あんパンにはこしあんでしょ。
その一言で、膝枕していた男に噴火したての火山のごとくキレられた。
何だその地雷原。誰がわかる。
「……無い無い無い無い!! 雲雀、それはぜっっってー無い!」
「うるさい。黙って」
ヒュッ。
「ほら〜まぁたトンファーで殴るし〜」
ばたばた。視界の端、ばたつく手足がうっとうしい。赤子か。
押し出されるように、雲雀の口からため息が零れる。この男(ひと)、本当にハタチなのか。
「当たってないでしょ」
「そら避けたからな」
イラッとした。額を弾かれたみたく。
だらしなくソファに寝そべるハタチが、即答。なんだコイツ。腹立つ。
「僕が手加減してあげたからだよ」
「コンマ数秒で得物振り下ろすのを、手加減とは言いマセン」
のびーんと伸びた体躯を持て余した姿は、さながら大型犬だった。警戒心ゼロ、本能も消滅。むしろ振り切れてマイナスあたり。バカ犬だ。
いい加減、膝が重い。痺れてきた。どっかのバカな大型犬が、ずっと頭を乗っけているからだ。邪魔。すごく邪魔。こっちはソファで読書中だというのに。
「じゃま……」
「ソファで本なんか読んでるからだ。やめろやめろ」
ばたばた。またばたつく。膝の上、ふわふわの猫っ毛がつられて揺れた。
犬なのに猫。この男はなんていうか、色々な動物に似ている。動物園中の生き物を詰め込んだような、そういう。
「邪魔なのは本じゃなくて、君。重い」
「この重さに愛情とか感じない?」
何言ってるんだこの人。
書類に立て続けの誤字発見。そういう目で見下ろした。なのに、仰向けの相手はなぜか笑う。
「膝にかかる重みも愛しい、って思うのが恋人だろ?」
「僕にマゾの気質はない」
色々ツッコみたい事はあったが、とりあえずそこで口を閉じた。ふにゃ、とだらしなくゆるむ口元。バカ犬らしい表情だ。締まりがない。
「知ってるよ。お前ドSだもんな」
「言いがかりにも程がある。プライバシーの侵害って知らないの?」
自分を見上げる唇が、ふぬけた孤を描いている。まずはその隙間から、指でも突っ込んでやろうか。
「知ってるけど。俺、にじゅうご。雲雀より年上」
文節で区切る喋り方。少なくとも、25歳でマフィアで暗殺者な男の話し方じゃない。
「別に、君より年下だなんて明言した覚えはないよ」
「エッ何ソレこわぁ……」
「ほら、早く頭どけて。馬鹿犬」
「何それ。俺の事好きってこと?」
ころん。横向きになった男が、頭の悪い発言と共にくくっと笑う。他人の腹の前で笑うな、大馬鹿。
白い花弁がパッと開くように、晒されたうなじが目に付いた。ピン、と来る。相手が大勢を変える前に、顔を寄せた。
「ん、なに雲雀、」
キスする?
ふにゃっと緩む横顔。寝言レベルの軽さだ。目前に迫る恐怖にも気付かずに。
警戒心を失ったバカ犬め。防衛本能も失って。
くわっと、口を大きく開いた。
「っッっってーーーーよバカ!!!!」
ガシャンッ。ドアが吹っ飛んだかと思った。
風呂場から飛び出してきた葵が、真っ赤な顔で仁王立ちし、睨んでいる。自分を。
「へぇ」
本から目だけ上げ、頷いてみせる。
リアクションは大事だ。社会的生物として。
「……とりあえず本閉じろ、この噛み付き魔」
葵の目が三角につる。
「人を色好みみたく言わないでくれる?」
「動物っつってんだよ。それも特定猛獣並みの」
ずかずか。大股で歩いてくる葵の口調は、乱雑だ。
苛立つと、途端に口が悪くなる。この男の悪癖だ。出会った時から変わってない。
「ヒトの、首を、許可なく噛んではいけません。オッケー?」
「ちょっ」
ヒョイっと本を奪われる。雑草を引っこ抜くような粗暴さだ。
「シャワー浴びた瞬間、俺がどれほどの苦痛に悶えたことか」
「噛まれた直後は喜んでたでしょ。痕付けんなって嬉しそうに」
1秒の間も許さず事実を告げる。一方的に被害者面されては困るのだ。
ついでに、葵の手から奪われた本を取り上げる。危うく、どこまで読んだかわからなくなるところだった。
「人を真性のドMみたく言うか、フツー」
この流れで。腹立だしげに、葵が前髪をかき上げた。
濡れそぼった髪は、雨に打たれた狼に近い。黒っぽい直毛。その首筋に、確かに痛そうな痕があった。
切り取り線みたいな歯型の痕。半円を描くその赤黒さに、本を閉じた。
「事実でしょ」
「ハイ、お前名誉棄損」
「ドMなのは認めるんだ」
ソファの端に本を置く。それから、ひらひらと軽く手招いた。
「ベッドの上ではな」
葵が軽く肩をすくめる。
「……冗談だったんだけど」
「おま、ドン引き顔やめろ」
ふら。葵が寄ってくる。催眠術にかかった小動物みたいな足取りだった。
近付いた頭に手を伸ばして、ぐんっと下げさせる。つむじあたりに顔を寄せた。ふわっと香ったシャンプーの甘さに、口が緩む。
「なに、雲雀」
くすぐったそうに震える声。もう、機嫌は直ったらしい。
お手軽な人だ。慣れたシャンプーの香りに鼻をうずめて、囁くように告げる。
「……今日、泊まるから」
「どうぞ?」
くすくす。密やかな笑い方に、ちょっとムッとする。なんだその、余裕っぽい笑い方。
今夜は泣かそう。内心で、そう決めた。
あんパンにはこしあん。膝枕が好き。噛まれるのも好き。
1人で痛がるのは嫌い。本を読まれるのも嫌い。要するに、2人の空間が好きなのだ。この男は。
「お前、このシャンプー嫌いだって言ってなかったっけ?においが甘ったるいって」
「もう慣れた」
「あ、そう」
慣れたのは、自分も使うようになったからだ。
狭いソファを2人で陣取るのも、同じベッドのシーツにもぐり込むのも。
こういうのを、半同棲、と言うらしい。世間は。