3,薬盛り大騒動・下


「……で、君はなぜ盛られてたんですか」
「や、なんかちょっと盛ってみたくて、とか言われて」
「は?君、そんなちょっとお茶買いに行っていい?みたいなノリで盛られたんですか?」

 笑う。声に力が無さすぎて、ますます笑えた。
 骸におぶってもらっているからかもしれない。暖かい背中に、神経が緩む。布団にくるまれたみたく、じんわりと。
 心中と反比例して、空は暗い。この調子だと、黒曜ランドに着く頃には真っ暗になりそうだ。

「俺と同じ事言うなよ」
「全く君は。そもそも、人に出されたものをヒョイヒョイ飲むなど」
「だって盛られるとは思わないじゃん……」
「雑草ならなんでも齧る野ウサギですか」
「エ、ちょっとすんごいアクロバティックにけなされ……ゴメン、俺いま薬で頭回んないから、センス良く返せない」

 微妙な沈黙。骨が喉に刺さったような間を空けて、骸がため息をつくのが聞こえた。
 内心で、やや戸惑う。何かしら悪態が返ってくると思ったのに。

「……調子は」
「え?」
「調子」

 犬にお手を命じるような、ぶっきらぼうな口調。
 珍しい。骸が単語で喋るとか。

「だいぶいいよ。口と、あと頭は動く、かな」

 あちこちに力を入れて、確認する。他は神経を切られたかの如く動かないが。
 薬は少しずつ抜けているのだろう。乱闘騒ぎからずいぶん経ったし。

『またね』

 不意に、雲雀の声がよぎる。応接室を出る間際、そう言って笑った顔だ。
 率直に言ってコワかった。契約を結び終えた直後の悪魔なんかは、あんな感じで楽しそうに笑うのだろう。多分。
 コレは次もあるな。昴は悟った。非常に絶望的な気持ちで。
 マーキング済みの獲物をワザと手放して逃がす。こちらを見送る雲雀は、そういう態度だった。

「何、されていたんですか」
「ん?」

 重たい頭を、少しだけ上げる。自分をおぶる相手の顔は、ここからではわからない。

「え、だから、悪意ある好奇心でクスリ」
「何されてたんですか?」

 遮られた。「盛られて」と言いかけていた口を、一旦閉じる。眉を寄せた。寄せてから、骸にも自分の顔が見えない事に思い当たる。

「……骸?」
「何されたんですか」

 早口。ボタンを押して早送りをかけたみたく。
 同時に、言葉が微妙に変わった事に気が付いた。何を「されていた」でなく、「された」。些細な変化だったが、溝を飛び越えるように何かが変わった気がした。
 骸の中の、何かが。

「え、怒ってる?お前」
「質問に答えてくれません?会話にならないんですが」

 少しだけ、安堵する。いつもの骸に近い返し。

「迷惑かけてごめんって。今日は俺が晩ご飯作ってやるから、」
「何されたんですか?」

 胸が冷えた。繰り返される言葉に、氷が背をつたうような寒気を覚える。
 え、何これ。ホラー?白い横顔を、無言で窺う。時刻としてはピッタリだが。

「……え、何。怒ってんの?」
「いえ。別に」
「じゃあその、ロボットみたいに繰り返すのやめろよ」

 ため息が聞こえた。導火線を切り落とすような乾いた音。

「……相手と会話が成立しない場合、次はどういう手に出るのがいいと思いますか?」

 ぞわっとした。平坦な骸の声は、プログラミングされた機械音声に近い。自分を背負う背中が、急に別人のものに思えてくる。

「……も、文字で伝達、とか?」

 無理やり、口を動かした。
 認めたくない。今、自分が骸に恐怖を感じている、なんて。

「残念」

 切り離すような4文字が聞こえた。同時に、ふわっと体が浮く。
 え。


「物理的な手段を取るんですよ」


 ドサッ。
 1秒遅れて、腰から衝撃が走った。



「いっ……」

 声も出ず、悶絶する。背中から脳髄まで、痛みが駆け上っていった。体がろくに動かないせいで、患部を押さえることもできない。
 落とされた。骸に。腰を支えていた両手を放されて。シグナルが途切れ途切れに信号を送るように、事実が後から追い付いてくる。

