けるようにもたれ掛かり、「わっ」と小さな声で驚いた後、コールはヴァニちゃん。ヴァニちゃん?と彼の意識を確認する。どうやら意識を失ったようで、それに呼様するようにアンヴァースたちを残して回廊が閉じていく。
「ど、どうしよう!」
確かに、ヴァニタスが怪我をしてこの小屋に戻ってきたことは何度かあった。その度に彼が半ば嫌々コールに手当てをされていた……それだけ、それだけだったのだ、彼がこんなふうに意識を手放しボロボロで帰ってきたことは一度もない。
コールは冷や汗をかきながら急いでヴァニタスの身体を家の中に入れようと自分の体重より重たい身体を引きずってはなるべく揺らさないように静かに自身のベッドまで運ぶ。途中、一体のアンヴァースが心配そうに駆け寄ってきたが、コールは「大丈夫、大丈夫だから」と言い聞かせた。
ベットに運び、まずは彼の左胸に手を当てる。きちんと心臓は動いている。その次に首元、そして口、鼻下に手を近づけ、息をしていることを確認すると、コールは「よかった」と胸を撫で下ろす。
コールはヴァニタスに対して、特別な思いを抱きつつある、それはきっと恋に近いが、友情とは違う、不思議な感情。コールは愛しいとすら彼を思っている。それに、コールは気づきつつもある、彼の正体に。何もそれだけじゃない、
コールはたとえ彼がどんな存在であろうと愛しみたいと、守りたいという感情に襲われる。
ヴァニタスの頬を撫でて、額と額を重ねる。その姿は聖女が慰めを与えているようで美しい。
「愛しているわ、ヴァニタス。たとえ姿が変わっても」
額を離せば、コールは柔らかな笑みを浮かべる。予知書としても、人としても変わらない気持ちは、二人っきりの室内に響く。
「この時間が永遠に続けばいいのに……でも、それはイケナイコト。私も貴方も成すべき事があるのだから」
それはコールの本心でもある。それなら、予知書としての使命を放棄してでも、どこか二人で逃げ出したいと思う。そうすれば、彼を苦しみ、痛みから解放する事ができる。でもそれは敵わぬ事。予知書に書かれた未来は、禁忌を犯さない限り覆ることはない。
もし、二人で逃げ出す事ができたのならどこか海の見える綺麗な場所で暮らすのもいいかもしれない———。
ふと、ヴァニタスの瞼が震え、そろそろ意識を取り戻そうとすると、コールは一瞬、驚いたように目を見開き頬を撫でていた目を引っ込めると、ベッドの脇から離れる。
目を覚ましたら、彼はお腹を空かせているだろうか?あまり、料理という行為はコールはした事がないが、どうせこの日々は長く続かないのだ。それなら、今度は自身が粥を作ろう、かけがえの無い彼のために。
「これではまるで、人間の夫婦のようね」
そう言ってくすくすと子供のように笑うコールに、心配そうに部屋の前にいたアンヴァースが彼女の肩に飛び乗る。
人間は互いに助け合う。二人は人の形をしているが、人間では無い。ただの人もどきのごっこ遊び。それでも、今この瞬間が幸せだと、コールは感じる。
(彼のために、人の
コールは肩にいるアンヴァースを愛しげに撫で、「お粥には何を入れようか?」と、寝室を後にする。
2.
どこか懐かしさを覚える見知らぬ地に、気がつくと立っていた。
大広間のような部屋には、大きな時計の裏に存在するのか、その隙間からあふれてくる光が眩しい。紫色のステンドグラスで囲われたその部屋には、薬品の匂いや、古びた本の匂い、インクの匂いが混じっていて気持ち胃が悪い。装飾品などは美しいのに、部屋のものの多さや匂いが、この部屋の本来の持ち主の性格が出ている。
その部屋の机一つに、一冊の本があるのが目に入る。そこらへんに積み上げられたりされている本とは何かが違う異質な本。あぁ、違う。異質と感じるのはこの本溢れる“未来への光“だ。眩しいばかりに美しい。俺はこれを知っている。“アイツ”がよく書いていた、あの予知書とかいうやつだ。
ふと、その本から笑い声が聞こえた気がして耳を凝らす。
「お前、
『えぇ。そして貴方が私を見ていたように、私も貴方を見ていたわ。ずっと』
その声は少女のようだが大人びたような言葉遣いをしており、それもどこか心地よい子守唄のようにも聞こえる。
もし、予知書に姿があったらどのような姿なんだろうか?きっと、誰にでも歩み寄り、優しく女神のように微笑み、美しい少女なのだろう。……一人、頭をよぎった姿は紫色の長い髪を靡かせて、無邪気な子供のような笑顔を浮かべている。優しく手を引いてくれる彼女は一体、誰だっただろうか?思い出せずに頭に靄がかかっていく。
『……もし私に身体があったら、貴方に触れることができるのに』
「いきなり何を言う」
『事実、この身は予知書。身体がない、ヒトのように触れ合うことはできない』
淡々と告げるその姿に、呆れたように頭を抱えたくなる。彼女は何の気があってそんなことを言っているのだろう。まるでそれでは愛……人間で言う恋人のようだ。それも、初対面の闇に向かって———
『なぜ私がこんなことを言うのか、気になっているの?……ふふ。そうね、理由はいくつかあるのだけれど———』
貴方の闇が、一番綺麗だからよ———。
突拍子もない答えに、思わず口があったら、呆れたように息を吐いているだろう。その様子に気づいたのか、代わりに彼女がくすくすと小鳥のように笑う。
『そう謙遜しないで。私は事実を言っているまで。貴方の闇を色で言うなら…黒になりきれないブルーブラック…それに映える鮮やかな紅色』
ほら、とても綺麗じゃない?
