9,バッド・コミュニケーション、エンドレス・ハート


「……で、獄寺隼人と険悪になりました」
「お前、大概の人間と険悪じゃん」

 何を今更。隣を歩く昴が、しれっと言ってのける。
 骸は肩をすくめた。いつもの帰り道、いつもの夕暮れ。そして、いつもの暴言。

「君にだけは言われたくない」
「俺はもうちょっと上手く綱渡りしてるんで」
「綱渡ってる時点でどうなんですか」

 コミュニケーションを取るために綱渡り。そんなスリルを味わうところじゃないだろう。
 指摘すれば、昴はむむ、と口を曲げた。よし勝った。内心で、グッとサムズアップする。

「ていうかお前はさ、」
「何ですか」
「顔だけは良いんだから黙っておけよ。顔だけは」

 2回も言ったな、こいつ。

「失礼な。顔以外も良いんですけど」

 昴が両手を上げた。ホールドアップの劣化版みたいなポージング。わざとらしく目を開くオプション付きで、わぉ、と唇が動く。

「……何ですか、そのリアクションは」
「ムンクの叫び・Remix.ver.」
「君もけっこう、ネーミングセンスが壊滅的ですよね」

 絵画名にくっつく音楽用語。適当にも程がある。

「というか、ムンクの叫びのポーズは違います」

 昴の格好は、どちらかというとコントに近い。絵画の額縁より、テレビ画面が映えるコミカルさだ。

「知ってるっつの」

 馬鹿にすんな。目を三角にした昴の首に、もう湿布はない。僅かに残った歯の痕が、夕日に照らされてうっすら浮かんだ。

「てっきり知らないものかと」
「ひと通りの教養はあります」
「教養あるのにリミックスバージョンなんですか?」

 それでいいのか、中学3年生。
 昴は投げやりに肩をすくめた。別段、本気で拗ねているわけじゃないのはわかっているので、そのままにして隣を歩く。

 ディーノと一戦交えてから、それなりに経った。時間の経過は自然と心を癒す。ろくに会話をしていなかったいくばくか前から、今ではもう元通りだ。

「おかしいよな。なんでこんな碌でもない奴が女子にモテんだか」
「君、そっくりそのままお返ししますからね。毒舌男」
「俺が毒舌ならお前は何だよ。二枚舌の毒舌男か?」

 ジト目を寄越す昴の顔は、今日も今日とて変わりない。
 跳ね馬や獄寺隼人は、この顔のどこが好みなのだろう。それとなく観察しながら、考えた。
 見慣れた横顔。整っているとは思うが、好みだとかタイプだとかは共感しかねる。むしろ、ちょっと女々しいというか。

「……まあ、蓼食う虫も好き好き、と言いますし」
「ちょっと待てお前、今なんか暴言かましただろ」
「物好きも多いんですね、とだけ」
「暴言じゃんか」

 一瞬の隙もなく返る罵倒。体になじんだ応酬。
 こういう瞬間が、自分はわりと好きだった。だからきっと、毎日一緒に帰るのだろう。雨が降ろうと、昴が補習に引っかかろうと、彼が誰かに告白されていても。

「君も顔は良いんでしょうね」

 指を伸ばす。投げかけた声に誘われたみたく、昴がするっとこちらを見た。

「性格もな」
「目をつぶって自省をどうぞ。話はそれからです」

 顎の下に、くっと人差し指を差し入れた。骨の感触。
 軽く持ち上げれば、昴は目を閉じる。まさか、本当に自省する気だろうか。

「……最近、様子のおかしいお前を放っておいてやった」

 唇が動く。顎を持ち上げたまま、骸は目を細めた。
 昴が目を開けていなくてよかった。多分、動揺が顔に出ていただろうから。

「……それが何か」
「俺の性格の良さのひとつ」

 くすり。薄く引かれた唇が、いたずらっ子みたいな笑みを作る。
 閉じた瞼の横を、細い髪の毛が滑り落ちていった。

「何があったかは聞かないでおいてやるよ。どうせ、ディーノにちょっかいかけられたんだろ?」

 黙ったまま、昴の顔を眺めていた。今、すぐ口を開けばボロが出る。そうわかったから。
 昴は、どうせ見抜いているだろうが。なんせ、10年の付き合いだ。

「……ちょっかいというか、人類史について話し合っていました」
「エッ何それ怖い」

 嘘ではない。「ちょっかい」の50分の1を取り出しただけで。
 昴の顎が困惑に揺れる。指先から抜け出されては困る、と、力を入れて掴み直した。

「お前とディーノが?人類史について?やっぱりジャワ原人はいなかったんじゃないか、とか?」
「何ですかソレ」

 なぜ、そんな壮大な話になるのか。思わず笑った。
 昴はまだ目を開けない。それを良い事に、じっくり睫毛まで観察した。確かに、綺麗かもしれない。美醜にレベルを付けられるほど、自分は審美眼に長けていないが。