「痛そうですね」

 一般的見解を述べました。みたいな声に、涙目で上を見る。
 人は限界を越える痛みに遭うと言葉を失う。というのは、エストラーネオファミリーで学んだ事だ。人体実験中に。
 施設ごと潰して約10年が経った今、再び身をもって思い出す日が来ようとは。

「……っ、なに?せめて、ワンアクションくれよ、くっそ……」
「舌打ちしましたけど」
「わっかりにくいんだよ大馬鹿野郎アナウンスしろアナウンスを、ホウレンソウって言うだろうがこの南国頭おまえは頭の中まで果実なの?スッカスカなの?っ、いってッ」

 痛みで顔が歪む。腰と背中、それから足首。火を点けられたような疼痛に、自然と口が悪くなる。
 ここまでの悪態は久しぶりだった。クロームという華が来たのもあって、ここ最近は控えていたし、そもそも骸と喧嘩沙汰を起こしていない。

「すみませんね」

 骸がつまらなさそうに言った。たった今、人ひとりを背中から振り落としたようには見えない。
 ここまで堂々とされると逆に立派だ。刺したい。体が動くなら、こうサクッと。

「ひとつ答えてくれたら、ちゃんと持ち帰ってあげますから」

 膝を折り、骸がこちらを見下ろす。その向こうに、藍色に沈む空が見えた。
 骸の片目と同じだ。冷めたオッドアイと同じ、暗い色。

「……持ち帰って、って」

 痛みのレベルが、ずきずき、からじんじん、あたりにやっと治まる。俺は荷物じゃないんですけど、とうめいた。

「何、されたんですか?」

 本日、3回目。いや、4回目か。
 動けないまま、目だけで頭上を見つめていた。見下げるオッドアイは冬空より冷たい。何を考えているか読めない。
 わからない。本当に、全く。

「……別に、何も」
「ほう」

 実験中のモルモットが死んだ。そういうのを見守る目だった。端的に言って怖い。
 そんなに嫌だったか?動かない体に反して、脳だけがかき混ぜられるみたく焦っていく。確かに迷惑はかけた、かけたけど、でも。
 こんなに怒らせるほど、何を。


「ソファに押し倒されておいて?」


 ……え。
 まばたきする前に、動いた。見下ろす骸の体が。



 運動神経は切られていても、感覚神経は正常だった。
 それが災いとなった。

「……は」
「君って、不用心なんですよね。妙なところで」

 つまり、触覚はきちんと働いていた。運の悪い事に。
 両手首を握る骸の手の感触を、自分の皮膚はしっかり伝えていたし、上にのしかかる骸の姿を、自分の目はちゃんと送っていた。どこへと言えば、昴の脳へ。

