7,Last
救いとはなんだろう。誰かを愛するとは。
物心ついた時から、自分から切り離された感情だった。誰かに好かれるとか気にいられるとか、そういうことなら肌で理解している。けれど、寓話の中の愛情は別だった。
家族愛。友情。絆。仲間。
たまに山本がくれるマンガを眺めては、まるで別世界の話だと思っていた。打算の無い仲間も目に見えないものを信じて頼る友達も、とてもじゃないが正気じゃない。
対価があるから、人は結ばれるのだ。はっきりと目に見える対価が。
それがたまたま、自分にとっては体だった。それだけの話だ。
それなりの容姿と器用さ。そこに後から加わった媚び売りの上手さが加わって、自分は大人と交渉できる機会を持った。大人は快楽に飢えている。だからこそ余計、簡単だった。
そうだろう。そういうものであって、
『君の体は、そんなことのために使うものじゃないだろ』
ぎゅうっと、ハンドガンを持つ手に力を込める。銃口がブレた。
撃たれた頭を抱えてわめく大男の姿は、完全に手負いの化け物だった。切れたこめかみから血が飛び散って、床や壁にビチャッと貼り付く。グロテスクなヤモリみたいな色合い。
頬を、冷たい汗が流れ落ちる。息が苦しくて、肩が震えるたびに照準がずれた。抉られた脇腹から、血といっしょに脈動まで流れ落ちている気がする。
「……ックソ、止まれ、止まれ、」
指先の震えが止まらない。狙いは激痛に身をよじる男ではなく、その真横、棚に並ぶスプレー缶なのに。何のためにここまで誘導したかわからない。あれほど危険だと言われた武器庫まで転がり込んだのは、ただ。
「爆発して、くれッ……」
はぁはぁと、荒い呼吸を吐き出す自分の身体は別人の物のようだった。重たい。熱い。痛い。
内臓をゆっくりあぶられている気がする。耐え切れず、膝を付いた。
逃げられない。絶望の瞬間だった。
スプレーを撃って。毒ガスで満たす。この武器庫を。
銃弾が足止め程度にしかならない男でも、生体は自分と同じだ。毒ガスで密閉された小部屋に閉じ込められれば、数分で絶命する。そこを逃げ出すつもりだった。
自信はあった。身のこなしなら大人顔負けだと誉めそやしたのは綱吉だし、リスみたいな素早さだねと呆れた呟きで自分を評したのは雲雀だ。射撃の腕前なら骸の前で披露している。腕力はなくとも、逃げるだけなら勝てると思った。
自分が、重傷を負っていなければ。
「……っむ、頼むから……ッ」
カタカタと、全身が震える。指先は引き金にかかっているのに、あと数ミリが動かせない。ぐらつく銃口もだったが、何より、喉元から込み上げてくる冷たい衝動が邪魔をしていた。
怖い。恐怖だ。死ぬことへの、純粋な恐怖。
死の影を見た事は何度もあった。自分の上で腰を振っていた男が、急に縋りつき、心中を図ってナイフを突きつけてきた夜。標的を仕留めるために夜這いしたベッドで、狙いを察した相手に銃をこめかみに当てられた瞬間。骸と共に駆け抜けた抗争の場で、頬を銃弾が掠めた時。
けれど、まだ希望があった。それでも生き残ることができるだろうという、よるべない確信が。
「ぐ、ァァアア……!ウァ、ううッ」
「と、まれ、……ッ、止まれ、っ、」
大男が、ぐわっと体を反り返す。血しぶきの飛ぶ頭を切り離すように後ろへ勢いよく曲げ、体を小刻みに揺らして呻いている。痛みを紛らわすためか意識がもうろうとしているのか。
自分も似たようなものだ。逃げ損ねて抉られた脇腹が痛い。息が苦しい。耳の奥で殴られるような音がする。くら、と視界が傾きかけて、はっと唇を噛み締めた。すぐに耐えられなくなって、口を大きく開ける。
酸欠だ。酸素が、上手く吸えなくなっている。
隙間風のように、ヒュッと掠れた音が喉から聞こえた。重くなる腕で銃をかまえたまま、必死に息を吸う。途端に脇腹から激痛が走った。内部から切りつけられるような痛み。
ダメだ。ぐらぐら揺れる世界に目を細めながら、ヴィーは悟った。もたない。
早く。早く撃たねば。じゃないと、もう。缶を撃つ前に、自分の意識が飛ぶ。
そうすれば意味が無い。アジト中の人間が殺され、次はアジト外の一般人が狙われるだろう。無関係な人間の命が。
綱吉が1番望まない、無関係な者の血が。
「……ッや、だ……」
涙が流れた。嗚咽が漏れる。
嫌だ。それでも、身体が芯から冷えるように嫌だと思った。綱吉が悲しむだろうことじゃなくて、自分が死ぬという事実が。
この体では逃げられない。毒ガスの蔓延というタイムリミットの中で、暴れる大男の下をかいくぐりその目をあざむき、この部屋を脱出するなど。
ろくに立てもしないこの体で、何が出来る。もう、自分に使える武器は無いのに。
武器を持たない自分は、「ただの子ども」だ。
「っうう、ぐぁぁ、!」
「ッ!」
ぐるんっ。大男の顔が、急に持ち上がった。黒い瞳が、膝を付いて銃をかまえるこちらを、的確に捉える。
見ている。自分を。
冷や汗が、背中をつたった。一気に鼓動が早くなる。まずい。
「――――――〜〜!!!!」
獣のような咆哮。空気が鞭打たれたように震撼し、ヴィーの手足もビリビリと震えた。
はっ、と大きく息を吐き出す。痛んだ腹に唇を噛み、まっすぐに銃をかまえた。
自分を凝視し立ち上がる化け物ではなく、その真横に並ぶ、冷たい色のスプレー缶へ。
「……雲雀、」
抱かないと言った男。自分が何度誘いをかけても、絶対に頷かなかった人間だった。
やっぱり、襲っておけば良かった。無意味な後悔が、頭をよぎる。
あの人だけだった。自分に指1本触れなかったのは。
撃った弾は、完璧な狙いで毒ガスの群れを次々と撃ち抜いた。
誰かの叫びが聞こえた。自分の名前を呼ぶ、悲鳴が。