2,愛は泣いたりしない・上


「あー……キョウヤ」

 なに、その顔。
 雨の中をはしゃぎすぎて水たまりに頭から突っ込んだ。今は反省してます。みたいな感じの大型犬が、しょんぼり玄関に立っていた。
 金色の犬。鞭さばきが得意で強くて事あるごとに師匠面してくる、うっとうしいずぶ濡れの。

「……何、ソレ」

 後半2文字に、最大級の苛立ちを込める。自称・師匠の顔が引き攣った。

「あー……」

 濡れそぼった前髪から、雨水が落ちる。ポタン、と当たった先を見て、胃が震えるような感覚がした。
 ディーノが肩を貸す、目を閉じた男の額。

 玄関。ドアを叩く雷雨。怒り狂った誰かが、手当たり次第に殴っているような轟音だ。
 そして、目の前にはびしょ濡れの犬が2匹。

「……ココは保健所じゃないんだけど」
「そりゃ、そうだな。ココは、お前と葵の家だから」

 ディーノが、力なく笑った。




 ずぶ濡れの子犬を見捨てるほど薄情じゃない。ので、雨に浸かった2人を部屋に入れた。

「この状況を説明してよ」

 バスタオルを投げる。ふへっ、と情けない声が聞こえた。見れば、金髪の伊達男が顔面キャッチを決めている。

「見事だね。余興とかに使えそう」
「お前、ホンット気遣いとかねーな!」

 シカトを決め込んだ。ボリューム調節を間違えたラジオみたいな煩わしさ。
 そもそも、自分にしては優しい方だ。片手にでかい犬を抱えていなかったら、金髪は後頭部から壁にクラッシュしているだろう。

「で?」

 じろり。ソファに座り、一瞥する。膝に乗せた男は、相変わらず夢の中だ。
 一応五体満足です、という報告はすでに聞いた。が、肝心の詳細を聞いてない。

「……怒らねぇ?」

 ずる。顔面から滑り落ちたタオルを手に、ディーノが情けなく笑った。ぺたんと折れる両耳が見えるようだ。

「怒らないよ」
「出た、ぶち切れる奴の常套句……」

 なら聞くな。ぼやく相手をひと睨みする。
 膝に乗った頭が重い。おまけに濡れて冷たい。調子を崩した時のように、胃の底が震えていた。

「いやあ、それがさー……」

 ぼそぼそ。さっきからディーノは歯切れが悪い。

「何なの。早く言いなよ」

 ぐっしょり濡れて絡まった髪は、さっきから少しも上手く拭けなかった。イラ立つ。この場の全ての人間に。
 手際の悪い自分にも、押しかけてきたくせに口ごもる金髪頭も、昏々と眠り続ける葵にも。

「『仕事』絡みなんでしょ。なんで、病院連れてってないの」
 いつもならそうしているはずだ。土砂降りの中、ココへ来るんじゃなくて。
「あー……、それがな、別に怪我してるワケでも意識無いワケでもなくて、」

 窓ガラスをつたう水滴みたく、ディーノの言葉が空を滑っていく。タオルを動かしながら、人形みたく動かない横顔を見ていた。白く固まった顔。人に捕らえられた狼を思わせる。
 雲雀が嫌いな表情のひとつだ。こういう時、ああこの人は年上なのだな、と冷めたところが呟くのだ。