浮き足立つように声が高くなる彼女の話について行けなくなり、その場を後にしようとする。これ以上、彼女に振り回されてはたまらない。それなら数日に一度は振り回されているのに………?今、いや、先ほどから誰のことが頭をよぎるのだろうか?
「ついていけないな」
『ふふ、それでも私は貴方とお話しできて楽しかったわ』
———さようなら、XXXXX。また会いましょうね。
もう一度振り返ると、
◾️
「あ、起きた!……ヴァニちゃん大丈夫?」
ヴァニタスが重い瞼を開ければ、見慣れたエメラルドの瞳が心配そうに覗いてくる。それに便乗して、フラッドまでも枕元まで這い寄ってきたと思えば顔面に張り付くように飛び乗ってきて目の前がよく見えない。
フラッドのせいもあり、ヴァニタスは今の状況が読めないが、ここは見るところ、コールの自室の柔らかいベットの上に寝転がらされていることは事実である。
「お粥でも食べる?あ、こーいう時って擦りおろしたりんごのほうがいいかな?」
「……それよりもこいつをどけろ」
わ、ごめん!と言葉と共に咄嗟に手が伸びてきて、フラッドはコールにされるがままに引き剥がされるが、まだ
「ヴァニちゃん、大変だったんだよ?息はあったけど意識はなかったし、怪我も酷いし……ある程度は魔法で直したけど……」
そう言いながら、そっと床にあるトレーからお粥の入った茶碗を傾けスプーンで掬うコールを見てヴァニタスは絶句する。コールに特に何か変わったことがあるわけではない。問題はその粥の色と匂い。毒々しい色合いに、訳もわからない魚の骨が突き刺さり、匂いもどこかこの世のものとは思えない。ヴァニタスでもこれは“病人に食べさせるものではない”と言うことはわかる。
スプーンを「あーん」と口元に近づけられ、思わず病み上がりの顔をひくつかせる。
「……自分で食える…一人にしろ」
深いため息に、もうそれ以上近づけてくるなと圧をかけられ、わかりやすくコールは残念そうに眉を下げる。
形はどうであれ、ヴァニタスのために作ったものを、食べてくれないのは乙女心的にも苦い気持ちがある。
「もう、そんなこと言って!また倒れても知らないから」
そう言って頬を膨らませ、表情がコロコロ変わるコールに、ヴァニタスは先ほど夢でみたあの予知書を思い出す。
もし、あの予知書が目の前にいる“コール”なら、長い時を得てここに存在し、夢の中で自身の視点であった“闇”がもし、本当にかつての自分なら……どれほどの想いと感情で今ベッドの脇に立っているのであろうかとヴァニタスはふと思う。
それに、荒野で“初めて”会った時のあの言葉が本当なら、彼女は本当に自身の幸せを願い、人間で言う“愛”に近い感情を抱いているのだろうと今初めて理解する。いや、本当は初めから理解していたのかもしれない。
———予知書の乙女はヴァニタスを愛している。
ヴァニタスが一人、答えに辿り着いてるうちに当の本人は「もう知らないんだから!」とそのまま脇から立ち上がり、部屋を後にしようとするが、コールの動きが何かに阻まれてぴたりと止まる。コールがゆっくり振り返ると、彼女のパレオの裾を上半身を起こしたヴァニタスが掴んで離さない。
目を見開くコールに、俯いていたヴァニタスがそのままパレオから手を話して流れるように彼女の右手首を掴み、引き寄せる。
勿論、突然のことにコールの身体は引き寄せられるままヴァニタスの身体と後ろから密着する形になる。
「ヴァニちゃん……?」
顔こそ見ることはできなあいが、ヴァニタスの様子がおかしい事に気づき、思わずコールは声を振るわせる。こんなヴァニタスを見るのは、初めてだ。
まるで今から肉食獣に食べられてしまうのではと言う恐怖から咄嗟に目をつぶってしまう。確かに男は皆獣だとは言うが、今のコールにそれを笑って受け流すことも、もう一人の“自分”に変わることもできないことに歯痒さを感じて、ただ心臓が飛び出す音がするだけだ。
コールが震えている中、ヴァニタスは彼女を安心させるように彼女の身体を後ろから強く抱きしめ、自身心臓を同化させるようにと密着する。そうすると、だいたい同じ身長のため、コールの肩にヴァニタスの顎が乗るような形になり、
コールの肩は女性的であり華奢だな、とヴァニタスは感じ、あぁ、代わりに他の部位に肉がついているからか、と一人で納得する。