「多大な歴史改変になりますよ、それだと」
「ディーノとかやりそうで怖い。10年バズーカ改良して、こうバーンと」
「あの男はそこまでえげつなくないでしょう。大体、そうまでして何を変えるのか」
「そりゃ、ジャワ原人を消しに」
「まだその話題引きずります?君」

 一体何をしたというのか、ジャワ原人。
 目を細め、睫毛を覗き込んだ。長い睫毛は、やはり女性的な美を感じる。口に含めそうだ。

「過去を変えるなんて無意味ですよ。馬鹿馬鹿しい」
「……そう?」

 缶を蹴るより軽く言い放った。なのに、なぜか昴の雰囲気が揺らぐ。
 え。間をあけて返された二文字に、暗さを感じ取って戸惑った。
 密着する2つの体の隙間を、冷風がすり抜けていく。それと似た、どこか寒気のする暗さ。

「俺は過去を変えられるなら、」

 密やかな声。意図的に声を落としているのだろう。
 最期に誰かの幸福を祈るような、低い囁き。

「……あの日、骸の手を取って脱獄しない」

 呼吸が止まった。
 一切の生命活動をやめたような体を動かして、昴を見つめる。いつの間にか、瞼に口付けられる距離まで近づいていた。
 昴は目を閉じたままだ。距離間には気付いているだろうに。その顔は人形にも似て、感情が見えない。

「……なぜ」

 絞り出した声が、うつろに響く。自分のものではないようだった。

「自分で脱獄できるから」
「まるで答えになっていません」

 それは手段の変更だ。自分が聞いたのはそこではない。

「……あの日の僕を、拒むと?」

 あの日。
 共に脱獄した日。差し伸べた手を、目の前の少年が挑むような目で受け入れた瞬間だ。
 全てが変わった日。それを、昴は覆すという。

「わからないなら、わからなくていいよ」

 突き放す、と言うには弱い声。
 なるほど。低く呟く。目を閉じた白い顔を、すうっと冴えていく目で見下ろしていた。喉という急所を晒している相手に対して、この煽り。

「……今、思い付きました。変えたい過去」

 じわじわと脳を侵す高温。これには、覚えがある。
 いつぞや、昴が雲雀恭弥に薬を盛られた帰り道。軽い体を背中から振り落とした時も、こんな感じだった。脳に炎が浸みこむような、奇妙な感覚。
 手酷く、痛めつけてやりたい。この少年を。

「え?」

 昴の口が、うっすら開く。わけがわからないという声。
 今にもその瞼が上がりそうで、それは困ると片手で両目を上から覆った。ついでに、指の腹で眼球を軽く押さえる。途端、ビクッ、と昴の体が震えた。

「え?ちょっ待て、思い付いたって、今?」
「動かないでください」

 抑揚のない声が出る。自分でもたじろぐほどの。
 昴が腰を引こうとする。それを阻止するため、顎を掴む力を強くした。皮膚に指が食い込むほど、強く。

「いや、てか痛いし放せよ。目潰しする気か?」

 昴の声が焦っている。骸の腕を引っ張る手は、微かに震えていた。
 強がりもここまで来ると無謀だ。冷静に、頭の片隅が呟く。

「……もし、本当に過去を変えられるなら、」

 静かに言葉を紡ぐ。昴の目を覆っていた手を離し、間髪入れず、その瞼に唇を付けた。目頭にキスを贈るように、けれどそれよりは遥かに強く。
 びくっ、と昴が肩をすくめた。骸の腕を掴む手が、細かく震えている。
 可哀想だとは思わなかった。むしろ、肌を彼の爪がひっかいた瞬間、高揚感すら覚えた。


「あの日の君の左目に、この目を入れてお揃いにします」

 
 口を開く。皮膚の柔らかさを確かめるように、昴の瞼に歯を立てた。



「すみませんでした」

 歩道の端、どこぞの家の花壇に座ったまま言う。別に植物を踏みつけているわけではなく、縁に腰掛けているだけだ。
 一応、自分にだって常識はある。人の家の花壇を踏み潰すのは悪い事だ。

「ぜってー悪いと思ってないだろ馬鹿」

 仁王立ちする昴が吐き捨てる。一瞬、心を読まれたのかと思った。
 見下ろす目は、ギラギラ光っている。どうやら、けっこう本気で腹を立てているらしい。昴は。

「まあ、良かったじゃないですか。目を傷付けたわけでもないですし」
「俺のハートが傷付きました」
「ええ……」
「おい、加害者のクセして『ちょっと引きました』みたいな顔やめろ」

 イラついた顔で頬をつねられる。「いはいです」と抗議しつつ、手を払うのはやめておいた。
 そう、常識はあるのだ。自分にも。だから、「やりすぎた」のはわかっている。その償い代わりに、頬を変形させようとする指を受け入れてやっているのだから。

