2,ゼロサム(2)



「理科室ってロマンあるよな」

 口ずさむみたく碧が言う。商店街を練り歩くように闊歩して、その手が薬品の並ぶ棚にかかった。

「ロマン?」
「例えば、」

 あっさり棚の鍵も分解し、碧が中からガラス瓶を取り出す。

「コッチが塩酸」
「へえ」

 貼られたラベルを横目に、適当に返した。

「こっちが次亜塩素酸ナトリウム」

 唐突に薬品名が難しくなる。
 
「……へえ」
「混ぜると人が死ぬガスが発生する」

 さらっと断言される。いつもと変わらない声のせいで、一瞬、何を言ったのか理解できなかった。

「……ガスで死ぬロマンってどうなの?」
「なんで俺が自殺する前提なんだよ」

 違ったのか。内心、ややほっとする。
 碧の行動は読めない。良くも悪くも、抵抗が無いからというだけでピアスを増やすチャレンジャーなのだ。

「大体、それだとキョウヤも巻き込まれるぞ」
「なんで巻き込まれなきゃいけない。僕は出てくよ」
「堂々と言ってるけど自殺幇助だからな、ソレ」

 わざと足取り悪く綱渡りをする。人生をスリリングに楽しんでいるとも、今に落ちても構わないという開き直りとも取れない、そういう危うさ。
 碧の在り方だ。

「どうせ、あと数時間後には誰も気にしない」
「ええ……人としてどうなんだよ。止めろよ」

 すごいな。感心した。
 今までの己の所業を全て無視した発言。もはや才能を感じる。

「君、頭良いのにどうしてピアスあけるのかな」

 碧が狐につままれたような顔をする。

「え?今の繋がりあった?」
「あった」

 頭が良い。というのは、単純に知識量の話ではない。
 都合よく自分を棚上げする器用さ。それでいて他人を惹きつける声の発し方。かつ一線を引く乱暴な物言い。

『人との繋がりを、全部切ってみたいと思ってた』

 人と繋がりたくない本心と、繋がらないといけない現実の認識。そこの解離に苦しむのではなく受け入れる。14歳とは思えない、どこか冷めた大人の目線で。

 つまり、頭が良いのだ。生きていくうえで。

 自己本位にも気紛れにも見えるのに、芯から他人に嫌われる事はない。仕方ないな、と呆れたため息で済まされる範囲で動いている。力や権威を振るわずに。
 だから今、雲雀は感心しても苛立ちはしないのだろう。バカだな、と思うだけで。

「意外と日頃の行いがいいよね」
「えっ、なんか褒められ始めたけど俺死ぬの?」

 碧が怯えた目付きをする。一歩間違えば死の原因となる薬品を開けながら言っているんだから、とんだ茶番だ。

「君のやってることって、いつも大体意味があるから」

 半年前のあの日、結局、校長はピアスを黙認した。初日に殴られた男子生徒も、気付けば碧に絡んでいた。
 多分、そういう事なんだろう。器用なのだ。人生に対して柔軟性があるというか。
 裏を返せば、自分が無いという事だけれど。

「お、おう」

 相槌を打たれる。今まで見た中で、1番深刻そうな顔。

「でも、ピアスだけは意味がわからなかった。威嚇?」
「威嚇て。言うに事欠いて威嚇って何だよ」
「小動物は毛を逆立てて自分を大きく見せる」
「知ってるよ。猫とかな」
「君のピアスはそういうことでしょ」
「どういうことだよ」

