海に来たのは、ずいぶんと久しぶりだった。
「冬の海も悪くないね」
「雲雀! 見ろよコレ!」
相変わらず、人の話を聞かない男だ。自分の事は棚上げにして思う。
砂浜を駆けまわっていた葵が、はしゃいだ顔で戻ってきた。手に何かを持っている。
「なに、コレ」
「ガラス玉じゃね?」
「へぇ」
「リアクションうっす」
口をとがらせた葵は、幼く見えた。飼いならされた大型犬にも似ている。
砂浜を跳ね回り、得意げに拾い物を運んでくるところとか。
「なんか他にあんだろ、もっと。キレイ〜とか、変わった色だねとか、食えるの? とか」
「僕を何だと思ってるの」
ガラス球を食物と勘違いするほど、飢えてはいない。
「水色。海を溶かしたみたいだ」
「出た。詩人」
「またイタいって笑うか?」
波打ち際へ駆けていく葵が、いたずらっぽくニヤけた。女子生徒みたいな軽やかな足取りで、雲雀の3歩先を走っていく。
「笑いはしないけど、覚えておくよ。君の黒歴史として」
「うわ〜、性格わりぃ」
何年後か、君が忘れた頃に掘り返してあげる。
そう言いかけた言葉は、飲み込んだ。鈍い日光が、波に反射してまぶしかったから。
「じゃあ、もっとイタい発言するしかねぇな」
「はあ?」
何を言っているのか。
やっぱり話を聞いてない、と思った先、遠くなる葵が手を振った。
「そしたら、雲雀はずっと覚えててくれるだろー?」
ゆうに、サンダル10歩分。走れば一瞬で追いつく距離で、彼は何でもないような顔で笑っていた。
「……別に」
だから、呟いた。この遠さなら、届かないと知っていて。
「別に、そんなことしなくても覚えてるけど」
波の音がうるさかった。他に誰もいない分、はやし立てるように。
「海、好きなんだよな。俺」
「へぇ」
「リアクションうっす」
このやりとり、と思った。さっきもした気がする。
砂浜に座り込んだ葵の隣へ、立ったまま並ぶ。座るのはしゃくだった。
足のサイズ、長さ。それだけで、差を実感する。年齢とか、体格とか、経験とか。
「なんか他にあんだろ〜」
「なに、海って食べられるのかい?」
「そのリアクションは今求めてねぇから」
笑う顔。子どもっぽく見えるその表情は、嫌いではなかった。
「海は身近だからかなぁ。体ひとつで飛びこめるし」
「え、あなた泳げるの?」
「俺を何だと思ってる。雲雀の頼みならクロールで太平洋横断してやるよ」
「別にいい。僕に利益がない」
「釣れねぇな〜」
自分より多くを見、多くを聞き、何かを切り捨て何かを手放してきた人が、自分にだけ見せる幼さ。
仕方ないねという優越感に、甘やかしてあげようという征服欲。支配欲と言い変えても良いかもしれない。そういう感情がないまぜになっているのだと思う。
おかしな話だ。この人は、誰にも支配なんてされないのに。
「雲雀」
呼ばれた。目だけで、斜め下を見る。
体育座りの格好で、葵がこちらを見上げていた。両腕に顔をうずめたまま、顔色をうかがうように。
「……なに」
「お前、こうやって見るとでっかいなぁ」
「こうやって、は余計」
「ふふ」
何がふふ、だ。気持ち悪い含み笑いをするな。
やさしい目の温度は温かかった。ぬるま湯みたく微笑む口元が、こちらの胸まで溶かしては削っていくようで。
「お前は、どんどん大きくなっていくんだろうなぁ」
独り言じみた、静かな賛嘆だった。
どうしてこの人は、時おり兄のような目付きを見せるのだろう。年上である事をことさら強調するかのごとく、物静かで何かを眩しがるような眼差し。
それはディーノに似ていて、けれど、ディーノより暗かった。
「人間は、生きている限り成長し続ける生き物だよ」
だからその度、雲雀は振り払う。葵の目にかかる影を。
「まーた雲雀サンはカッコいいことを言って」
「あなたが上から目線で発言をするからだ」
「いや俺、お前より年上だし」
「戸籍を確認してみたかい?」
「えっ? いや、してないけど、ってえ? 何その前フリ? ちょっと怖いんだけど……」
怯えた顔付きで戸惑う、齢20でマフィアな男の情けない姿に思わず笑った。
ねぇ。時たま、雲雀は思うのだ。
あなたは、何に怯えているの。何が怖いの。
「うわっ、なんか急に波きた! 濡れる! 撤退するぞ!」
「潮が満ちてきたんだ。そろそろ昼過ぎだし、そういう時間だろう」
「なんでお前そんな悠長なの? 1ミリたりとも濡れてねぇし」
「僕はそんなヘマをしない」
「さっすが、雲雀サンは満潮を前にしても動じませんね〜」
年齢。立場。信念。過去。その差が生むすれ違いか、いずれ互いが障害となる未来にか。
歳が一緒なら、ディーノみたく同業者だったら、守るべきものが等しければ、いっそ生まれ落ちた場所が同じであったなら。
夢物語だ。子供のように走る葵の背を眺め、思った。濡れそぼったシャツがひらひら揺れて、白い蝶々みたく遠くなる。
でも、そうであったなら。
自分達は、終わりを意識しないでいられたかもしれない。
背後で、波音が轟いでいた。砂浜をガリガリ削るように、どこか空々しい騒がしさで。
警告していたのかもしれない。冬の海を訪れる異端者2人に向けて、追放するにも似た響きで。
もうすぐ、冬が終わる、と。
何事もにも終わりはある。
それが、たった1つの小さな鍵だったとしても。