・10年後
・キャラの死を含む描写あり
「疲れた」
そう呟けば、隣に座る男が笑った。
「君、何もしてないでしょう」
「してないよ。でも疲れた」
息をするだけで疲れる世の中だ。人間とはかくも不便である。
「寝て、起きて、息を吸って、吐いて。ただそれだけなのに、どうしてこうも疲弊するのか」
「不毛な男だ」
煙草を喫うより味気ない。そっけない一言には自分への侮蔑とか嘲笑とか呆れとかが存分に含まれていて、葵のまぶたを下ろすには十分だった。
「……お前のせいだよ、骸」
「今度は責任転嫁ですか?とことんつまらない人間だ」
人生に色と花を与えた男。
日常という目に見えないものにも確かに質量が存在するのだと、そう教えたのはこのひとだった。
薄っぺらな日々を、両手に抱え切れないほど重く、濃密なものへと書きかえて。
「……早く戻ってこいよ」
「無理ですねぇ」
次は、どこの六道へ堕ちるやら。
微か笑った男の、その呼吸音に重みはない。
「お前がいた頃は、疲れなんて知らなかったのに」
「それは嘘。情事の度に腰を痛めて呻いていたのは君でしょう」
ああ、そうだな。それすらも懐かしいよ。
そう呟くのもおっくうで、葵は静かに口を閉ざした。
バーカウンター。ひとつだけのグラス。
自分しかいないとわかっていながら、冷たいテーブルの表面に頬をつけた。