「人を背中から落とすにしろ瞼に歯立てるにしろ、お前はワンクッション入れろっての!」
「はぁ」

 そういう問題だろうか。その理屈だとワンクッション入れれば何をしてもいい、ということになるが、口に出すのはやめた。雉も鳴かずばなんとやら、というし。

「口があるんなら、頼むから喋ってくれよ。なんで無言で実行すんの?獣なの?」
「失礼ですよ。獣にも吠えるとか威嚇とかがあります」
「お前を馬鹿にしてたんだよこの南国頭」

 すごまれる。それもノンブレス。大人しく、黙ることに決めた。
 さすがに、二度目の腹パンは避けておきたい。いくら人気が無いとはいえ、あの絵面を外で繰り返すのは憚られるし、何より物理的ダメージがすごい。

「お前の!口は!人の瞼を噛むためにあるんじゃないだろ?!」

 ぐい。ぐっ。ぐい。区切られるたび、頬を引っ張られる。無駄にリズミカルだ。容赦や手加減は一切ない。太鼓を叩く代わりに引っ張ってます、みたいな力加減。正直、やめて欲しい。
 目を三角にする昴に、ふと、獄寺の声が頭をよぎった。

 喋れよ、ちゃんと。言葉で表さねーから、面倒な事になる。

 なるほど。確かに、言葉にしないから、こうして頬を伸ばされる事になるのかもしれない。

「……獄寺隼人も、たまには良い事を言いますね」
「おい、俺の話聞いてたか?」

 剣呑な声が降ってくる。解放された頬を撫でながら、顔を上げた。
 見下ろす顔は見慣れたものだ。笑っていようが怒っていようが、どれも初めて目にする表情では無い。
 それが、10年の重みだ。

「……聞いてませんでした。面倒で」
「おい!!」

 いい加減にしろよ。頭にチョップを繰り出され、衝撃に目をつぶる。
 面倒だ。心から、そう思う。
 この距離間をずるずる維持したいという思いも、時折よぎる猟奇的なまでの独占欲も。

「痛いんですけど……」
「そりゃ痛くしたからな」
「ドSですねぇ」
「痛覚が正常ってわかったじゃん。良かったな」

 口端をつりあげ、皮肉っぽく笑う顔。
 この少年を、自分の物にするつもりは毛頭ない。けれど、誰かに盗られると思うとゾッとした。

「君、顔が良いらしいのに、本当に性格が残念ですね」
「『らしい』って、なんでちょっと疑念混じってんだよ」
「僕のおめがねに、君の美は叶わなくて」
「目が腐ってんじゃね?」

 発言がいちいち過激だ。

「そういうところですよ、性格悪いって言われるのは」
「ここまで口悪いの、お前にぐらいだから安心しろよ」

 つまらなさそうに昴が言う。リュックを背負い直し、「ん」と仏頂面で手を伸ばされた。

「……? ハイタッチ?」

 目の前、差し出された手のひらに困惑する。とりあえず、と軽く叩けば、信じられないものを見る目で見下ろされた。 

「そういうボケ、今やるか?」
「ボケではなく、至極真剣なのですが」
「まじか。感性も腐ってるな」

 息を吸うように罵倒が混じる。こうして戦争は起こるのだろう、と骸はしみじみ思った。

「手ぇ貸してやるから立てって事だよ。早く帰らないと」

 犬たちが、夕飯できるの待ってるだろ。当たり前のように昴が続ける。
 夕陽に光るその顔を、じっと見上げた。黒い睫毛に縁どられた瞳は、のっぺりとした自分の無表情を映している。
 いつか、この感情にも区切りがつくだろうか。人間を二分するように、必要と不必要のどちらかに放り込めるだろうか。自然に手を差し伸べてくる、この少年も。

「……今日の夕飯当番は僕じゃないので、早く帰る義理は無いのですが」
「ホンット可愛くねえな〜、骸って」
「僕が可愛かったら大問題でしょう」
「これだから理屈屋な奴ってキライだわ」
「好き嫌いは良くないですよ」
「ブロッコリーよけるクセをなくしてから言ってくれませんかねぇ」

 手を握り、立ち上がる。何事もなかったかのように隣を歩き出す昴を、横目で見た。
 人は、理屈屋なくらいがちょうどいいのだ。感情だけで生きていたら、今頃、昴の肌はアザと噛み痕だらけになっていただろう。

「……君は、理性を的確に先に持ちだす僕のクセに、感謝した方がいい」
「は?」

 何の話だよ。こちらを向いた昴が、眉をひそめる。
 いつか、この少年を突き放せるだろうか。見慣れた顔立ちから目を背け、前を向く。
 「不必要」のカテゴリへ。この衝動と感情ごと、全て。


 その瞬間が、いずれ他者の手で暴力的に行われる事を、骸はまだ、何も知らない。

ALICE+