「あーそのぉだから…………ハニトラ!」

 は?
 ちょっと感傷に浸った心もぶっ飛んだ。顔を上げる。

「っから、ハニートラップ!」

 バスタオルを頭から引っ被り、ディーノが喚く。なんだ、そのヤケの起こし方。

「……ハニートラップ」

 繰り返した。自分の口で言えば理解できるかと思ったのだが、ダメだった。理解できない。

「そ!囮になってもらったのは良かったけど救出遅れて媚薬盛られてます!以上!!」

 怪人・タオルお化けが言い切る。前に、テレビのリモコンを投げていた。




「……っんでリモコン投げたんだよ?!」
「1番近くにあったから」
「そーじゃねぇよ!」

 まぁトンファーじゃないだけマシだけど、とぼやかれる。そうだ、トンファーを投げれば良かった。今更気が付いた。動揺している。

「怒らねぇって言ったじゃん……」
「言ったっけ?そんなこと」
「2分前の発言を思い出せ、恭弥!」

 いくら何でも短期記憶すぎるぜ、と金髪が嘆く。

「僕は過去にこだわらない人間なんだ」
「ハイ嘘!めっちゃ嘘!」

 ティッシュ箱を投げる。とりあえず、煩いラジオを黙らせることには成功した。

「……で?」
「状況説明には尽力尽くしたんだけど、オレ」
「『ハイ嘘』」

 鼻で笑う。タオルを外したディーノが、ぐしゃっと苦笑した。
 聞き分けの無い子供に、善悪の知識を叩き込むような。たまに見る顔だ。自分の元に「修行」と称して現れる時と、よく似た笑い顔。

「付き合ってんだろ?」

 唐突に問われた。
 いきなりナイフを突き付けるような聞き方だ。暴力的な突発性。らしくない。

「……だとしたら?」

 問い返す。真顔を保つのは上手くいった、と思う。

「その返しはおかしいだろ」

 笑顔の種類が変わった。黄色の瞳が心底おかしそうに瞬く。ぬるい日光みたく、笑みの温度が上がった。
 葵と一緒だ。パチンとスイッチを切り替えるように、表情を変えるやり方。仕事柄だろう。今、自分の膝で眠る男も、多くの笑みを他人に向ける。
 雲雀以外の他人に。

「どっちが上?」
「はぁ?」
「寝る時」
 
 久々に、本気で言葉を失った。じっと見つめ返す。
 マフィアのボスが、柔らかく笑っている。タオルじゃなくて銃を持っていたとしても、同じ表情で笑うんだろう、と思った。目だけが冴えた笑い方。
 一戦交える最中に、時折見た。攻撃に回る瞬間の瞳だ。

「オレが介抱してやろうと思ったんだけど」

 金色の瞳は、凪いでいた。こちらを飲み込むように。

「けど、お前と付き合ってるって聞いたから、かわいそうかなって、」

 衝撃と熱。手首に。意志を持った熱湯に飲まれるような激痛だ。トンファーを持った腕に、痛みと痺れが走る。反射で歯軋りした。
 ガンッ、と鈍い音が耳に響く。動きを止められた数秒後に聞こえて、自分の聴覚がズレているのに気が付いた。胃の震えが、沸騰レベルに達している。

「……放してくれる?」
「壁に穴あける気か、お前は」

 ばか弟子。金色の目をゆるりと垂れさせ、相手が笑う。
 トンファーに絡んだ鞭が、ギシギシ鳴っていた。凶悪な蛇の如く、雲雀の腕をらせん状に彩っている。

「あなたに穴をあける気だった」
「躊躇とかねぇな、相変わらず」
「帰って」
「はーい」

 鞭が緩む。すかさず、トンファーを振り被った。
 ディーノが笑顔で手を動かす。そこまで読めた。ホント、腹の立つ人。
 どうせ、計算できてるに違いない。後ろのソファで眠る葵に、放った鞭が当たらない距離間も。





「……ストップ」

 喉元を掴まれたように、皮膚が粟立った。どくり。心臓が、一拍分ひっくり返る。
 恐怖と驚愕は紙一重だ。いつか、そう言って笑っていたのと同じ声が、自分の首筋に埋まる。
 背後から、手首をぎゅうっと握り込まれた。慰めるような優しい手つきで。

「雲雀、ストップ」
「……君、」
「遅かったな、眠り姫!」

 呪文を唱えるように、ディーノが声高らかに笑った。
 ふわり。一歩遅れて、馴染みのある匂いが自分を包む。後ろから。
 覆い被さる葵の、その身体から。

「……葵」
「雲雀、」

 なんとか、首を回す。すぐ横で、綺麗な瞳が微笑んでいた。
 どくり。心臓が、一回転する。そんなはずないのに。

「おはよう」

 そう笑った男の顔を。
 世界で、1番見たかった気がした。

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