9,酸化する青


「ハイ、これ」

 チャリ。無理やり引っ張られた手のひらに、冷たい金属がのる。
 カギだ。どこにでもある見た目の、玄関のカギ。

「……なに、これ」
「俺、もうここには帰ってこないから」

 ここにしかない、2人の部屋のカギ。

「……ああ、そう」

 とりあえず頷けば、葵は薄く苦笑した。

「相変わらずのリアクションだなあ。点数制ならマイナスだぞ」
「誰が点数付けるの、それ」

 適当に返す。手のひらのカギをひっくり返した。
 何の変哲もないカギだ。なのに、並中の応接室のカギと同じくらい大事にした。
 何度も使った。手になじんだ重さだ。
 それが、今はこんなにも冷たい。

「薄情者! って泣いたら抱きしめてやるのに」

 どんな顔して言ってるんだと見てやれば、葵は普通に笑っていた。

「昼ドラの見すぎじゃない?」
「残されるヒロインは泣き崩れるのが定石なんだよ、雲雀!」

 最後まで茶化そうとする姿勢は立派だ。ほんの少し首を上げた先、笑顔を崩さない整った顔に、そう思った。
 どうせ、何をしたって出て行くくせに。

「あの手のヒロインの元には、主人公が必ず戻ってくるのが定石でしょ」

 静かに返してやれば、葵の笑みが固まった。
 最後の反駁だ。悪事を暴かれた飼い犬のような顔を見ながら、凪いだ心でそう思った。

 こんな日が、いつか来る事は知っていた。
 合鍵を受け取った時に。初めて同じベッドで寝たその日に。シーツを一緒に干した昼に。
 多分、互いに。始めから、今日まで。ずっと。

「何が心残りなの」

 静かに、意識していつもと変わりない声で訊ねた。
 起伏の無い声音を出すのがこうも難しいとは。予想通り、自分の心は全く波打っていないのに。

「あなたの心残りを解消してあげる。最後だから」

 さいご、の言葉に力を込めた。ぴくり、と葵の眉が跳ねる。
 手のひらのカギを握りしめた。度を越えた握力に、角ばった金属が皮膚に食い込む。

「そうすれば、あなたは専念できるでしょ」

 あなた自身の人生に。


 いつか、こんな日が来る事は知っていた。
 雲雀に悲観も諦念もない。ただ、いずれその時が来るならば、全て白紙にしてあげようとは思っていた。
 お互い、1人でも生きていける。それだけの証明ができる人生を送ってきた。
 唯一の誤算は、唐突に出会ってしまった事だ。突然、何の前触れも予感もなく。


「お前には解決できないよ、雲雀」

 突発的な物言いだった。攻撃性すら感じる勢いに、眉をひそめる。
 すぐ目の前に立つ人物から、暴風雨のような空気が滲む。雨に打たれた狼にも似ていた。初めて会った時と同じだ。

「僕に不可能はないよ」
「神様気取りはもうおしまいにしろよ」

 不穏な言葉選び。雷をまとったような、肌をピリピリさせる声の低さが特徴的だった。
 その顔はとっくに笑っていない。黒い瞳が、凶悪な目付きにゆがんでいた。

「お前は10代の学生で、俺より弱くて、世間知らずな、ただの子供だ」

 黙って、見上げていた。傷付くような心は持ち合わせていない。
 それも、言葉を発するたびにえぐられたような顔をする相手が前にいるなら、なおさら。



 左手に買い物袋を提げる癖。札束を指で弾いてから数える仕草。
 猫みたいにすり寄るしなやかさ。思案に沈むと孤独な狼のようになる横顔。
 あたたかな匂い。高くも低くもない温度。空気に溶けるような柔らかな気配。
 全部、どうでもいいことだ。これから何の役にも立たない、雑多な情報。

「少しだけ、長くいすぎたね」

 そう思った。心から、正直に。
 いつか終わりが来るのなら、もう少し薄めておくべきだった。言葉の投げ合いも触れ合いも、視線の温度も。
 全て白紙に戻すには、少しばかり鮮やかすぎる。

「……ごめん」

 不意に、葵がぐしゃっと顔をゆがめた。

「なんで謝るの」
「ひどいこと、……言った。思っても、ないのに」
「ほんとかい? 多少は本音だと思ったんだけど」
「まあ、……8割くらい、?」
「多すぎでしょ」

 ああ、まだ笑えるのか。笑ってから、そう思った。
 そういうものだ。自分もこの人も、きっと何も変わらない。今まで通り笑って、食べて、眠って過ごしていく。
 ただ、少し笑えなくなるだけだ。今までより、ほんのちょっと。

「生意気だもん、雲雀」
「実力に見合ったプライドを持っているだけだ」
「またカッコイイこと言って。生意気」

 出会わなければよかった、とは思わなかった。
 思ってしまえば、全てが紙くず同然になる。この人と過ごした部屋が、時間が、手の内で転がる鍵が。

「ありがとう、……雲雀」

 唇に温度が重なって、まるで夢から覚めるようだった。
 この人とのキスは、これで最後だ。最後でなくてはならない。

「ずっと、好きだったよ。きっと死ぬまで、好きだ」

 


 用意した箱庭の中で、繰り返しあやとりを遊んでいるような。
 そういう日々で、そういう関係だった。

 終わりが見えている毎日を、それでもいとおしいと思っていた。

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