首筋から肩にかけて優しく触れれば、コールはそれから逃げるように大きく身体をうねらそうとするがガッチリと抱きしめられているためそれは敵わず、ヴァニタスにされるがまま震えて目を瞑るしかできない。
ふと、コールのインナーから伸びる腕に目がいく。真っ白で傷ひとつない。綺麗で細い腕。その腕で、一体どれほどの人間を抱きしめてきたのだろうか?彼女の性格上、挨拶がわりにでも誰彼構わず抱きついていただろう。
そう考えると、沸々とした感情が湧き上がってくる。下手をすれば、このままアンヴァースを産みかねないが、コールがそばにいるからか、どんなに今、抱きしめている女に対しヤキモキした気持ちを抱えようと、アンヴァースが生まれる様子は今のところない。
初めてのことに、自身でもどう対処したらいいかもわからず、ふと、口を開けて息を吸えば、また吐くようにしてコールの首元に歯を立てる。
「いっっ…!ぁっ」
痛みで思わずコールは涙目になった瞼を開け、再び身体をばたつかせる。しかし、優しさ故か彼女は拒否する言葉を吐かず、ヴァニタスのことを魔法でも使って突き放そうとする様子は見受けられない。
その様子と、白い肌に浮かぶ自身の歯形とうっすら滲む血を見て、ヴァニタスは背徳感と所有感に駆られ、思わず鼻で笑う。
「へぇ……どうやら“この“身体は人間のようだな」
「ヴァニちゃん…さっきからどうしたの……?私、何かした?」
コールの声はヴァニタスが思っていたより震えていた。むしろ、こんな彼女の声は聞いたことがない。
「何もしてない……“お前は“な…」
「私は……?」
「……もしかして、気づいていないのか?本来のお前に」
本来のコール、それは予知書の乙女のことっであり、予知書そのものということである。
ヴァニタスはコールと乙女の意識、自我は少なからず繋がっていたと思ったのだが、彼女の反応を見るにそうでもないことを知って、歯痒さを感じるが、そういえば、“荒野”で初めて会った時にそんなようなことを乙女が言っていたようなと思い出す。
「……気づいてないわけじゃないよ。ほんわりとしか、私は“私“の時の意識はないし」
コールが長いまつ毛を目を伏せ、自身を抱きしめているヴァニタスの腕に手を添える。
実際、コールがもう一人の自身がいることに気付いたのは最近のことであり、あの黒髪のオールバックの男と喫茶店で密談した時のことである。
「でも、昔のことは覚えていない。私が“いつから”存在しているのか、この身体は元々誰のものなのか、私は何も知らないしわからない。……分かるのは、私が人の身体を得ている……予知書だということ」
気持ち悪いよね?そう言ってコールは後ろにいるヴァニタスに振り返っていつものように微笑む。彼女のその言葉を否定したかったが、ヴァニタスはその言葉を飲み込んでしまい、何も言うことはできない。自身もそう、変わらない存在であるからだ。
コールが振り返ったことで、彼女からヴァニタスの正面に向き直り、彼の身体を今度はコールが抱きしめる。
「『姿が変わっても、私は“私”』そう、ヴァニちゃんと喫茶店に行った時“私”は言ったよね?」
「……それがどうした」
「もし、“私”が遠い昔から誰かを想ってたとして、そのためにこの身体を得たとして、その相手はきっとヴァニちゃんだよ。私は“私“だもん。……だって私、ヴァニちゃんのこと———んぐっ?!」
刹那、コールの声と口は、ヴァニタスによって塞がれてしまい、コールは大事な言葉の最後を言うことはできずに代わりに数秒後に口を離した後に銀色の糸が引かれていく。
咄嗟のことにコールは顔を耳まで赤くして口を鯉のようにパクパクさせてはヴァニタスは「馬鹿みてぇな顔」と一蹴する。それに顔を真っ赤にさせたまま口を噤んだコールが、消え入りそうになる声で「馬鹿」と言ってお互い顔を見合わせればまるで恋人のように抱き合い、笑い合う。
もうこんな日が、いつまで続くかわからないことを、予知書の乙女たるコールは知っている。それならば、今度はきちんと伝えねばならない。
「ヴァニタス、愛しているわ」
その声は、コールとも、予知書としての彼女としてもとれる声と表情で、思わずヴァニタスは目を丸くするが、彼女からのキスを目をつぶって受け入れる。その心地よさに、そのまま眠りに落ちてしまいそうだ。
コールが口を離してからも目を瞑ったままのヴァニタスに