不在神を呪う――プロローグ

 ・いつか日の目を見たい長編のプロローグ



 あなたの幸福とは何。

「一生、わからないと思ってた。自分の幸福なんて」

 カチン。ジッポのホイールが回って、煙草に火が点いた。
 誘導灯の緑に照らされ、ぼんやり、銀色に光る。数年前、プレゼントされたものだ。

「煙草、やめたんじゃなかったの」

 暗がりから、低い声が響く。
 マンションの外廊下。誘導灯の光すら届かない闇だまりの中で、こちらを睨むように見据えている。
 自分が唯一、愛しいと思った男が。

「やめたさ。こんなものはいっとき、人間の脳と細胞を騙して美味しいと思わせるだけで、実質まずいし体に悪いし、碌なものじゃない」
「今、吸ってるじゃないか」
「最後だからね」
「何それ。曖昧な理由だ」
 
 暗がりから届く声に柔らかさは無い。雲雀は、外階段の前でじっとしたまま動かなかった。
 まるで、光を嫌い闇から獲物を見定めるヴァンパイアのようだ。誘導灯に照らされる自分を、外廊下の奥から鋭い眼光で見据えている。

「これで終わりだと思うと、急に名残惜しくなった。だからさ」
「へえ」

 そっけない返答だ。思わず、口角が緩む。
 二度、煙草を指で弾き、灰を落とす。それから、言い直すために口を開いた。幼児に数字の概念を教えるように、ゆっくりと。

「人間は、これで何かが終わるって瞬間、1番それに対して愛着が湧くんだよ」
「なんで?」

 吐き損ねた煙が、喉に戻って思わずむせた。

「ほんと、お前はそういう奴だよ。雲雀」

 例えば、祭りのフィナーレである花火に淋しさを覚えるように。砂浜に建てた城を崩す瞬間、猛烈に惜しくなるように。
 人は、何かの終わりに躊躇する。

「これで終わりだと思うと、急に口淋しくなったんだ」

 本能にもとづく心理なのかもしれない。
 生命の有無に関係なく、何かが終わるということは、何かの死につながるのだから。




 両親に愛されたかった。兄弟を愛してあげたかった。
 人を愛したかった。人並みに友達に囲まれ、彼女ができて、恋人ができて、やがて結婚して穏やかな生活を育みたかった。

「これで、終わりだね」

 愛したかった。

「終わりにしたいのは、君だろう」

 独り言のような声に、微笑みで返す。
 もう無理だ。自分はひとりで、ひとりだ。15の夏、マンションの5階で飛び降りられず泣きじゃくったあの日の自分が離れない。許されない。
 あの日、自分は救われたかった。誰かに手を取ってもらって、大丈夫だよと言われたかった。心からの心配と善意とやさしさに手を取られて、誰かに全部を聞いて欲しかった。

 そんな誰かはいない。

 だから自分は学んだのだ。誰も他人の事など気にかけられはしない。それは普通で当然のことで、自分自身もそうなのだ。だから仕方ない。
 自分の幸せは自分で作るもの。自分の不幸は自分で片付けるもの。苦難は乗り越えろ。努力はしろ。空気を読め。役割を察しろ。求められる動作を振る舞え。
 救ってくれる他人はいない。

 俺はひとりだ。
 だから。

「……ずっと、決めていたんだ。全てが終わったら、飛び降りて死のうと」

 雲雀は動かなかった。
 ただ、その目付きだけが僅かに変わる。圧縮した空気が鋭さを増すように。

「……なぜ」
「もう充分だ」

 じゅうぶん。口にした瞬間、本当に己が満足していることを知った。
 まるで体内の隅々にまで温かい湯が満ちていくように、心の一切が揺さぶられない。

「あの子たちは幸せそうだろう?」

 脈絡ない問いかけに、雲雀はやはり動じなかった。

「あの3人組のことかい?」
「そうそう」

 思わず、頬が緩む。
 さすが雲雀だ。己が言いたいことを、的確に読み取ってくれる。
 
「もう、充分だ。俺は満足した」
「意味が分からない」

 いよいよ、キッパリ言い放たれた。本心だろう。
 眉を寄せ、不快なものを見るような眼差し。詰問と不可解の混じり合う、他人を追い詰める側の瞳だ。

「何に、満足したって言うの」

 君が。葵、君という男が。
 音にならない唇の動きに、微笑んだ。

「満足したよ。全てに」

 


「……俺は、あの子たちの母になりたかったんだ」



back to top

ALICE+