 碧の目つきが元に戻る。ガラス瓶を開封する手は、ペットボトルのフタをひねるより躊躇が無かった。

「ちょっと、自殺始める気なら僕は出るよ。ドアはちゃんと閉めてね」
「料理始めるみたいな口調で言われても」

 もうちょい焦ろよ。けらけら、ガスより軽く碧が笑う。その手が開けたのは塩酸の瓶だけだということに、その時、気が付いた。

「塩酸、好きなんだ。俺」

 戸惑う。話が見えない。
 碧の手が「HCl」と書かれたラベルの瓶を引っ掴む。雑草を抜くような粗暴さで。

「皮膚が溶けるから」

 瓶が傾く。口先は、碧の手のひらにあった。

「ッ、バカ!」

 とっさに体が動いた。ガシャン、とけたたましい音が鳴り、壁に破片が炸裂する。

「……わあ」
「ば、……馬鹿なの?君」

 途切れ途切れに呻く。呼吸が荒い。水中から出たばかりのように、心臓がひっきりなしに脈打っていた。

「お前……凄いな」
「そうだね、僕の反射神経に感謝しなよ」
「いや、それもそうだけど」

 ちらり。部屋の隅、積もったガラス片を見やり、碧が頭を振る。

「飛躍距離、約2メートル」
「は?」
「片手でガラス瓶を教室の反対側まで飛ばした。その運動神経は誇っていい」
「咬み殺すよ……」

 脱力する。その場に突っ伏しそうになった。
 怒りより先に疲労が来る。何を言っても会話が成立しない宇宙人を相手にしてるみたいだ。

「ていうか、ナトリウムも皮膚は溶けるでしょ」

 開けなかった方の瓶を見る。机の上、きちんと乗ったそれは何事もなかったかのように直立していた。

「塩酸は痛いから」

 さらり。バナナは黄色いから、みたいに返される。なんだその理屈。
 理科室の隅、ガラスの下からゆっくり広がる塩酸を眺めた。床をジワジワと浸食しているみたいにも見える。

「痛いのが好きなの?」
「いや、嫌い」
「言ってること無茶苦茶。やってることもだけど」
「でも溶けるのは本望」

 広がる無色の液体から、目を離した。
 碧は、自分の手のひらを見下ろしていた。そこに何かが見えるかのように、じっと。
 塩酸は一滴もその皮膚にかかっていなかった。あれほど勢いよく瓶ごと吹っ飛ばしたのに。ミラクルだ。

「腹の内で、宙とひとつになって生まれてこればよかった、って昔はよく思ったんだ」
「へえ」

 相槌だけ打つ。それがいつものブラコン発言と違うことだけは、わかった。

「小学校の時、七夕で願い事を書きなさいって短冊渡されて」
「うん」
「弟とひとつになりたいです、って書いた事もある」
「大問題じゃないか」
「職員会議になりました」

 担任も困惑ものだろう。可哀想に。

「だからって塩酸かけるのはどうなの?」
「やってみたくなっちゃって」

 出た。息を吐く。
 写真に落書きするように、やってみたいからという理由だけで動く性格。その好奇心は、やはりどうかと思う。

「好奇心猫をも殺す、って知らない?」
「ごめんね」

 唐突な謝罪。驚く前に、戸惑いを覚えた。

「キョウヤが止めてくれるかなって、ちょっと期待してたんだ。実は」

 女子をざわめかせる顔を僅かに崩し、碧が肩をすくめた。ウソを見破られた子供みたいに、眉が下がっている。

「……そりゃ、止めるでしょ。目の前で人の手が溶けるのを見たくはない」
「人生最後なら1回くらい見てみたくない?」

 何を言っているんだろうか。真剣な顔で聞かれても困る。

「僕は君みたいに趣味悪くないから」
「そうかなぁ」

 なんで「ホントかなぁ」みたいな顔をされなくちゃならない。
 一発殴れば、「痛いの嫌いって言ったろ」と避け、碧は「次行こうよ」と勝手に歩き出した。



 やっと校内を回りきった頃には、空が鈍い赤色に染まっていた。
 屋上に逆戻りした今、時間の経過が目に見えてわかる。

「あと40分ぐらいかな」

 空を見上げ、碧が呟く。スマホも無いのによくわかるな、と思った。
 この少年が腕時計をしないタチなのは知っていたが、その理由を今知った。体内時計が優秀なのだ。

「夕暮れは綺麗だなぁ」
「感傷的だね」
「あと40分で世界終わるんだぞ。ちょっとはセンチメンタル浸れよ」

 別にどうでもいい、と思った。
 強がりではない。雲雀は世界の終わりに興味が無かった。だから碧が残り時間を告げに応接室へ飛び込んで来た時も、心から馬鹿馬鹿しいと思ったのだ。

「人はいつか死ぬよ」

 だから、世界終焉など関係ない。
 その時その時、後悔など無いよう生きてきた。それは死を意識したわけでなく、雲雀個人の生き方だ。
 何かを悔いるような日常なんて嫌だ。並盛を守るために、ああすれば良かった、ああしておけば、なんて省みるのは気持ちが悪い。