「隙の多い少女は庇護欲と嗜虐性をそそると言いますが、理屈はそれと同じでしょうか。美人なら尚更」

 仰向けで動けない自分の上に乗っかり、骸が面倒くさそうに言う。
 今更のように、心臓がどくどく言い出した。鼓動が早い。指先が震えて、慌ててぎゅっと握り込む。

「……何が言いたい」
「去勢とかすればいいのに、と思って」

 ちょっと本当に言葉が見つからなかった。

「きょ、……きょせい?」
 つっかえつっかえ、オウム返しで問う。

「ああ、下垂体の方でしたっけ。性ホルモンの分泌場所は」

 この前、授業で習いましたよね。骸が言う。放課後の雑談みたいなノリだが、内容は非常に物騒だ。
 エッ、これ何の話だっけ。昴はごくりと生唾を飲んだ。

「……俺はどっちも、切除されたくないんだけど」
「じゃあ、雲雀恭弥に何されたんですか?」

 じゃあ。じゃあって何だ。答えなきゃ切除されるのか?
 言い返そうとして、目が合う。一瞬、収まっていた心臓が、また早鐘を打ち出した。

「……言って欲しいの?」

 重なった目線に、熱を感じた。
 視線に温度が無いなんてウソだ。じゃなきゃ、今こうして上昇する体温に理由がつかない。
 
「さっきから、そう言っているでしょう」

 ぎゅっと、手首を握る力が強くなる。痛い。
 ゼロ距離って最悪だ。骸に握られた部分が、発火しているみたいに熱く感じる。
 限界だ。そう思った。

「……押さえつけられた時に、」

 声が震えないよう、十二分に気を付ける。息を吐くのさえ、意識しなければ上手くいかない。

「ちょうど、お前が来た。……だから、」

 策士だ。昔、千種に言われた。
 言葉遊びが巧みで焦らし上手。男遊びの得意な悪女みたいだね、と付け加えられて、お前、悪女にたぶらかされてんの?と笑った。覚えている。
 自覚はあった。言葉遊びは好きだし、他人の心を泳がして本心を見透かすのも嫌いじゃない。人を掌握するのは得意だ。
 骸以外の前では。
 
「だから、何も。……何も、されてない」

 また、つっかえた。ああもう。
 うまく回らない舌にも、どくどく煩い心臓にも、苛立つ。期待している自分にも。

 ――お願いします。

 自分が手を握った時、体を震わせた女子と同じだ。
 馬鹿だと思った。理屈では押さえ込めない部分が、もしかして、と期待する。人が心と呼ぶ部分が。骸の一挙一動に。

 惨めだ。
 理性の及ばない感情が、馬鹿の一つ覚えみたく何度も期待する。目が合うたびに、発した言葉が重なるたびに、骸に触れられるたびに。
 アクセルに劣るブレーキなんて意味が無い。頭が感情を淘汰できないなら、それは人間じゃなくて獣だ。だから、期待なんてしない方がいい。わかっている。わかっているのに。
 頭のどこかがわかってくれないから、多分、これは恋なんだろう。


「…………そうですか」

 長い、長い沈黙だった。一瞬、こいつ意識あるよなと疑ったほどに。
 耳が痛くなるような静寂の後、骸はゆっくり身を起こした。ほっとする。

「雲雀恭弥と同じことをしてやろうと思ったのに」

 緩んだ精神を一突きされたかと思った。
 息が詰まったまま、相手を見上げる。手首を放して立ち上がる、10年来の友を。
 友。仲間。親友。家族。どれだろう。
 どれだろう。自分と骸を表す関係は。

「……なんて、」

 ね。こちらの顔を見た骸が、付け加える。
 なんて、ね。何だそれ。フォローのつもりか。大雑把すぎる。

「落としてすみません。立てますか?」

 すっと差し出された手に、パチンと空気が鳴った気がした。
 いつもの流れ。何百回と繰り返した日常会話に戻る合図だ。

「立てない。早く起こして」
「赤子ですか君は」
「白馬の王子なんだろ?助けてくれよ」
「王子だって、ひっくり返ったカエルみたいな姫を迎えに来たくはないと思いますが」

 背負い直されて、気付いた。あたりの暗さに。
 良かった。明るい最中だったら事件以外の何物でもない。男子高生2人が、歩道の端で謎の取っ組み合いなど。

「二度と」
「うん?」

 骸の首に両手を回す。あ、腕動いた。
 前から聞こえた声に、首をかしげた。

「二度と、こんな目に遭わないでくださいね」

 いつもより、僅かに低い声。
 骸の肩に、黙って頭を預ける。返事代わりに、頷いた。

 その言葉の意味を聞けたなら、こんな不毛な思いはしなくて済むのだろう。きっと。

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