8,Another end
バカだね。そう呟く声で、目が覚めた。
頬を撫でる手がひどく温かい。母親の面影などとうに覚えていなかったが、母性を感じた。母親が子守唄を優しく口ずさむような、そういう柔らかさ。
「……ひ、ばり」
「おはよう」
ピントが合う。視界のブレが収まって、目を細めて見下ろす黒い男が見えた。
雲雀。雲雀恭弥だ。
「……いま、朝?」
「朝?まさか」
ビックリするくらい掠れた声で問えば、ビックリするくらいバッサリ切り捨てられた。なんてことだ。
「……おはようって、そっちが言ったんじゃん」
「目覚めてこんばんは、もないだろう」
正論を言えば真顔でねじ伏せられた。ヴィーはゆっくり天井へ目を移す。
白い天井。この感じからして、どこかに寝かされているらしいことはわかった。わかったけれど、体は僅かも動かない。かろうじて首だけ動かせる。
「全治3ヶ月」
淡々と雲雀が言う。両腕が組まれたのを見て、頬を撫でる指が離れていたことに気が付いた。
「火傷、右腕骨折、肋骨にヒビ、全部で28針の大怪我。肺の回復は奇跡的だってさ。ただ後遺症は残るだろうね、ってヤブ医者が」
「……大けがじゃん」
「君の話だ」
他人事みたいに。音は聞こえなかったが、雲雀の唇がそう動いたのはわかった。綺麗な顔が、まるで苦虫を噛み潰したように歪む。
獰猛な美しさだった。整った大人の顔が不快そうに歪むさまを、まるで絵画でも眺めるように見つめる。
「晴れの炎の回復が追い付かないほどの重傷だったんだ。何で、あんな真似をしたの」
「……倒さなきゃ、と思って」
「と思って、自爆?」
鼻で笑われた。それもどうだ。
全治3か月のケガを負ってまで侵入者を撃退した相手に対して、半笑い。
「バカだね」
黒い瞳は、初めて会った時と同じような色をしていた。
最初に雲雀恭弥という人間を見たのは、薄暗い廊下の窓枠だった。
六道骸に抱かれた次の日だった。ついで言うと、綱吉に誘いを受けていた当日、獄寺にキスされた朝。
他人との交わりを抱えたまま、なんとなしに廊下へ出た。そして、窓枠に座って見えもしない空を眺めていたのだ。濡れた視界のような、曇り加工の窓ガラスを。
『……で?僕に紹介したい相手って、誰?』
『いえ、紹介したいというか……』
角を曲がって現れた、その人影を認めた瞬間にわかった。ああ、新しい「男」だ。
抱くか抱かれるか。多分、後者だろう。経験を積むうちに、自然と身についてしまった人工の勘だ。
息を殺し、窓枠を蹴って飛びつく。子犬が無邪気に人を慕うように、子供っぽさを装って。
大人はそういうのに惹かれやすい。自分が捨てた無垢さとか、計算の無い無意味な行動とかを。子供が本当に、何の考えもなしに行動しているかとは疑わないで。
『……あなた、下?』
口にしたのは、またがった男の目が冷めきっていたからだった。まるで、空から降ってきた子供になぞ、1ミリの興味もないかのように。
多分、間違いだった。
興味が無いんじゃない。観察されていたのだ。
「……じゃあ当分、雲雀のこと抱けないね」
「だから、僕が抱く方だって言っただろ」
雲雀が目を三角にする。ヴィーは笑った。
「本音?」
「は?」
「抱いてくれるんだ。俺の事」
思わぬ罠に気付いたように、雲雀がややたじろいだ。キツい視線が、空をさまよう。
「……そうは言ってないだろ」
「じゃあ、抱かなくてもいいから好きになってよ」
バッと、首が曲がるんじゃないかという勢いで見られた。
ガン見する瞳に、小さく笑って言葉を続ける。
「好きだって、言って。雲雀」
好きとか抱くだとか抱かれるだとか。
誰かに見てもらうためには、対価を差し出す方法しか知らなかった。
でも、この男には違う方法で見てほしいと思った。体ではない、何かで。
「……好きだよ。雲雀」
黒い瞳を見つめ返して、微笑んだ。
言葉という不確かなもので、確かにその目を縛るように。
きっと、もうそれだけでいい。