「そうだな」

 赤い空を見つめ、碧は何かを探すようにひたすら目を凝らしていた。影の落ちた横顔を眺める。

「君も、世界の終わりなんて意識してないだろ」

 声に出して問う。聞いた事は無かったが、多分、この男は自分と同じ価値観だと確信があった。
 ただ一点、他人をねじ伏せるなら自分を殺す方を選ぶという点以外は。

「まあな。むしろ死に方としてはラッキーじゃね?世界と一緒に存在も消えるってだけで、苦しむとか痛むとか無いらしいし」

 ほら。アッサリ肯定する。

「津波とか爆撃とかで死ぬよりよっぽど良心的だよなぁ」
「良心的って」

 思わず笑っていた。その言葉はさすがにどうなのか。

「他者の悪意の元で刺されるわけでも首絞められるわけでもないし。ポップな自殺って感じ」
「君、その人格形成を根本から疑われる発言はやめた方がいいと思うよ」
「キョウヤに人格疑われるとか心外ー」

 トンファーを振るったが、内心、そんなに不快ではなかった。
 平気で人間性を疑う発言をするところ。碧のそういう面が好きだった。何かに、例えば大人の言う常識とか道徳とかに囚われない。自分の定めたルールの内で、自分の考えを保持している。
 そういう人間が、でも生きるために本心を抑えて生活を送る。その奇妙なねじれが見えた時、雲雀は本気で面白いと思ったのだ。

「今日の君を見てて思ったけど」
「うん?」
「君って、弟がいなければ今頃捕まってるよね」

 弟の存在が無ければ、おそらくこの男は普通に生活していない。そういうねじれの原因も、雲雀が気に入る要因だった。
 守りたいものがあるからこそ、この少年は自身を殺す。社会の「普通」の枠組みで無理やり生きる。
 バカだな、と思う。哀れだなと思うのと同じくらいに。

「まー、宙は俺の全てだしな」

 いなかったらむしろ死んでるわ。この世に1ミリも未練がない、とばかりの口調。

「やっぱり、今からでも行けば」
「どこへ?」

 うろんげな目付き。空から外れたその両目に、しっかり自分の視線を合わせる。

「弟の元へ」

 世界は終わる。あと30分いくばくかで。
 なぜこの少年が自分を選んだのか、そこはまだ聞けていない。聞いていないけれど。

 同じであればいいと思った。
 価値観と一緒で、今、隣にいたい理由が同じであれば。

「……キョウヤ」

 ガシャン。両腕が、自分を囲った。
 フェンスに雲雀の背中を押し付けて、碧がじっと見つめてくる。金網と碧に挟まれた状態だった。
 青と黒の中間みたいな虹彩。雲雀が1番好きな、陰の混じった熱のある表情。

「抱いて」

 吐き出した息が、震えた。
 勝った。そう思った。賭けをしていたわけではないのに。
 耳の横、ぎゅっとフェンスを握る腕を掴む。小さな生き物を触るように、その指を金網から外した。

「いいよ」

 きっと、今日という日が来なければ、一生言う事は無かっただろう。
 自分は並中を、碧は弟を手放して、その時、初めて向き合えるから。

「痛いのは嫌なんだっけ?善処するよ」
「わぁ、キョウヤさんノリノリですね〜」

 ふざけた声音が、微妙に震えている。
 その微弱な揺れを止めるように、腕を背中に回して抱き込んだ。

「やりたいことはやっておかないとね」
「何か、全部エロく聞こえる……」
「性根が腐ってるからだよ」
「エッお前が言う?」

 ごちゃごちゃうるさい口を塞ぐ。碧が息を詰めるのがわかって、一気に気分が良くなった。

「……お手柔らかにお願いするわ」
「構わないよ。どろどろにしてあげる」

 いっそ、2人が溶けて入り混じるくらいに。
 もう一度キスをして、それから少しだけ顔を離した。

「恭弥」

 ぐしゃり、碧の顔がゆがんだ。その目に涙が溜まって、青色が飽和するように綺麗に滲む。
 初めて、漢字で呼ばれたような気がした。名前の全てを味わうように、柔らかく。

「……何。碧」
「ずっと好きだった、」
「……そう」
「らしい。俺」

 笑った。なんだそれ。

「なんで客観的」
「いや、なんか今気付いたわ」

 落ちる涙を指でぬぐってやる。温かい温度に、碧の体内から生産された物なんだな、と思った。

「他の人間とは断ち切っても、お前とだけは繋がってたい」
「弟は?いいのかい?」
「あ、宙は別枠なんで。悪いな」
「台無し」

 嘘でも僕が1番って言いなよ。そう笑って、額に口付けた。

 

これが、最後にやり残した事。


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